蜘蛛、そして晩蛍。

蜘蛛、そして晩蛍。

#守月スズミ #正義実現委員会モブ

 噂というものは止め処ないもので、言伝に伝わっては水平に伝播してゆく。

 人から人に乗り移るたび、その内容はより刺激的に、より凄惨に変質していくのが世の常であった。そして、白い幽霊の噂も例に漏れることはない。と、言ったよりも、そういった不安を 強く煽るものの方が広まりやすく、話として生存しやすいのだろう。

 兎角、いつの間にか噂話の砂糖を奪う幽霊は、夜中に一人で出歩く生徒を襲って喰らう、恐ろしい怪物に成り代わっていたのだ。


 怪物がやってくる。

 私を拐いにやってくる。

 どうして?なんで私なの?囮役をやったから?銃を向けて敵意を示したから?わからない、けど、とにかく逃げなくちゃ……!


【イケませんよ。ドコ?何処にイルのですか?】

【ダメですよ。渡しなさい。まだ間にアイますから】

【コチラへ来て。手を伸ばシテ。コッチに来なさい。渡セ】

【ダメですから。逃げナイで。怖くアリません。痛くアリませんから】


 訳のわからない言葉を吐き続けるあの怪物は、ゴリゴリと不快な足音を響かせる。アスファルトを削り、木の葉を揺らし、街灯を遮って、甘い匂いを撒き散らしながら。怪物が私を追いかけてくる。

 砂糖菓子でできた怪物は、蜘蛛のような脚を身体中の至る所から伸ばしていて、その先端はコンクリートを容易く引き裂いた。脚の根元には皮と骨だけになった白髪の少女が吊り下がっている。赤黒い血の涙を垂れ流す双眸がはっきりとこちらを捉え、歯軋りの止まない口が吐き出す胡乱な言葉が不安を煽り背筋を冷たくさせる。

 終わる。アレに捕まったら二度と戻れなくなる。そう直感する。

 恐怖を原動力に私は走る。生への執着が背中を押す。死にたくない。生きていたい。死んでしまうとしてもここじゃない、あれじゃない、あんなものに殺されてたまるか。

 よく知った街中を駆け抜ける。不良グループが正義実現委員会の追手を撒くためによく使う入り組んだ裏道。いつもは人で賑わう大通り。ハスミ先輩お気に入りのスイーツショップに繋がる道。ツルギ先輩がこの間大穴を開けた携帯ショップに向かう横道。

 右へ左へ、不自然なまでに静かな夜の街道を息を切らして駆け抜けて、たどり着いたのは袋小路。

「そんな……。嘘、ここはちゃんと道が繋がっていて……」


【行きマスね。ソチラに。待ってイテください】

【動かナイで。逃げルナ】


 怪物がやってくる。

 私を壊しにやってくる。

 夜は暗さを増して、不快な足音が近づいてくる。

 ああ、終わりだ、お終いだ。

 逃げ場はなく、もう間も無く怪物が私を喰らいにやってくる。シロップの唾液に塗れて、砂糖でできた牙に身を食いちぎられる。

 私のお話はここで終わり。

 絶望と諦観が胸中に満ちる。全身から力が抜けて、地面に膝をついてへたり込む。

 無意識のうちに両手を組んで神に祈りを捧げようとしたその時。……視界の端でゆらゆらとした炎が点り、夜の暗がりが物静かに摘み取られた。


【こんな夜に一人は危険デスよ】

【ここ最近は変質者も多いですし、よからぬ噂もあります」

「……お一ついかがですか」


 炎が点って少ししてから届いた、聴き覚えのある落ち着いた声。見遣れば、神さびた門扉に背を預ける、白髪紅眼の幽霊が煙草を咥えて立っていた。

 それは、いつか相対した結晶の幽霊。あの日はあんなに恐ろしかったというのに、今は不思議と恐怖を感じない。

 幽霊は煙を吐き出して語り始める。

「煙草は、怪異を退ける道具として、様々な逸話に登場します。人に化ける大蛇の弱点は煙草のヤニや煙ですし、狐や狸に化かされた時も、煙草の煙で追い払えます。送り狼の前で転んでしまった時は、一服する為だったと言い張ればよいのです」

 涼んだ夜に吐き出された紫煙は、色を失いどこか青臭い香りを携えて、小難しい話と共に私を包む。

「言わば煙草というものは、怪談から日常に引き戻してくれる演出道具。怪異や幽霊は、そのほとんどが恐怖や焦りが見せた幻想に過ぎません。ですから一旦冷静に、落ち着いて煙を吹かし、息を整える。これだけで大半のことはどうにかなります。……ですから、お一ついかがですか」

 誰かがそばにいる安心感。夜も照らさないちっぽけな煙草の灯りが心を落ち着かせる。

 たくさん走って疲れていたからか、誰かに縋りたかったからか。高すぎ低すぎず、綺麗に響く芯の通った声の、流麗な語らいに聞き入ってしまう。

 そうして、はたと気づいた時、もう怪物の足音は聞こえなくなっていた。

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