落つる花弁は次の種
※2人が成人後の話です
『ふざけるな、勝手に満たされたような顔しやがって!』
いつかの、冬の記憶。
醜く啖呵を切るそれを見つめる瞳は、酷く愛おしげであった。演者は2人、観客はゼロ。最後の最後まで、泥沼の奥底で削り合い、慰め合っていた。
ゆるゆると意識が浮上する。カーテンの隙間から漏れる光が、やけに鋭く感じた。
朝だ、と実感すると同時に、ズキンと頭が容赦なく痛みを訴える。
「最悪」
今日も、あの日の夢を見た。隣で無防備な寝顔を晒しているかつてのライバル__テイエムオペラオーと2人きりの次の日は、いつもこうだ。
舌打ちをして、起き上がる。オペラオーの顔をちらりと見やると、うっすらと涙の跡が残っていた。触れるか触れないかの力加減でなぞってやれば、目元がきゅっと歪む。それを見て、少しだけ溜飲が下がったような気がした。
やけに絡んだ自分の髪の毛を、手ぐしでガシガシと解す。指通りがすこぶる悪い。これも、いつもこうだ。
『そんな乱暴にすると、傷んでしまうよ』
そう言われて、いやに優しく髪の毛を撫でられたことがあった。あれは、あまり好きじゃない。再びされちゃたまったもんじゃないので、大人しくヘアブラシでといておこうと立ち上がる。
洗面所へ行くために、当たり前だが扉を開ける。この、扉を開ける動作の度に、思い出すのはとある夜。
幕引きを終えた2人の舞台に、続きを紡ぎ始めたあの夜。インターホンが来客を告げて、扉を開けて。
果たして、あの時の行動は正しかったのだろうか。ジャングルポケットは、今でも答えを見つけられないままでいる。
「やあ、こんばんは」
夜も更けてしばらく。数時間前に別れたはずのオペラオーが尋ねてきた。
いつもより数段陽気で回り道な言葉を要約すると、『先程大騒ぎしたトップロードさん主催の飲み会で、ハンカチを忘れていたから届けに来たよ』とのことだった。
そういえば、あの後オペラオーたちの世代で二次会に行っていたな。数時間前よりも顔がちょっと赤い。ハンカチを受け取る時に一瞬触れた手は、熱かったような気がした。
「それじゃあね、ポッケさん。いい夜を」
礼を言った後、一言二言、他愛もない、記憶にも残らない会話を交わして。さらりとした別れの言葉を優しく残して、オペラオーが踵を返す。
「……ポッケさん?」
やっぱり、熱い。
「なあ、1人で飲み直してたんだけどよ」
オペラオーの目線が、掴まれた腕から俺の顔へと上がる。
目が合って、確信した。見間違いじゃない。
背を向ける時、見えた横顔。こいつは、あの頃のオペラオーだった。
「明日、暇だよな」
客観的に見ようとして、そうすればするほど自分も同じだと理解して、俺と同じところでもがいていた、テイエムオペラオーだった。
「付き合えよ。さっきは、あんま話せなかったし」
二次会で、何かあったんだろう。本人も自覚できない、小さな小さな綻びを見せる、何かが。
「……いい夜にしようぜ」
ずっと見ないふりをしていた飢えに、引火した。きっかけが何だろうが、どうでもいい。大事なのは、俺はまだ納得していないということだ。
視線で問う。たとえ客席からでなくとも、共演者からだろうと、アンコールには応えるべきだと。そうだろ?
