色のない世界で、色づく君と。
あああ※近親相姦を示唆する閲覧注意な描写があります。御了承の上でお読みください。
世界は色に満ちている。
かつて読んだ本に、書いてあった言葉を思い出す。
それは、「あの世界」に居た頃の話。ということは、やはりあの本も架空のものだったのだろう。
何故ならば、ほら。
俺の目に映る世界に、色なんてないのだから。
相変わらずの日雇いの仕事を終え、帰途に就く。
今日はとある事務所の搬出作業だったが、早めに作業が終わったためだいぶ早上がりすることができた。
途中でドラッグストアに寄り、部屋で待つ妹に手土産を購入する。
日が沈む前に帰れるのは久しぶりだ。少し浮かれた気分が、自然と足を速める。
俺達はかつて、虚構の世界の中にいた。
無数のカメラに監視され、それと知らない俺達の人生そのものを常に映し出す生中継ドラマ。
その対象として、俺は選ばれた。双子の妹という設定を与えられた少女と共に。
ご丁寧に、俺達には強力な暗示を用いて前世の記憶まで植え付けられた。
俺達は何も知らぬままに、前世の記憶を持った子供として、主演を務めさせられてきた。
前世の推しであったアイドルの子供として転生。母を凶刃で失う悲劇。
誰にも話せぬ秘密を抱えたままの十数年の人生。自分の意思であるかのような、芸能界への強い執着。
俺達の歓喜。悲嘆。苦悩。憤怒。全てが仕組まれたことであり、俺達の反応は世界中の人々の娯楽として広まっていたという。
だが、普通でない人生の中で感じ続けた僅かな違和感。それが蓄積されていくにつれ、俺は世界の全てに疑いを抱きつつあった。
そして…ある時に、俺達は知らされた。俺達のいたその世界の全てが虚構であったことを。
俺達は、世界中の人間の視線に晒され続けている、「主役」であったことを。
信じられなかった。信じたくなかった。けれど、積み重なった違和感の全てが、それが真実であることを示していた。
そして、それが否定のしようがない事実であると認識した時…俺の世界から、色が消えた。
赤く染まっているであろう空。道を行く人々。街に煌めくネオンサイン。
それらの全てが、古ぼけた映像のように色褪せ、くすんで見える。
「あの世界」が虚構であると知ったその日から、それまで色づいていた「あの世界」にある物全てから色が消えた。
「あの世界」から脱出できれば、本当の「世界」に出られたなら、きっとまた世界は色づいて見えるはず。
そう思っていた俺の希望は、完膚なきまでに打ち砕かれた。
巨大なスタジオからついに脱出して見上げた空は、「あの世界」と何も変わらない色をしていた。
外の世界にいる人間の全てが、俺達を笑い物にしていた人間であるようにしか見えなかった。
何も変わらない。誰も信じられない。それでも、もう戻ることはできない。
俺達は、絶望を抱いたまま、外の世界に踏み出すしかなかった。
自由の身になったとはいえ、戸籍もろくに使えない人間が得られる仕事も住居もたかが知れている。
幸いなことに「あの世界」で稼いだ金は本物であったようで、全てではないがある程度は持ち出すことができた。
多少の蓄えにはなっているが、それを使い切る訳にはいかない。
俺達は地方都市の片隅で、細々と日銭を稼ぎながら暮らすしかなかった。
今のところ、俺達の正体については周囲に悟られている様子はない。
髪を染めて髪型を変え、メガネやマスクで顔を隠す程度のことしかしていないが、それでもバレずに済んでいる。
聞いていた視聴率を考えれば、周囲に俺達を知っている人間がいてもおかしくはないはずなのだが。
画面の向こうの存在が近くにいるとは思いもしていないのか。それとも、周りの人間に目を向けることをしない人が多いだけなのか。
いずれであっても俺達には好都合でしかない。気付かれるようなら、ここから消えるだけだ。
俺達にはもう、帰る場所などないのだから。
安アパートの錆びた階段を慎重に上る。
ここの大家は入居者の詳しい事情を聞かない。家賃さえ納めれば誰でもいいというスタンスだった。
妹の事を考えると安全性に不安もあるが、選り好みできる立場ではない。
部屋の前に立ち、決まった回数ノックをする。自腹を切って据え付けたチェーンロックが外される音がした。
そして、重い扉を開ける。
「お帰りなさい、おにいちゃん」
世界が、色づく。
沈みかけの夕日が差し込む茜色の部屋の中で、妹が笑顔で迎えてくれた。
その笑顔は、かつて虚構の世界でアイドルとして名声を得ていた頃と何も変わらず…否、きっとあの時よりもずっと輝いていた。
「ただいま。何もなかったか?」
「うん、今日も平和だったよ。おにいちゃん、今日は早かったね?」
「ああ、仕事が早上がりできてな。ほら、お土産」
「え? わ、ハンドクリーム! 結構いいやつじゃん、いいの?」
「いいも何も、お前のために買って来たんだから。使ってくれよ」
「ありがとう…! えへへ、嬉しいなぁ」
受け取る妹の手は、あの頃からは考えられない程に荒れ、傷ついている。
本当は彼女にはそんな過酷なことはさせたくない。けれど、俺一人の稼ぎでは二人で生きるのは難しかった。
何よりも、俺一人に大変な思いをさせたくないという彼女の意思が。情けないことに、俺にはとても嬉しくて。
今は、妹も仕事を見つけて働いてくれている。
