荒療治

荒療治




「まだ粥は食えなさそうか」


そう言って差し出された重湯の入った椀を、ローは虚ろな目で見つめた。

正直なところ、全く食欲が湧かないのだ。

食べたくない、という意志を示すために緩く首を横に振ると、目の前の男は眉を寄せた。


「・・・お前の体の傷は順調に回復してきている。本調子になってきた体に栄養が足りてねェんだ。お前は分かっているだろうが」


実際、ローは己の体が飢餓状態にあることを理解していた。

船内にある栄養点滴だけでいつまでも生き長らえられる訳ではない。生きる為の養分が不足しているローの肉体は自己分解を始める段階にあり、緩やかに死に向かっている。

それを理解しているのに、何かを食べてまで生きようと思うことができないのだ。


(どうしておれだけ生きていられるだろう)


ドフラミンゴに聞かされたダイアルの音声が脳裏にこびりついて離れない。

最愛のクルーたちの、苦悶に満ちた断末魔。彼らはローの仲間であったばかりに、ドフラミンゴの不興を買って殺された。

それなのに、自分だけは虜囚として恥を重ねながらも生き延びて、奇跡によってもう一つの世界でつかの間の安息を得てさえいる。

あまつさえ浅ましい肉体は回復しようと、もう一つのポーラータング号で施される治療を享受しているのだ。


恥ずべきことだ。因果を辿れば、ローの存在が最愛のクルーを死の運命に追いやったようなものだというのに。


食事を拒むローに男はため息を吐き、レンゲに重湯を掬ってローの口元に近づけた。


「意地を張っていないで食え。お前の消化管に問題がないことはスキャンして分かってる」

「・・・・・・」


ぐ、とレンゲを押しつけられると、自身の唇が乾いてひび割れているのを感じた。

唇だけではなくて、全身が枯れ木のように痩せさらばえている。目の前の男と比べ、なんとみすぼらしいことか。


目の前の男。麦わらのルフィとともにドレスローザでドフラミンゴに勝利した、もう一人のトラファルガー・ロー。


彼の生命力に満ちた姿。筋肉で隆起した逞しい肉体。男らしく整えられた髭ともみあげ。小麦色の肌の上で微笑むジョリーロジャー。

彼を囲む、愛しいクルーたち。他愛ないポーラータング号の日常。電伝虫越しでも騒々しいかつての同盟相手。

ローが守れなかったものを、彼はすべて守り切ってそこにいる。


彼にできたのなら、自分にだってできたはずなのだ。

ならば、大切なものを守れなかったのは紛れもなくローの過失であり、罪だ。


それを思うと、ローは乾ききっている眼球の奥がつんと痛むのを感じた。


「おい、聞いてんのか。重湯を飲めと言っている」


男は苛立ったように、やや乱暴にレンゲをローの口に突っ込んだ。薄く塩味のついたとろみの少ない重湯は、ほとんど人肌と同じくらいに温い。

気遣いと優しさを感じるそれを、ローは飲み下すことができずに咳き込んだ。


ゲホ、ゲホ。ヒュー、ヒュー・・・。



「・・・・・・悪かった」


ことを急いたことを悪く思うのか、男は至極落ち着いた声で謝罪して、椀を置いてローの背をさすった。


「とりあえず点滴を変えるが・・・・・・。船の点滴のストックはもうあと数袋だ、次の補給までもつか分からねェ。重湯だけでも食えるように、頑張ってみてくれねェか」


男は慣れた手つきでローの左腕に刺さった点滴の針を抜き、また新しい針を刺した。

少しも痛くない。同じ人間だから分かる。スワロー島でいっとき勤めていた小さな診療所で、患者のために何度も針を刺す練習をしたのだから。

繋がれた管から、ローを生かすための液体が注がれる。男は医者としてローに施す治療は惜しまなかった。


男をみていると、ローはどうしようもなく己の罪を突きつけられているように感じた。何も守れなかった、弱さという罪。ローはもう他者に点滴を打ってやることさえできない。


弱かったから。大事な人をみんな死なせて、右腕までも取り上げられてしまったから。


彼と自分を比べてしまう。

もうたくさんだった。




「・・・・・・放っておけ」

「あ?」


ほとんど吐息だけの掠れ声を拾って、男は不可解そうに片眉を持ち上げた。彼はローを生かすことが当然だと思っている。


もう自分にはそんな価値もないのに。


「放っておいてくれ!!」


ローは衝動的に叫んでいた。一度叫んでしまうともう止まらなかった。

目の前の男は何も悪くない。突然自船に現れたローを受け入れて、全身に刻まれた陵辱の痕を丁寧に取り除いてくれた。強制的なものであったとはいえ、記憶を共有して心の痛みにも寄り添ってくれた。クルーたちに公開する情報には細心の注意を払い、ローのプライドが傷つかないように配慮もしてくれた。

