端切れ話(花の図鑑)

端切れ話(花の図鑑)


地球降下編&監禁?編

※リクエストSSです




 アパートを契約してから数日後、一時的に体調不良になっていたエランはすっかり元の調子を取り戻していた。

 平素では考えられない迷惑をスレッタに掛けてしまったが、彼女はほがらかに笑って許してくれている。そんな優しい彼女のためにも、安心して休めるアパートの準備を進めなければいけなかった。

「スレッタ・マーキュリー、少し外に出て来る。アパートの引っ越し準備と、ついでに食事も買ってくる」

「はい、分かりました。お帰りは何時くらいになりますか?」

「昼近くになると思う。もし遅れるようだったら連絡するから、端末は持っていて」

「はい。えへへ、いってらっしゃい」

「………。行ってきます」

 スレッタに見送られながら、エランはさっそく宿の外に出た。久しぶりに言われた挨拶にどこかくすぐったい気持ちを覚えながら、雑多な大通りを歩いていく。

 朝の通りは活気に満ちて、いたるところから様々な音や匂いが飛び込んでくる。

 エランは香辛料や穀物、果物等が混ざった匂いを嗅ぎながらも、旅の間に目を輝かせて食事をしていたスレッタを思い出していた。

 今後は出来る限りルームサービスではなく、屋台の食事を買って来た方がいいだろうか…。そう思い、横目でスレッタが好きそうな品を見定めながら歩いていく。

 ともあれ今日は色々と必要なものをアパートに運び込み、ついでに周辺の調査をする予定でいる。屋台の本格的な物色はそれが終わった後でいいだろう。

 エランは少し大きめの店舗で生活物資を購入すると、すぐにアパートへ運び込んだ。大型家具はすでに備え付けられているので、それほどの手間はかからない。

 軽く掃除もして、とりあえず最低限の生活ができるくらいまで準備を整えておく。

 作業が終わってもまだ昼までに時間はあるので、エランはアパートの周辺からさらに足を延ばして辺りを調査することにした。

 大通りだけではなく、裏道や脇道などの小さい道もチェックしていく。意外と治安はしっかりしていて、日のあるうちは1人で歩いても大丈夫そうだ。

 気付けば建物の影が短くなり、昼間に近くなっている。そろそろ帰ろうかと思っていると、エランは懐かしい匂いを嗅いだ気がして思わず足を止めていた。

「………」

 そこには一軒の店がある。

 現地語でしか書かれていないが、それは古本屋のようだった。


 エランは学園時代、一冊の本に助けられていた。学園の誰もが生徒手帳で電子本を楽しんでいる中、おそらく紙の本としてエランだけが所持していた、それは大昔の哲学書だった。

 ショーペンハウアー著『意思と表象としての世界』。簡素な表紙の中に閉じ込められたその世界は、随分と難解で、また随分と厭世的な内容だった。

 ペイル社にいた頃には私物など持てる余裕はなかったので、学園に来てから手に入れたものだと思う。その本を読み出してからの記憶はしっかりとあるものの、実際に手に入れた瞬間の記憶は曖昧だった。

 学園のエランに常に寄り添ってくれたあの本は、外見は綺麗ではあったが古い本特有の匂いが微かにしていた。

 どこか古ぼけた木のような、土のような、あるいは花のような、懐かしい匂いだ。

 大抵のアスティカシアの学生には嗅ぎ慣れない匂いだったろうが、園芸が趣味のミオリネ・レンブランや、おそらく地球から拾い上げられた子供であるシャディク・ゼネリなら分かってくれたのかもしれない。

 今ならきっとスレッタも、その匂いが何に似ているか気付いてくれるはずだ。

 エランは扉を開けると古書店の中に入った。途端にむわりと古い本の匂いが押し寄せて来る。水分をたくさん含んだ、苔むした森の匂いだと思った。

 見回せば正面も側面も、棚の中にはぎっしりと紙の本が詰めこまれ、それでも間に合わずに平積みになって置かれていた。中には背表紙を修理したのか手書きで題名が書いてあるのもあり、随分と本を大事にしているのだと感心してしまう。

 雑多な印象はあるが、大まかにはジャンル別に分けられているようだ。語学や雑学などが置いてあるスペースをざっと見てみると、その中に何冊かの哲学書が混ざっていることに気が付いた。

 けれど、懐かしいあの表紙や題名を見つけることはできなかった。

 少し残念には思うが、同じものを見つけたとしても再び手に取る事はないだろう。エランを助けてくれたあの本は、スレッタの私物と共にデミトレーナーと一緒に燃やしてしまった。

 様々な思い出の品を彼女から強引に取り上げたのだから、当然、自分もそうするべきだと思っている。スレッタの私物と一緒に捧げたあの本は、当時のエランの唯一の持ち物だった。…あの本以外、自分には何もなかったのだ。

