藍染と少年のある1日
初対面:少年 現在:子ども師走とはよく言ったもので、年末、母親は目まぐるしいほどに忙しく働いていた。なるべく早く帰ってくると言っていたが、帰宅時間は教えて貰っていない。だから、忙しい母親に変わって
「年越しそば、俺もするって言ったのに」
「言っていたな、確かに」
「覚えているなら、何で俺に作らせてくれなかったんだよ!」
「君が起きないのが悪いんだぞ」
「う……起こしてくれって昨日頼んだだろ!」
「あれ程気持ちよさそうに眠っていたなら、いくら私といえど起こせないな。夜更かしなんてしているからだ」
「惣右介!」
眉毛をピンと跳ね上げて藍染を睨みつけている子どもに、「では、寝坊助君にはまずこの昼食を片付けて貰おうか」と炬燵の天板に置かれたままの丼を指さした。
子どもと藍染の出会いは、数年前まで遡る。懲役2万年の大罪人・藍染惣右介の元に『仮出所』を斡旋してきたのは、京楽春水総隊長だった。
「君に仕事を斡旋したくてね」
「…どうせ前のような事が起これば、なし崩し的に監視下という名目で自由な身になるとは思っていたが。そうくるか」
「構えることはないよ。君を、そんな自由にしないさ。まぁ、要するに君の職場として家と土地を貸与するから、ある母子の面倒を見てほしい。費用はこちら持ちだから心配しないで良いし、必要経費であることが証明できれば、追加の費用も請求できる」
「…随分な仕事だ。内容が掴めない」
腹の底では断るつもりなど毛頭ない藍染だったが、不審げな顔を装い京楽を軽く睨みつける。
――――話せば長くなるので割愛するが、交渉をするつもりならば人員の交代を願うのが妥当だろうと母子の母親を交渉役に無間まで連れて来させたり、諸々の手続きを経て引き合わされたのは、それから1週間ほど経ったころだった。
小春日和のあたたかい日、作務衣風の拘束具を着せられた藍染は邸宅の前に立ち、手を振る京楽を認めた。京楽はもちろん1人ではなかった。うつむいたままの小さな少年とその母の元へ、迷いなく近づいていく。――あれが私の子。藍染はまじまじと観察した。
その視線はやや無遠慮だったが、足元を見つめている少年はまったく気にしていないようだった。細い金髪が、淡い日差しを集めて穏やかに光っている。
――はい、彼がこれからしばらく君の世話をする惣右介だよ。無理にとは言わないが、母様共にまあ仲良くしてやってね――
京楽が少年の背中を柔らかく叩き、それに押し出されるように、少年がようやく顔を上げる。華奢な顎が、藍染にゆっくりと向けられる。は、と藍染は息を詰めた。
少年の面差しに、藍染は言葉を失った。思わず口に出そうな言葉を何とか堪え、不安そうに見上げてくる小さな瞼に合わせ、片膝をついて小さな瞳と高さを合わせる。
「初めまして。そう長くない付き合いだから、少し我慢してくれると嬉しい」
「……うん」
こくりと頷くと、少年は小さな右手を差し出した。藍染は首を傾げ、努めてきつくならないように気を付けながら少年を見つめ返す。
「これは?」
「握手。初めての人にはするんだろう? 母さまが、怖がらんでエエって言ってたから」
「そうだね、初めましての時にはするかな」
差し出された手を握り、藍染はそつなく笑った。少し力を籠めれば文字通り握りつぶしてしまえる掌は、驚くほどに温かく、柔らかかった。自分の手が触れてはいけないような薄さだった。
「そうすけ……。惣右介さん」
「惣右介でいい」
口の中で繰り返しながら、少年はゆっくりと息を吐いた。
そうすけ。そうすけ。
名前を口の中でころがし、確認するように呼ぶ。緊張にこわばっていた頬が緩み、緩んだ唇は笑顔の形になった。
「よろしく惣右介」
「こちらこそよろしく」
少年は嬉しそうに笑う。その笑みを見た瞬間、藍染はかつて無いほどの衝撃を受けたのだ。
ひと休憩という名の遅めの昼食を終えた後、玄関、居間、寝室…客を招き入れるための部屋という部屋を掃除した。畳に掃除機をかけ、水拭きし、仕上げに乾拭きした。縁側の板目の荒れが目立つところにはワックスをかけた。照明の傘の埃を取ったり、障子紙の貼り替えをしたり、普段は気になってもなかなか手がつけられずにいたところまで片付け、それなりに満足感を得た。