何も悪くないのだ。だから、これはローの一方的な癇癪だった。


「おれはこれ以上生きることを望んでない!!生きる意味もないんだ!!」

「おい、急にどうした!落ち着け!」


左腕を乱暴に振って、点滴の針を無理矢理引き抜く。揺れてバランスを崩した点滴が倒れ、耳障りな金属音が鳴った。

男が取り押さえようとするのを、必死に拒もうとした。服の布同士が擦れてバサバサと音を立てる。



「もうおれに生きる価値なんてない」



心の底でずっと思っていたことが、思わず口をついて出た。


しん、と部屋が急に静まりかえる。耳が慣れきっていたはずの潜水艦の機械音がいやに轟轟として聞こえてくる。

ローを落ち着かせようと必死だった男は、不気味な程にぴたりと動きをとめた。


同時に、ローも動きを止めた。動けなくなったのだ。蛇に睨まれた蛙のように。



「おい」



男が地を這うような、低く冷たい声を吐きながらゆっくりと立ち上がった。

ベッドに臥せたままのローからみると男の姿は逆光になって、表情が黒く塗りつぶされて見えなくなった。

黒い影の中で、血走った目だけがギラギラと輝いている。


ひりつくような怒気がローの肌を刺す。


彼は怒っている。


ローは自身の発言が男の地雷を踏み抜いたことを肌で感じた。




「父様と母様は、最期までフレバンスの国民を想って政府と戦った」


死の文字が刻まれた彼の右手が持ち上がり、ローに向かって伸ばされた。


「コラさんは自分の命と引き替えにお前を生かした」


彼の右手がローの胸ぐらを掴む。軽いローの体は易々と持ち上げられる。


「お前のクルーたちは、お前のために命を擲った」


男がローの目を覗き込むように顔を近づけた。ローからも男の目がよく見えた。

彼はもう医師の目をしていなかった。



「お前は、ただ死ぬだけか」



ROOM。彼は低く唱え、左手に重湯の入ったレンゲを取り寄せた。

有無を言わさずにレンゲの先を口に突っ込まれる。今度はそのまま顎を抑えられ、吐き出すことも許されなかった。

彼の力は強く、ローがいくら抵抗しても手を離してもらうことはできそうにない。

息が苦しくなって睨み返す。


そのとき、間近で捉えた瞳の中に、ローは轟轟と燃える炎をみた。



怒りに狂う、鬼の目だ。



「ふざけるなよ」



鬼の目に、己の目が映っている。

合わせ鏡のように重なり合う視線の中で、ローは男の怒りの炎が自身に燃え移るのを感じた。



ごくり。ほんのり甘い重湯をなんとか飲み下すと、ローは腹の底がじわりと温まったのを感じた。

急な飢餓感に襲われる。重湯を口にしたくて堪らなくなった。脳が体に生きろと命じている。


心に何重にも刻まれた呪縛を、怒りの炎が焼き切る。




「死ぬなら、命を使い切ってから死ね」



ローが重湯を口にしたのを見届けて、男はローからようやく手を離した。

ローはもう咳き込まなかった。




「・・・・・・ああ、そうするさ」




思い出した。自分がどういう人間だったのかを。

絶望と悲しみを全て怒りの炎にくべて、原動力にできる人間であったことを。


そうして自分はかつて、天夜叉のもとへ辿り着いたのだ。


自分はまた同じことを繰り返すだろう。かつては天夜叉の力を求めて。今度は、今度こそ天夜叉を討つために。






「それで、粥はもう食えそうか」