「───」

 学園での思い出を振り切るように息を吐く。…久しぶりに沢山の本を見る事ができた。きちんとした記憶にはないが、懐かしいと思うこの感情はきっと本物だ。

 エランは最後に大きく息を吸い込むと、店を出る為に踵を返した。いい加減スレッタも待っている筈だ。もう用事は済んでいるのだし、早く帰った方が良い。

 どこか後ろ髪を引かれる思いをしつつもドアに手を伸ばす。すると偶然、入り口付近に置かれた一冊の本が目に入って来た。

 ほんの少し掠れた表紙の、けれどしっかりとした頑丈そうな装丁の本だ。

「………」

 その表紙に何が描かれているかを認識した途端、エランはドアノブを持つはずの手をそっと本に伸ばしていた。


 古本屋を見つけてから数日後、エランとスレッタの2人は無事にアパートへと引っ越しすることができた。

 とはいえ初日は色々とバタバタする。事前に準備は整えていたつもりだが、生活に必要な細々とした物資をすべて揃えられたわけではなかった。

 なにせエランは今まで家の準備などしたことがない。実際にアパートへとやって来て、そこで初めて必要だと知る物もあった。

 気づいた端からメモを取ると、さっそく外へ買い物に出る。その間スレッタは残って掃除をしてくれることになった。

 事前に掃除をしていたので汚れてはいないが、おそらく気分の問題だろう。スレッタは新しい住居に早く馴染もうとしてくれているのだ。

 彼女のそんな前向きなところは密かに尊敬しているところだ。進めば二つ、という言葉自体には思うところがあるが、それとこれとは話が別である。

 ともあれ。エランは必要なものをきっちりとメモを見ながら揃えていった。いくつかの店を回ったので、帰って来た時には一時間以上は過ぎていただろうか。

 室内用の靴に履き替え、廊下へと進んでいく。さすがに掃除は終わったようで、アパートの中は静かだった。

 きっと部屋で休んでいるんだろう。そう思いながらダイニングへと入ると、そこには一冊の本を静かに読んでいるスレッタがいた。

 思わぬことに目をぱちりと瞬かせてしまう。

「あ、おかえりなさい。エランさん!」

「ただいま。…スレッタ・マーキュリー、その本は…」

 スレッタが手に持っているのは大ぶりの花図鑑だ。

 古本屋に売られる前にどこをどう旅して来たのか。それはエランの故郷の言葉で記されていて、見覚えのある花たちが表紙を華やかに飾っているものだった。

 写真ではなく緻密な絵で花々が描かれているその本を、エランは見つけた瞬間手に取ってしまった。時間がないのにパラパラとページをめくり、気付いたら会計していたのだ。

 普段嵩張るものを買わないようにしていたのに…。衝動に任せて買ってしまったのが恥ずかしく、引っ越し先のダイニングの棚にそっと忍ばせてしまった代物だった。

「掃除の途中に棚に置いてあるのに気付いて、手に取ってしまったんです。本の中には、こういうものもあるんですね」

 ほら、この花は見覚えがあります。そう言ってスレッタが嬉しそうに見せてくれたのは、いつかの花冠に使った花々だった。

 これも、これも見覚えがあります。弾むように言いながら、彼女の指先が様々な花たちを指し示していく。

 この図鑑を古書店で見つけた時、思い浮かんだのはスレッタの顔だった。つまり、この本は彼女の為に買ったものなのだ。

 だから彼女が楽しそうに見ているなら、エランは十分満足だった。


「エランさん、このお花見たことありますか?」

「エランさん、このお花道端に咲いてましたよね?」

 置き場所もよかったのか。スレッタはちょっとした隙間時間にその図鑑を眺めては、エランに話しかけたりした。

 エランも故郷の文字を読めない彼女の為に、説明文を読んであげたりした。

 本は知識の伝搬の為にある。けれど、決してそれだけではない。コミュニケーションツールとしても最適だった。

 古本屋で偶然見つけたこの図鑑は、十分すぎる働きをしてくれた。


 時間は過ぎ、あと一月もしない内に新たな土地に行くことになる頃。スレッタが図鑑を次の旅にも持っていきたいと言い出した。

「…現物だと重くて嵩張るよ。電子本で探してみたらどう?」

 エランは戸惑った。スレッタは基本的に物分かりが良く、必要ならきちんと割り切れる人だからだ。

「分かってますけど、この図鑑は持っていたいんです」

 申し訳なさそうに言うと、彼女は図鑑をじっと見つめた。

「この本の匂いが好きなんです。旅の間に通った森や、舗装されてない道を思い出します」

 確かに匂いは電子書籍にはないものだが、まさか利点として語られるとは思っていなかった。エランの頭に2人で通った森の情景が思い浮かぶ。

「アパートでの思い出も、いっぱい詰まってますし」

 ダイニングで図鑑を見ながら話しあった光景が甦る。

「世界に一冊の、特別な本なんです」

 そうして最後の言葉で、エランは燃やしてしまったある存在を思い出していた。

 自分の心を救ってくれた、一冊の哲学書。あれがなければとっくにエランの心は壊れていた。

 スレッタを見る。彼女はとても大事そうに花図鑑を持っている。…あの頃の自分を、思い出す。

「………」

 本は知識の伝搬の為にある。けれど、決してそれだけではない。エランを支え続けてくれたあの本のように、替えの無い存在にもなり得るのだ。

 気付けば、エランはこくりと頷いていた。


 目の前で、図鑑の花々にも負けないほどの、綺麗な笑顔が花開いた。







番外編SS保管庫




Report Page