「これで姉さまと雨竜くんが新年に訪ねてきても、快く迎えられるな!」
ぬくぬくと炬燵に足を突っ込みながら、得意げに胸を張った子どもに藍染は苦笑する。
「気が早い事だ。君の部屋はまだ片付いていないようだが」
本当はもう少し色々片付けたい藍染だが、そこはまたの機会にとあえて目をつぶったのだ。子どもはむっと口を尖らせて藍染を睨んできたが、
「後で片付けるよ!」
と言い切って、幼い身体を炬燵に滑り込ませた。
やれやれと首を左右に振りながら藍染は手元に置いた煎茶で喉を潤す。子どもの小さなつむじが、ぴょこんと飛び出す金髪に隠れている。藍染はその髪に手を伸ばし、頭を掌で包み込むようにしてぽんぽんと優しく叩く。
「惣右介?」
「…私も手伝うから、少し休んだら切りのいいところまで片付けてしまおう」
子どもは素直に頷いて、もう一段落付いた時には夕方を回っていた。子どもの腹がきゅうと鳴いたのに気づかぬ振りをし、先に風呂に入るよう促すと、その間に夕飯の準備をした。今夜は鍋だ。
子どもが風呂から上がると、炬燵の上にはつやのある白菜と豚肉の薄切り、椎茸、ニンジン、糸こんにゃく、焼き豆腐が入った水炊きが湯気を立てていて、その隣には洗いたての取り皿が綺麗に並べられている。
いつも通りに2人は隣り合って炬燵に足を入れた。
「いただきます」
「いただきます」
れんげで野菜と肉を交互に掬い、息で冷ましやり、食べさせる。じんわりと肉の旨味が広がるのに目を細める子どもを見つめ、藍染は僅かに口元を緩めた。
「惣右介ちょっと熱い」
「…貸しなさい」
訂正、もう少し冷ます必要があるようだ。
食器の後片付けを終えて居間に戻ると、子どもは床にころころと転がっていた。その脇に食べかけの蜜柑が置かれており、茶を入れ直した急須を天板に載せ、藍染は子どもの隣に座る。
「行儀が悪いから辞めなさい」
「やだ」
子どもはきっぱり言い放つと、テレビのリモコンを掴み藍染にもたせた。そのまま勢いよく転がって藍染の膝に頭をぶつけると、満足そうに笑い声をあげて座りなおす。
「痛いじゃないか」
本当は痛くも痒くもなかったが文句を言ってやると、「母さままだかな…」と落ち込み始めたので藍染はテレビのチャンネルをつけてやった。
「えっ!現世の番組も見れるようになってる!」
「ふうん」
適当に相槌を打つ。藍染はドン観音寺が出演しない番組に興味はないし、「お腹減ってきた」だの「このお菓子美味しそう、姉さまにお願いしよう」だの「部屋に置いてある本が読みたい」だの言う子どもの相手をするのに忙しかったのだ。
健気に母親の帰りを待っていたが、炬燵の霊圧に抗えず力尽きて眠ってしまった子どもを抱き起こし、布団に連れて行く。子どもの寝室は隣だが、起さぬよう静かに寝かせる。見下ろすと、長い睫毛がこまかに震えていた。かあさま。くちびるがそう動いた気がした。もしかすると、ねえさま、だろうか。惣右介、ではない。
子どもの名をそっと呼んでも返事はなかった。
「 」
藍染はそう呟いたが、眠っている子どもの耳には聞こえないだろう。子どものすこやかな寝息だけが響いている。
居間に戻り、飲み残していた茶を飲み切る。子どもが眠ってしまうと藍染は途端に手持ち無沙汰になってしまう。
身体は疲れてはいなかったが、平子が帰るまでゆっくりしようかと炬燵に足を入れ、ふと気配を感じて藍染は見上げるように視線をあげた。
いつの間にか玄関をくぐり――藍染が子どもの寝顔を観察している間に平子が帰ってきたのだ。
「おかえり。鍋があるが温め直すか」
「……そうやな…藍染、アイツはもう寝たか?」
「君の帰りを待っていたが、炬燵には勝てなかったようだ」
立ち上がった藍染は平子から渡された隊長羽織とショールをハンガーにかけて、壁掛けに吊るす。平子がサムゥ、と震えながら炬燵に潜り込む間に台所へ向かい、小鍋を火に掛け、食器棚から小鉢と汁椀を取り出す。
まるで亭主関白な夫とその妻のようだと思わないでもない。そんな思考を一振りして追い出した。