英雄

英雄


男の首が、地に落ちた。

ひび割れ血肉を晒した墓石と無数の死体から流れ出た血の川の、その終着点に。

ついに光を失った月の香りが、温かい血の匂いに塗り替えられていく。

英雄、ルドウイーク。

その名は聖堂街で、上層で、ある男の呼び出した悪夢で読み漁った医療教会の資料の中にいつも見かけたものだった。進行する獣化の中で、なおも獣を狩り続けた狩人。医療者たちには観測されるべくもない、狩人たちの悪夢へと消えた男。

「…狩人よ、光の糸を見たことがあるかね?」

血だまりの中で、首が蠢いた。まだ、生きている。

「とても細く儚い。だがそれは、血と獣の香りの中で、ただ私のよすがだった」

馬がいななくような嗚咽を交えて、英雄はそう語った。

かろうじてまだ像を捉えられるのだろうその左目は、鴉羽を纏ったおれの姿に揺れている。

「真実それが何ものかなど、決して知りたくはなかったのだよ」

かつてヤーナム市民に狩人を募った男は、夜に迷わずひたすらに獣を狩り続け、一つの時代を作り上げた。そうして心折れることのない彼は、膝をつかないままに夜に消えたのだ。彼を慕った同胞たちと共に。

そういった記述を目にする度、不思議で仕方なかったことがある。

おれが目にしてきた罹患者たちは、資料にある彼のような進行度に至れば確実に理性を失くしていた。禁域の森で狩った男は人と獣を行き来できたが、獣の姿のままに狩人の心を失わない有様とは何かが決定的に違うような気がしていたのだ。

ようやく分かった。

血でも、狩りでも、悪夢でもない。彼に酔いをもたらしたものの正体が。

おれに、彼を救う言葉の持ち合わせはない。そんな言葉をかけるべきでもない。

ただ一つ許されることがあるのなら、それは。

撃鉄を起こし、左手で短銃を構えて照準を合わせる。

常に左に銃を構える癖は、この街で身に着いたものだった。

暗く長い夜の、狩人の業だ。


「あんた、随分と腕が良いんだな」

この悪夢に迷い込んだのだと言いながら、やけに具体的で詳しい説明を披露してくれたあの男の声がした。

分厚く覆われた両目で何が見えるわけでもないだろうに、不自由さを感じさせない動きで血だまりを歩いている。液体の中で足を進めているのに、何の音も響かない。自らの気配を極限まで潜めて狩りに挑んできたのだろうこの男の有様はきっと、英雄と呼ばれた首の主の落とした影そのものだったのだろう。

「…彼は不幸な男だった。だが、もう醜態をさらすこともないだろう。理想を抱いて死ぬぐらい、せめて英雄の権利だろうさ」

「そう思うか?」

こと切れた首を見下ろしていた男が、ぎょっとしたようにこちらを振り向いた。

脇にうず高く積まれた死体たちが、助けを求めて虚空に腕を伸ばしている。何人も何人も、呻き声を漏らしながら。

「狩人が"正しい"なんてことが、あると思うか?」

おれたちの手にまだ正義があるなら、どうしてルドウイークはこの悪夢に居たんだ。

体を焼かれ打ち捨てられた、爛れた皮膚のへばりついた血と肉と骨の山が、夢の中でさえ救われずもがいているのは、何故なんだ。

"正しさ"は、簡単に人を酔わせる。

遠い昔にさえ思える、夕暮れのヤーナムの街。未感染者を探して駆けずり回った大通りでは、酷く獣化し磔にされ、火にかけられた遺体を見た。

おれたち家族をああした人たちには、おれたちはあんな風に見えていたのだ。

街を病ませ、悍ましい呪いをふりまく厄災。

おれたち"人でなし"の為のあの地獄は、彼ら人間の正しさの下で生み出された。

「掲げる者に枷を嵌めない正義なんて、存在するべきじゃないんだ」

不断の選択を捨てた正義は、淀んで倫理を腐らせる。

時代が海賊の名を冠するその前から人々を守り続けた養父が、海兵となったおれに最初に教えてくれたことだった。

正義を掲げる者には、常に選択を迷わぬ覚悟が必要なのだと。

―為すべきことを、為すのだと。

弔いを知らずにいた幼いおれにとって、正しさは地獄から這い出すために初めてこの手が掴んだ糸だった。とても細く儚いそれは、きらきらと光を反射して見えた。

英雄の遺志がおれに見せた追憶が、知らないはずの景色を腹の奥から引きずり出す。

ドレスローザの花畑にぽつんと建てられた、水車の回る美しい家。

兄のコートのような髪色をした、名も知らない小さな女の子。

光を掴んだその手でおれは、たやすく人を殺したのだ。

花畑を汚した血も肉も臓腑も感慨なく蹴散らして、気絶させた少女の体を背負った。

その選択を疑うことすら、無いままに。

正しさは、簡単に人を酔わせる。

慈悲を欠いた殺戮の中で、人は誰しも獣に変わる。

本当に、タチが悪い。

「なんだあんた、もしかして、海兵だったりするのかね?」

「今は狩人やらせてもらってる」

「ああ…そうだろうとも」

英雄を導いた、目も眩む欺瞞の糸。

ありがたい神秘の秘文字相手に俺もゴメンだと吐き捨てて、目元を覆ったその男は、少しだけ笑った。





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