苦味
いつも見慣れた拓海の部屋。だけど今日は足を踏み入れた瞬間、違和感を覚えた。
どうしてだろう?
ん〜? 本棚かな? 確かに新しい雑誌が数冊あるけど、新しく買ってくるのはいつものことだから別に不思議じゃない。でもあたしが本棚に触ろうとするとすごい嫌がるんだよね〜。
ま、どうせエッチな漫画とか隠してるんだろうけどね。
おばあちゃん言ってた。男の子の本棚とベッドの下は漁っちゃダメって。それと、今はネット社会だから本命を知りたかったら検索履歴のサジェストから絞り込めるって。
あたしネットよくわかんないけど。サジェストってなんだろ、美味しいのかな?
とかぼんやり考えながら部屋を見渡して、机の上で目が止まった。
宝石に見立てたピンク色のプラスチックを嵌めた指輪のおもちゃがそこに置かれていた。
勉強中にふと思い出して引き出しから取り出して、しばらく眺めた後、視界に入るような位置に置いた──そんな光景が思い浮かぶ。その指輪を眺める拓海の顔はどこか懐かしげに見えて……
キュ、と胸が締め付けられた気がして、あたしは幻から覚めた。
どうしてそんな想像をしたんだろう。わからない。でも……
……この指輪は、見覚えがあった。
ゆいと一緒にエルちゃんのバースデーケーキを作るために、俺はキッチンで材料を準備していた。
赤ちゃん用に工夫された特別なレシピをわざわざ調べたんだが、間抜けなことにネットで調べてメモした紙を一枚、部屋に忘れたことに気がついた。
その時、俺は薄力粉を篩にかけてた最中で手が粉だらけだったから、それを見たゆいが「取りに行くよ」と言って止める間もなく俺の部屋に行ってしまったんだ。
まぁアイツが俺の部屋に立ち入るのはいつものことだから、見られて恥ずかしいものなんてない。物理的証拠はこの前、全て捨てたからな!!
……本棚に見慣れない雑誌が加わってたのを見つけた時は心臓が止まるかと思った。あんなことする奴は菓彩しかいない。そう思って問い詰めたら、あんにゃろう平然と認めた挙句に、気に入ったか、なんて逆に質問してきやがった。
──なにを考えてんだお前は!?
──性癖も多様性が大切だと思ってな。
わ、わけがわからない……。あんな下ネタ大魔王がエルちゃんを預かって大丈夫なのかと不安になって、それからエルちゃんが来るたびに足繁く通うようになった。
まぁそれはともかく、ゆいのやつ遅いな?
メモは確か机の上に置きっぱなしにしておいたはずだけど……
……そこまで考えて、その机の上にあのおもちゃの指輪も置きっぱなしにしていたことを思い出した。
古いヒーロー番組の小物玩具として安売りされていた、ありふれた安物のおもちゃだ。
── どうしてこの色が欲しいってわかったんですか……?
──お姉ちゃん、だからかな?
「拓海〜、メモって、コレでいい?」
「あ、あぁ、それだ」
戻ってきたゆいからメモを受け取り、そこに書かれた材料と分量を準備する。
「ねぇ拓海」
「なんだ」
「指輪のおもちゃ、見つけたんだ?」
ベーキングパウダーを求めて戸棚を探る手が思わず止まった。
「なんのことだ?」
「指輪だよ。ほら、昔やってたヒーローの、仮面なんたらってやつ。拓海の宝物だったじゃん」
「あ、うん、そうだな」
「失くしたって言ってたよね……見つけたんだ?」
「あ、ああ……見つけたんだ。部屋を掃除した時に、偶然な…」
「ふぅ〜ん」
なんで、俺は嘘なんかついたんだろう。
処分した雑誌とか本とか、消した検索履歴と違って、やましいことなんてなにも無いのに……?
そうだよな。やましいことなんて、なにも無いよな?
──お姉ちゃん、これね、僕じゃなくて、お、俺の宝物!
──仮面ドクターウィザードの指輪だよ!
