虚無顔って多分こんな顔
前日の大雨が嘘だったかのように晴れ晴れとした日差しの中、ブルーノはエニエスロビーの長い廊下を歩いていた。
上司へ提出する書類に確認もかねて目を通しながら――本人もやや行儀が悪いと思う――歩いていると前方から誰かが来る気配を感じた。そのまま読み続けながら相手とすれ違っても良かったが、何やら様子がおかしい。
ぺたっ……ぺたっ……
足音にしては妙な音が等間隔に前方から気配とともにやって来る。
異常な事態を察知し、ブルーノは書類から顔を上げ、いつ何が襲ってきても反応できるよう身構えた。
前方からやってきたものは――
一頭の巨大な剣歯虎――サーベルタイガーだ。
「……。」
「おー、ブルーノ。仕事か?」
どこか可愛らしい様相をしたサーベルタイガーは呑気な口調でブルーノに話しかけてきた。
何故か頭の上に鳩を乗せている。おそらく同僚ルッチの相棒であるハットリだ。
そして器用にも何かを咥えながら喋るこのサーベルタイガーは、ブルーノと同じCP9に所属するフーズ・フーという男だ。悪魔の実のゾオン系の能力者の為、このように姿を獣へと変えることが出来る。
なるほど、あの妙な音は肉球が床に触れた音か。張り詰めていた緊張の糸が間抜けな音をして切れたような気がした。
話しかけられたブルーノは少し溜息をついてから、警戒を解きつつ相手に応える。
「……何をしているのか聞いてもいいか。」
「見ての通り、ちび猫運んでんだよ。」
何故か頭上のハットリに頭頂部をつつかれながら、彼は咥えていたものを此方に示した。
サーベルタイガー特有の長い犬歯が傷をつけないように、先程から咥えている何か。
豹に姿を変えた同僚――彼もまた能力者だ――ルッチだった。
彼は成長途中であっても決して小さくはないが、相手がフーでは仕方がない。獣型になったフーは巨大で、体長は5メートルを優に超えている。
その為か、襟足部分の皮を咥えられて力なく運ばれているルッチの姿はまるで子猫のようだった。自尊心の高い幼馴染みがこのような仕打ちを受ければ、いつもなら罵詈雑言をフーに浴びせ続けているはずだ。
だが先程から一言も口をきかず、目も瞑りどこかぐったりとしている。普段の彼からは考えられない様子に、ブルーノは心配そうにルッチへと声をかける。
「ルッチ、どうした。どこか具合でも悪いのか。」
「あー、大丈夫だぜ。暴れすぎて体力尽きただけだから。」
話しかけられたルッチは口を開く気力も無いようで、代わりにフーが質問に答える。
「せっかく晴れたからジャブラとちび猫と3人で外に出て鍛錬してたのよ。」
恐らくルッチが1人で鍛錬していたところに2人が突撃したんだなとブルーノは推測した。
言えば否定されるが、この2人の年長者は最年少のルッチを構いたくて仕方がないらしい。
「で、獣型でも鍛錬してたらちび猫が泥んこになっちまってよ。ある程度は俺とジャブラで舐めてやったけど綺麗に落ちねえからシャワー室で丸洗いしてやるかって話になってな。こうやって運んでやってるのさ。」
ジャブラの野郎は今タオルとか取りに行ってるぜ。
そう言われてブルーノは一瞬思考を停止した。
あぁ、昨日は酷い雨だったから外は泥濘が酷いだろうし、そこで彼らに挑発された獣型の姿をとったルッチが暴れたら泥まみれにもなるだろう。それは容易に想像できる。泥にまみれた幼馴染を見れば、綺麗にしてやろうという親切心が働きもしよう。
……だが、どうしてそこに舐めるという選択肢が出てきたのか。
「……舐めて、やったとは」
「毛繕いみたいなもんよ。」
確かに獣同士であれば毛繕いをするが、ブルーノの幼馴染たちは全員人間だったはずだ。
これがゾオン系の悪魔の実の副作用なのか。
「やー、最初は尻尾膨らませて暴れて大変だったぜ。ジャブラと2人で押さえつけて舐め回したらその内大人しくなったけどよ。」
それは暴れるだろう。
大いに暴れるだろう。
暴れない方がおかしいだろう。
そして直前までの鍛錬と、突如襲い掛かった蛮行に対しての全力の抵抗で体力を使い果たした結果が今のルッチの状態なのだ。自尊心の高い彼にとって屈辱的な状況だろうことは間違いない。
また、ハットリの先程からの態度にも納得がいく。彼は相棒に対して今も行われている暴挙へ怒っていたのだ。
それを証明するように、先程からずっとフーの頭頂部をつついたり、毛を引っ張ったりと忙しない。
「解った解った。ちゃんと綺麗にしてやるさ。」
「ポーッ!!」
恐らく、ハットリの言いたいことはそれではない。
ブルーノは一人と一羽の会話を横に聞き流し、心身共に疲労困憊といわんばかりにぐったりとしているルッチの頭を労わるようにひとなでした。
それに反応したのか、ルッチは目を開けずに力なく垂れ下がっていた尻尾をべしっと床に1度打ちつける。
多分これは『たすけろ』と言いたいのだろう。
「……すまんが今から書類を提出しに行くところでな。時間がかかる。動けなさそうだからここは甘えて洗ってもらえばどうだ。」
そう告げると今度は2回ほど尻尾が打ち付けられた。
『はくじょうもの』
言ったことが事実であると察してくれたのか ルッチはそれ以上何も言わなかったが、どことなく恨めしそうな雰囲気を漂わせている。
そんな彼の態度に苦笑しながらもう一度頭をなでる。よくもまぁここまで動けなくなるほど暴れたものだ。
しかしどのような理由にせよ、大の男2人が嫌がる10代の少年を押さえつけて舐め回していたらそれはもう事案である。互いが獣型であったのは幸いだろう。
セクハラ案件として上司に報告するべきか、迷っている間にフーは再びシャワー室の方へ歩き出した。
恐らくシャワー室でもひと波乱あるだろう。
少しでも体力を回復させたルッチが大人しくしているはずもない。シャワー室が損壊されなければ良い。
ずるずると子猫のように豹を引きずる剣歯虎を見送りながら、とりあえず後で機嫌が最低値にまで下がっているだろうルッチに何か甘いものでも持って行ってやろうとブルーノは思い、用事を済ませるべく 歩を進めた。