落花/毒花-2
「————ぁ、?」
ばしゃり。鮮血がランサーの頬を彩る。
「アサシン。花の毒で頭をやられたか? やらかした事を擁護する気は微塵もないが、そこまで駄目んなっちまうのは同情する。縋る相手を間違えたな」
深く、深く、抉られた。
内臓が引きちぎれて、立てなくて、ああ、この痛みには覚えがある。
ぼんやりとしていた記憶の箱が、腹の穴が、ぱかっと開く。
ああ、そうだ私は……!
彼の拳に大きく抉られて、そのまま敗退するはずだったんじゃ……?
腹部に旗槍が刺さっている。どうして今、私は槍が刺さっているんだろう。拳じゃなくて?
あの時、彼が私に触れてくれて。私の返り血を浴びて。じゃあ、この人も死んでしまうんだと思った私に「毒は効かねえ身でな」なんて言って……。
「……そうだ、それで……私、彼こそが、と思っ……」
…………何で忘れていたんだろう。あんなにも切望していたことを、あっさりと忘却しているなんて……?
よろよろ、数歩後ずさったアサシンはその場に崩れ落ちる。自らの血の上に横たわりながら、か細く呟いた。
「……わた、し……前に、あなた、に……?」
「ああ、ちゃんと殺してやらなかったのを後悔してるよ。少なくとも、そういう利用のされ方はしなかったろうにな」
ああ、やっぱり。アサシンは呻く。
あれは実際に起きたことだ。じゃあ、どうして? 私はどうして、この記憶を忘却していたのか。
「悪いな、毒が効かなくて」
「い、え……私、嬉しくて……! 触られて、も、殺せ、ないっ……殺さなくていい、のは……!」
「は? 殺したくないってか? ……難儀なアサシンしてんな」
忘却というより、そうだ、毒の効かない誰かが丸々、別人にすり替わっているかのような……?
じゃあ、「あの方」は? 「あの方」が、私の毒が効かないと言うのは嘘で。
それはつまり、誰かが私の記憶を弄っ——?
「あ゙ッ、うぐっ……!」
「待っ、おい!?」
記憶の箱がぎしぎしと軋む。割れそうに頭が痛い。
『アサシンを重点的に観察していて助かったよ。やはり、盤面をひっくり返すには暗殺者がいい。もうマスターもいないとなれば、さらに好都合だ』
『君はあのランサーを追いたいんだね。わたしならば、それに手を貸すことが出来る。聖杯を望むわたしに、少しばかり手を貸してくれないかな?』
『……よし。再契約を行うと令呪が三画補填されるというのは、本当に良いシステムだね』
『これにて、契約は完了だ。すぐに君の傷を癒そう』
『ん、毒? そんなもの効かないさ。君は先ほど、それを見たばかりだろう?』
『……? ………、……? で、でも、効かないのは……あ、なたじゃ、ない……』
『……。いいや、わたしだ。令呪というのはね、サーヴァントの思考すらも縛ることができるんだ。嘘ではないよ、実体験からだ。成功例はもうあってね』
『無論、サーヴァントが万全の状態であるならば難しい。例えばわたしのバーサーカーなんかは我が強く、三画も持っていかれてしまった』
『しかし君は死にかけ。どうやら君は、毒の効かぬ相手に大層な好意を感じてしまうらしいことも把握した』
人心掌握が趣味なんだ、と男は笑う。
『なら、それを利用しない手は無いだろう? お前は何画必要かな?』
人好きのする笑みで、警戒心を解くことに特化した柔らかな笑みのままで!
愚かにも手を伸ばしてしまった私を嘲笑う! 私の切望が、死しても尚捨てられない祈りが、この男に踏み躙られる……!
『我がサーヴァントとなったお前には、直ぐに諜報に出てもらう。全てのマスターを殺し終えたら、その褒美としてわたしと再会出来ることとしよう。勿論、最後の一騎は自害させてしまうけど』
令呪が光る。
ぐちゃぐちゃの身体は再構成されて、ぐちゃぐちゃの記憶も再構成される。都合よく組み立て直されて————それ、で。
それで…………?
「……あ? セイバー? どうして此処に来た?」
「え、セイバー来てんの? マジか暗くて何も見えねえ……風センサーすげえ……あれっ、じゃあマルちゃんは? もしかしてアサシン戦に駆けつけてくれた感じ? でもごっめーん! もう終わっちゃってさあ!」
……誰かが姿を現したらしい。
満身創痍のアサシンには、最早辺りのことはよく分からない。
喋ることも難しい彼女は、無言で思案に沈むことにした。
ああ、そういえば。私はまだ、正式に姿を見せていない。この暗闇の中では、姿を見るのは困難なはず。
アサシンは脱落したと認識していたはずの彼らが……どうして、あっさり私のことを「アサシン」と呼んだのだろう。
私の存在が既にバレていた? アーチャーを殺した時にしか姿を見せていないはずなのに……?
あの現場を誰かに見られていたのか。キャスターの使い魔とか? だから、ああして罠を仕掛けられていた……?