──ウィザードはね、希望のお医者さんヒーローなんだ! だから、これつけてたら、お姉ちゃん絶対に治るから!
──仮面ドクターが助けてくれるから!!
まさか、な……
俺は気を取り直して、ゆいと一緒に本格的にケーキ作りに取り掛かった。
下準備した薄力粉にベーキングパウダーや他の材料を混ぜ合わせ、オーブンに入れる。
焼き上がるまでに、ゆいと二人で低脂肪クリームを一生懸命泡立たせる。乳脂が少ない分、普通のホイップクリームと違ってなかなか固まらない。
「うりゃうりゃうりゃ〜!!」
「おわ、ゆい、そんな乱暴に泡立てるな! あーあ、鼻先までクリーム飛んでるじゃないか」
「えへへ、ごめーん。拓海、拭いて〜」
可愛らしい鼻の先にクリームをつけて、ゆいが「んっ」と顔を突き出してくる。
こいつ、自分がどんな顔を男に向けているのか自覚あるのかよ。
無いって知ってるけどさ!
「ほら、取れたぞ」
「ありがと、拓海♬」
楽しそうな顔しやがって。
なぁゆい、お前は今が一番幸せなのか?
俺が優しいお兄ちゃんのままで居ることが、お前の幸せなのか?
ピーピーピー、とオーブンから音が鳴り、ケーキが焼けたことを知らせた。
俺はそれを取り出す。
「ねぇ拓海」
「今度はなんだ?」
「そこにある鳥さんのヌイグルミ、拓海が買ってきたんだよね」
俺はちょっとだけ唾を飲み込んで、平静を保ちながら、「そうだ」と答えた。
「拓海もセンスあるね。ちょっと意外。……誰かに相談したの?」
俺はオーブンから取り出したケーキに火が通っているか確認するフリをしながら、その間に気を落ち着けた。
やましいことなんて、なにも無い。そうだよな。
「ああ、アレ、花寺先輩に選んでもらったんだ。赤ちゃんとかよくわからないし、先輩ならそういうの詳しいかなぁ、って」
「…あ、そっかぁ。………うん、そうだよね、のどか先輩、ああ見えてとっても頼りになるもんね」
ゆいのあっけらかんとした態度にホッとした俺は、型から抜いたケーキの端を切り落として、それをゆいに差し出した。
「ゆい、こっちのも味見してくれ」
「…あ、うん」
「どうだ?」
「えっと……うん、美味しいよ」
ホッとした俺が、早速クリームでデコレーションを始めようとしたとき、
「あ、ごめん。ちょっと急用を思い出しちゃった」
「え?」
ゆいは急にそう言うと、止める間もなくキッチンから出て行ってしまった。
「な、なんだよ、アイツ…」
わけがわからない。
なんだ? もしかしたら味見したケーキに何かあったのか?
俺は手元に残っていたケーキの切れ端を口にして……すぐに吐き出した。
「苦い…なんだこれ、今さらゴーダッツじゃあるまいし?」
いや、この苦味は、重曹だ。ハッとして戸棚を漁ると、案の定、手付かずのベーキングパウダーが出てきた。
漫画みたいな初歩的なミスだ。重曹とベーキングパウダーを間違えるなんて……
「だったらゆいは、なんで美味しいなんて言ったんだ……?」
自分の部屋に戻ってすぐ、あたしは自分のベッドに身を投げ出すようにうつ伏せになった。
口の中が重曹で苦い。拓海があの時に間違えたんだ。
戸棚を探っている時に、あたしが指輪のことを訊いたから、それで気が飛んで間違えたんだ。
なんで、見つけたなんて嘘ついたの?
あたし、知ってるよ。拓海の宝物は、病気の女の子にあげたこと知ってるよ?
拓海は強がって誤魔化してたけど、あの時、花寺って女の子にあげたこと……あたし……知ってるんだよ……
のどかちゃん……ねぇ、のどかちゃんは……あの女の子じゃ……無いよね……?