「……そうだね、お邪魔させてもらうよ」
扉が閉まる。幕が上がる。開演ブザーは必要ない。これは、あの冬の日の続きなのだから。
「いい夜にしよう」
それから。時折、互いが互いの家をふらりと尋ねる日が出来た。
真昼も深夜も関係なく、『今から行く』『わかった』のメッセージが淡々と積み上がる日々。
時には、ドトウがいる時にポッケさんが尋ねてきたり、ダンツがいる時にオペラオーが尋ねてきたり、面識のない人が先客だったり。
だからといって、帰ることは1度もなかった。それならそれで、思い出話に現況報告に色とりどりの花を咲かせた。賑やかな空間は居心地が良くて好ましい。思うがままに騒いで、笑って、お開きの時間になれば、その場にいた全員が大きな花束を持って帰るような、そんな気分になっていた。
しかし、他に誰もいなければ。
2人きりだと、分かった瞬間。扉を閉めた、その瞬間。顔を覗かせるのは、真っ黒なつぼみばかり。
表面をなぞるだけの雑談をして、コンビニで適当に買った酒を煽って、段々と口数が少なくなっていく。ピンと張り詰めて静かな空間は居心地が悪くて、でも、どうにかする術はどこにもなかった。
プライドはズタズタだった。代替品にされていること、代替品にしていることが惨めで、目も当てられなくて。けれどプライドの切り傷から垂れる血液は、ひどく中毒的な色をしていた。長い長い時間を経て、自覚すらせず拗らせて、酒に飲まれてこんがらがった欲望。もう、己の手には負えなくなっていた。
そんな救いようのないものを、視線と呼吸に練り混ぜれば。どちらからともなく、花開く。
ぼうっと互いの瞳の奥を見つめて、アルコール越しに幻を捉えて、そうなってしまえば止まる理由はなかった。
テメェの言葉なんか聞きたくないと、無理やり唇を奪い取って。
勝手に去るなんて許しはしないと、身体をなぞって引き寄せて。
軽蔑して、同情して、憎んで、愛して、抉って、塞いで。
縋りついては赦してくれと願い、縋りつかれては可哀想にと憐れんで。
やり場のない熱に炙られて、交わす視線は見るも無惨に焼け爛れていた。
髪の毛をとかして、ついでに寝癖もそれなりに直し終わった。
伸びたな、髪の毛。そろそろ切ろうか。次はショートカットもいいかもしれない。そんな他愛もないことを考えつつ、冷蔵庫からラスト1本のミネラルウォーターをとりだす。オペラオーが現役時代から愛飲しているものだ。
部屋に戻って、蓋を開けつつベッド脇のスツールに腰掛ける。オペラオーは未だ夢の中にいるらしい。さっきよりも端に寄って、こちらに背を向けぎゅっと縮まっていた。
水道水と大して変わらないよなあ。何が違うんだ?意識して味わってみるが、何度飲んでもこだわる理由が分からない。ただ寝起きでカラカラだった喉が潤っただけだった。
ふと布が擦れる音がして、ペットボトルから口を離してそちらに視線をやる。
「よう、おはよ」
こっちを向いて薄く開いた瞳は、夢か現かを見分けようとじいと俺を見つめていた。しばらくして諦めたのか、億劫そうに布団を剥いで、起き上がる。
昨晩貸してやったキャミソールの肩紐がずれて、まっさらなデコルテが惜しげも無く晒されている。反して、浮かべる表情はやけに難しげで。悲しいかな、同じ穴の狢同士、何を考えているかが手に取るように理解出来た。
「これは、また……最悪の目覚めだね」
「奇遇だな、俺もそう思ってた」
キャップを閉めて、投げてやる。パシリと小気味良い音が、この生温い空気を無理やり切り裂くようで、心地悪い。
当たり前のように口をつけて勢いよく飲む様に、ちょっとは遠慮しろよと思う。渡したとはいえ、俺のだぞそれ。ひと息で残り全てを飲み切り、唇から零れた一滴を拭う動きまでいちいち様になっていて、少し腹が立つ。
「シャワー、借りるよ」
「どうぞ」
空になったペットボトルとその辺に脱ぎ捨ててあった上着を持って、扉の向こうにオペラオーが消える。
___あの夜、もしもこんな風に素直に見送っていたら。
レースの世界に身を置いていたものとして、イフの話を考えることはほとんどない。もし、あの時抜け出せていたら。もし、あのレースで内枠だったら。もし、仕掛けるタイミングを早めていれば。反省にもならない甘ったれた妄想をするくらいなら、次の対策をするべきだ。だった、はずなのに。今は甘ったるい『もしも』の中でみっともなくさまよっている。
浴室への引き戸が閉まる音がして、やがて水滴が床を叩く音が聞こえ始める。うんざりするほど重っ苦しい感情も洗い流せてしまえばいいのに、年単位でこびりついたこの感情がそう簡単に消せてたまるか、と二律背反甚だしい考えが頭の中を行き来する。俺達はどうしたいのだろう。どうなりたいのだろう。消えかけた道を無理やり繋げたくせに、その行き先を俺達は知らなかった。道が示すその先は、地獄か、はたまた天国か。……いや、
「天国はねぇな」
どうせ2人で堕ちるなら、多少マシな地獄であれよな。
そうだな、例えば……黒い、黒い花が似合うような。そんな地獄が、いい。
「それじゃあ、邪魔したね」
「ちょっとはゆっくりしていかないのかよ」
「するわけないだろう?」
気づけば、明るいみんなの覇王様がそこにいた。
さっぱりと乾かした髪は綺麗に艶めき、自信に満ちた一挙一動を引っ提げ、陰りのない笑顔を貼り付けて。ただ、わずかに接着面が覗いているあたり、最後の仕上げがまだ足りていないようだ。
ショルダーバッグを肩にかけて、こちらにしゃんと向き直る。ああ、接着面が見えなくなった。うんざりするほど完璧だ。
「さようなら、ポッケさん」
「おう、さよなら、オペラオー」
この関係になってから、幕引きの挨拶はたった一通り。
互いの呪いがこれきりになるように。次が無いように。
どれだけ意味が無いとしても、虚しい気持ちになろうとも。二度とどす黒い花弁を散らすことが無いように。
ささやかな祈りは無機質に空気を揺らして、跡形もなく消えていった。