藍に染まらず

藍に染まらず


ぼんやりとした馬鹿馬鹿しさを感じながら、見たことのない道具で爪の上に乗せられている赤い物体を眺める。なにがどうなって、というよりなにをしたくてこんなことをしているのか全く検討がつかないが、背後の男はこれがやりたかったらしい。

少々やらかしてしまった結果、こんな意味の分からない副官の頼みをきいているが、人の爪を染めたところで一体何になるというのか。


「なにが楽しいねんこんなん」

「どういう仕組みなのか気になって、僕の手でやるわけにはいきませんし」

「人を実験台みたいに言いよるわ、上司への敬意はないんか敬意は」

「あなたが僕の負担を考えずに受けた案件を全て放棄していいなら、少しは見つけられるかもしれませんね」


厭味ったらしい声が顔の横から聞こえてくるので居心地が悪い。惣右介は体格が良いせいなのか俺よりも体温が高いために触れているところが暑くて仕方がないが、それを言ったところで「あなたの体温が低いだけですよ」と返されておしまいだろう。

色々あって引き受けた上に部下を帰らせてしまったのでなんとも言えないが、別に俺は一人で残業したところで構いはしなかったのだ。それを言うと更に面倒なので言わないが、別に頼みをきいてやる義理もないとも内心では思っている。


これが別のものならすげなく断っても良かったが、あまりにも変な頼みだったせいで少しだけ興味が湧いてしまったのだ。今は少しだけ後悔している。

惣右介に後ろから抱え込まれるようにして爪を塗られているのはなんとも居心地が悪い。お互いにきっちり服を着ているというのになんだかいかがわしいことをしている気さえする。


「一刻ほどで色がつくようですよ」

「それまでこのまんまかい」

「そうですね、なにもできませんね」


塗り終わった惣右介の手が剥がれないように布を巻かれた指先を撫でる。布越しの感覚はほぼないが、目で見えているせいでくすぐったいような錯覚を覚えるから不思議だ。

俺はといえばもうだんだん面倒になってきて、眠くなってきていた。とっとと返ってくれれば寝れるのにと思うが、こいつは爪に色が移るまで帰るつもりはないのだろう。すぐに済むものであれば楽だったのに。


「これ指も染まらん?」

「染まってもその内落ちますよ」

「オマエのせいで指赤くなってしまうわ」

「僕が塗りましたけど、こうなった原因は隊長では?」


笑うような声に抗議しようにも手を掴まれているのでなにもできない。俺がするのも面倒になっているというのもあるかもしれないが、それは別にいいだろう。

妙に空気が弛緩していてなにかを考えるのも億劫だ。なにがしたいのかわからない惣右介とされるがままの俺でおかしなことになっている。


「俺で上手いこと出来たら自分でもやったらええやん」

「変に目立ってしかたがないので嫌です」


人の爪に色を乗せておいてどの口が言うのか。普段から化粧もろくにしていない俺がそんなことをしたら目立つだろうに。

そういえば部屋のどこかにしまった気がするろくに使っていない紅も、入り用になった時に「必要かと思って」と渡されたものだった。

女に贈るのに慣れてるんだろうか、変なのを引っかけて隊に迷惑をかけられるのだけはごめんだが詮索するつもりもない。


「せやな、自分やなくてどこぞの綺麗なねーちゃんにでも塗ったりや」

「いませんよそんな人」

「嘘つけ選り取り見取りでウハウハやろ色男」


呆れたようなため息を聞きながら、早く色が移ってくれないかと考える。気まぐれに付き合っても、結局なにも残らない。

爪に色が移ったところでどうせ指に移った色のように少したてば消えてしまうのだ。消えたらまた塗るというような関係でもないし、自分で塗り直すつもりもない。


「あなた以外にしませんよ」


心にもない言葉を鼻で笑ってやっても特に反応もしない、口説きたいならお粗末だし冗談ならば下手くそだ。

それでもしばらくの間は染まった指を見てこいつを思い出すことになるのだと、なんとも辟易した気分になりながら細くため息を吐いた。




「なぁ、オカンは爪塗らんの?」


友人に綺麗にしてもらったのだと上機嫌で見せびらかしていた娘が、ふとそんなことを言った。綺麗に整えられて鮮やかに塗られた爪に思い出すつもりもなかった苦い記憶が頭をかすめ、思わずイヤな顔をしそうになる。

おかしな顔をした俺をキョトンとした顔で眺める娘に理由を説明するのは出来ることならしたくない、せっかく楽しい気分になっているのにあれの話をして微妙な思い出にしてしまうのは気が引けた。


「爪の先に色あんの落ち着かんねん」

「ふぅん、そういうもんなん?」


怪訝な顔をする娘の指は綺麗に塗られていて、染めた色とは違って鮮やかだ。紅の色しか無い昔と違って色も種類があるのか、明るいピンク色の爪は昔のものと違ってつややかな輝きを放っている。

あの時の色は滲むような紅色だったことを思い出して、結局あの男はなにがしたかったのだろうかと考えたところでわからないことが頭をよぎった。


「……染めるなら、藍ちゃうんか」


他の家族に見せびらかしに行った娘の背中を見送って、口の中で呟いた。紅で染まった指先の色は、義骸を脱いだとしてももう跡形も残っていない。

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