「ある筋からアサシンがまだ生きていると聞いてね。取るものも取らず、急いでここに駆けつけて来たんだ」
「そっか! じゃあ悪いけどシャトルランのごとく引き返してもろて!」
「はは、キミは手厳しいなあ……」
「毒霧あったじゃん? アレはどうした系?」
「以前と同じ、身体を変化させて毒もリセットするやり方。ほら、普段より背が低くなったと思わないかい?」
「あのね、暗いから見えねえのよ。……あ、そうだ。俺の携帯! あれのライト使えば……どっか飛んだ携帯探すのがまずめんどいんだわ!」
不審な点はまだある。
毒の効かない相手に私をぶつける意味が分からない。一介の暗殺者と真っ当な戦士では、どう考えても戦力差があり過ぎる。
マスターの不意打ちに失敗したなら、そのまま呼び戻して次に備えた方が……
「そうか……じゃ、霧自体が消えた訳じゃないと。ここの道に毒が満ちたままなら、合流して貰うのは厳しいか。なあアサシン、お前の毒は消滅後も残るのか?」
「……え? わ……わかり、ません……」
「ま、死んだ後のこと聞かれても困るわな」
私の肉体は退去と共に消滅するのだし、肉に刻まれた毒そのものは一緒に持っていけると思う。
ただ、この地の大気と混ざり合って反応を起こしたしたものだとか、そうした「一手間加えた」毒は……どうなるのだろう。
「えー? 息止めて走ってもダメなやつ? ウマちゃんに乗せてもらってさ、秒で進む的な」
「触れただけでもアウトだろ。霊薬あっても失神したんだぞ、お前」
「ちえ、ダメか! じゃ、この先に進めるのは俺達とセイバーだけ的な? ……マスター大勢乗せてるウマちゃんの負担がでけえなあ……四人は流石に重いんじゃないかなあ……?」
「私が戻っているうちに事態が悪化してもね。アサシンは倒したんだし、このまま行って解決した方がいいんじゃないかな? 私はそれを推すよ」
「セイバーさあ、マルちゃんは置いてっていいわけ?」
「……あまり危ないことに巻き込みたくないからね」
「ええ……? ウマちゃんと社畜に任せるとか、存在が危ないと思うんですけどぉ……そもそも合流したかもわかんないのに……」
……なんて呑気な会話だろう。
消滅寸前が故か、令呪の影響が薄れていく。おかげで、まともな思考が回せるようになる。
どうして彼は、契約したサーヴァントを無駄死にさせるようなことをしたのだろう。
彼は聖杯を獲得したいのではなかったか。
ランサー、セイバー、ライダー、キャスター。サーヴァントは四騎も残っている。
まさか自分だけで四騎も落とせるとでも……?
「というか、キミたち。敵をしっかり倒さずに雑談というのはいかがなものか。アサシンがラジアータと契約を交わしているとなれば、向こうに内容が筒抜けなんじゃないのかい?」
「聞こえてるならそれはそれでいいかなって会話しかしてないよ俺。あー! 今日の飯はハンバーグがいいなあ! ラジコン的にはどうなんだろうね? カレー味もいいけどデミグラスも捨て難いしさ。シンプルにケチャップもいいし」
「はいはい、ラジアータな。ま、セイバーの言うことは一理あるか。また逃げ延びられても困っちまう」
あのお方は、あの男は、ラジアータは。
私を……アサシンという駒を手にして、それをわざわざ使い捨てた。
花を介した監視術式で盤面を把握しながら、だ。
そこには何かの意図があるはず。私にしか気が付かない何かが…………
……あ。もしかして? いやまさか。いやでも。
ぐるぐると悩むアサシンがふと気がついた時には、足音はすぐ近くに降ってきていた。そのまま、ランサーの冷たい声も降ってくる。
「悪いな、そういうことだ。俺に二度も負けたんだ、流石に諦めろ」
自分に向けられた槍の穂先の煌めきが、網膜にちらつく。
このまま放っておかれても死ぬのに、わざわざ手を下してくれるのか。
「次はマトモな主人に手綱握ってもらいな、アサシン」
けど、それに身を委ねるには……まだ心残りがある。この心当たりを伝えなくては。
「待っ……まだ、終わって……」
「いいや、終わってる」
まるで幼い子供に応えてやるように、わざわざ屈んで目を合わせながら……ランサーは言葉を続ける。
「お前はどうしようもなく終わってるんだよ、アサシン」
「ち、違う! そうじゃなく、私は、」
そうだ、違う。
確かに私は意味もなく殺して、意味もなく利用されて、当然の帰結として碌な意味もなく死ぬ。殆ど意味のない現界だったのかもしれない。
もし、今回の私に何か意味を付け加えられるとしたら。
それは奪うことではなく、何かを残すことでしか叶えられない。
動かないはずの身体を起こす。無理矢理に動かす。彼が屈んでくれて助かった。
手を伸ばせば触れられるくらいの距離に、彼の顔がある。
誰かの制止する声や敵意を感じたけれど、外野を気にしてやる必要はない。
そうして頬に触れても、息を吹きかけても、どうせ彼は死なない。眉一つ動かさない。
どうやら私では彼をどうこうすることも出来ないらしい、と奇妙な無力感を覚えながら、彼の耳元に唇を寄せた。
「……彼、は、きっと、サーヴァント……勝ち残る算段を、残……」
……あ。ああ、これ以上は無理だ。
囁き声は勿論、姿勢も維持出来ない。ずるり、と力の抜けたアサシンは地面に崩れ伏す。シンプルに、血を失い過ぎた。
「……。……」
掠れ過ぎた声では聞き苦しかったのでしょうか、と不安になるくらいの無反応。無言のまま、ランサーは彼女を見下ろしている。
「じゃあな、アサシン」
続いたのは、先程とそう変わらぬ宣言。
では、あの伝言は、伝わらなかった? 考慮する価値すらもないと切り捨てられた? 自分などでは、やはり何も残せなかったか。
そうしてランサーが淡々と振り上げた拳が……拳?
今まさに握っている、その旗槍じゃなくて? そんなの、文字通りに「その手で終わらせる」と言わんばかりではないか。
「な……ん、で?」
「……簡単な話だ。受けた義理は、返せなくなる前に精算しとかないと収まりが悪いだろ?」