「今はまだ無理だな。少しずつ米の割合を増やしてもらえれば、三日後には具入りの全粥も食えると思う」

「そうか」


ローは左手でレンゲをとると、椀の中の重湯を無心で啜った。


「美味い。・・・・・・作ってくれた奴に礼を言っておいてくれ」

「・・・・・・今日の粥を作ったのはシャチだ。後で自分で言え」

「分かった。次の粥の具は白魚のほぐし身と大根おろしが良い」

「・・・・・・あればそうしてやるが」

「ありがとう」


図々しい奴。呆れたようにローを見る男の目は、もう医者のものに戻っていた。







***











「・・・・・・船長」


ローがもう一人の自分の診察を終えて部屋を出ると、診察室の前の廊下でベポが体を小さくして座り込んでいた。

体は大きく逞しいのに、可愛い年下のクルーはどうにも気が小さなきらいがあった。


「どうしたベポ」

「ゴメンね船長、盗み聞きなんてするつもりなかったんだけど・・・・・・」


聴覚が特別優れたベポのことだ。ローはもう一人の自分との先ほどのやり取りをベポが聞いてしまったことを悟った。

そして、その内容にベポが胸を痛めていることも。


「船長、おれ、もう一人のローさんにこれ以上辛い思いをしてほしくないよ」

「・・・・・・ベポ」

「あっちのドフラミンゴがいないこっちの世界で、もう一人のローさんもずっと一緒に航海するんじゃダメなの・・・・・・?」


ベポのつぶらな瞳がうるうるとローを見上げた。

抱きしめてほしがる幼子のような様子のベポの前にローは膝をついて、白い毛皮を撫でて宥めた。


「・・・・・・それじゃだめなんだ。あいつはケジメをつけなきゃいけない」

「でも・・・・・・」


同じ人間だから、ローには分かる。

自身が喪った痛みをそのまま飲み下せない人間であることを。痛みを昇華するために足掻かずにはいられない人間であることを。


「この先あいつは厳しいリハビリを余儀なくされるだろう。それを手伝ってやってくれるか、ベポ」

「・・・・・・うん」


完全に納得はいっていないのだろうが、ベポはローの言葉に頷いた。



「船長、ガルチューしてもいい?」

「・・・・・・好きにしろ」

「うん!ガルチュー!!」


ベポは勢いよくローを抱きしめると、頬を何度もすり寄せた。

よほど不安があるらしい。


「あっちのローさんもだけど、船長も危ないことはやめてよね!」

「善処する」

「嘘つけ!絶対なんか危ないこと企んでるもん!!どうせあっちのドフラミンゴを倒すのに協力する気なんでしょ!!」

「・・・・・・」

「黙った!図星なんだ!!」


付き合いの長いベポには、ローの考えなんてお見通しらしい。

実際、ローは向こうの世界のドフラミンゴとやらの所業に腸煮えくりかえっていたし、ぶっ倒したいと思っていた。


「ドレスローザのときと違って、今度は着いていくからね!絶対殺されたりしないから!」

「どうだかな」

「本当だもん!おれたち、ちゃんと鍛えて強くなってるんだからね!」

「分かったよ」

「絶対、絶対だからね!」

「ああ」


最愛のクルーを喪いたくない。だからきっとローはまたクルーを置いていくだろう。


そんな内心を見抜いているのか、白い毛皮を何度も擦りつけてくるベポのスキンシップに、ローは身を委ねて好きにさせてやることにした。



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