あの世界から出てこなければ、彼女の手をこんな風にさせることはなかった。
例え虚構の世界とはいえ、光り輝く舞台で、彼女は夢を叶えていたはずだった。
俺が、彼女を、連れ出さなければ―――
「おにいちゃん」
考えに耽りそうになった俺の顔を、妹がのぞき込んでいた。
「また、後悔してるんでしょ」
「…してる。多分、これからもずっとする。俺が、お前にこんな思いをさせてしまっているって」
「もー、おにいちゃんてば。またそんな風に…。
だったら私も、これからずっと言ってあげる。私は後悔してないよ。おにいちゃんと外に出てきたこと、絶対後悔しない。
あの世界にいることがおにいちゃんを苦しめるなら、私はあんな世界になんて居たくない。
おにいちゃんがいない世界になんて、私は居たくない。
例えどれだけ辛くたって、おにいちゃんと一緒に居られることが私の幸せなんだよ」
「……」
「それにね…こんな風に、おにいちゃんが本当に私を労わってくれることを感じられるの、嬉しいもん」
そう言って、ただの市販品のハンドクリームをまるで宝石のように胸に抱く妹。
その表情に知らず、胸が熱くなる。
「あ、おにいちゃん泣きそう? 泣いちゃう?」
「バカ言え」
「あー、照れてる! おにいちゃんカワイイ!」
天真爛漫に笑う彼女の笑顔は、何よりも眩しくて。
もしも最初に考えていた通りに、俺一人で外の世界に出ていたら。
この笑顔がないままに色のない世界に包まれていたら、俺はとうに生きていく気力を無くしていただろう。
彼女のために、生きよう。今の俺には、それだけが全てだった。
色が消えた俺の世界の中で、妹の周りだけはそれまでと変わらず色づいていた。
彼女から発される光が、既に擦れ切った俺の目にすら色を映してくれている。
きっと、彼女は俺にとっての太陽なのだろう。
太陽なき世界で人は生きられないように。彼女のいない世界で、俺はもう生きられない。
二人で夕食に興じ、入浴を済ませ、穏やかな時間を過ごす。
これは、これだけは、あの頃と何も変わらない。
俺達にとっての、唯一の真実なのだ。
「…まだ、起きてるか」
夜。一つの布団に身を寄せ合う俺達。
彼女の温もりを感じられることがただただ幸せな暗闇の中で、俺はかすかな声で呼びかける。
「なぁに」
彼女もまだ起きていたようで、すぐにこちらを向いて笑いかけてくれた。
僅かに入る光に照らされる彼女のその笑顔が愛おしくてたまらない。
「…―――」
だから、彼女の名を呼んだ。『ルビー』でも『さりな』でもない名を。
「――」
彼女も俺の名を呼んでくれる。それもまた、『アクア』でも『吾郎』でもない。
外の世界に出て最初にやったことは、互いの名前を決めることだった。
俺達の名前は、ドラマを通じて知れ渡ってしまっている。それは、偽りの前世の名前も同じく。
だから、そのどちらでもない名前が俺達には必要だった。
俺は彼女に名を与え、彼女は俺に名をくれた。
今の俺は『――』であり、彼女は『―――』である。
「あの世界」で役者を経験していたことがよかったのか、俺達は新たな名をすんなりと受け入れることができた。
何と言っても、彼女が俺にくれた"真実の名前"なのだ。受け入れられないはずがない。
そう。俺達はもう、『アクア』でも『ルビー』でもない。俺達を「双子の兄妹」に縛り付けるものは、もう何もない。
ただの、互いを想い合う男と女なのだ。
「―――」
彼女の目を見つめて、名を呼んだ。
「――」
彼女も同じように、俺を見つめて名を呼んでくれる。
それで、十分だった。
彼女の体を、強く抱きしめて。
唇を、重ねた。
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朝ぼらけの薄い光の中で、隣で眠る人の顔を見つめる。
とてもとても愛しい人。『おにいちゃん』で、『アクア』で、『ゴローせんせ』で、『――』。
色んな名前があるけれど、そんなのは私にとってはどうでもいい。
ただ、この人がここにいる。それだけでいい。
愛しい人の熱の残滓が、まだ体の中に残っている気がする。
体を重ねるようになって、どれだけ経っただろうか。
初めての時は、今思い出してみればほとんど私が誘導したような形になってしまっていた。
仕方なかったのだ。あれほど絶望に打ちひしがれていた彼を救う手立てなんて、私には他に思いつかなかったから。
彼は私を貪るように求め、私はそれを受け入れた。それは、私にはずっと願っていたことだったから。
彼は『妹』に手をかけてしまったことを悩んでいたけれど、私は最初からそんなことは気にならなかった。
彼は、この世界には色がないと言う。
「あの世界」の全てが嘘だと知った時から、世界から色が消えたと。
私にとっては、それは――最初からそうであったのだ。
理由はわからない。私に与えられた『設定』なのか、それとも私の『資質』だったのか。
私には、物心ついた時から「嘘」がわかってしまっていた。
「嘘」であるものは全て、色が消えて見えていた。母親であったはずのアイですらも。
アイが私たちに嘘をついているという事実と、何故か心の中にあるアイへの強烈な憧憬の念の噛み合わなさ。
そこから、「あの世界」が偽りであるという事実に思い至るまでそう時間はかからなかった。
でも周囲の皆が、色がない人間ばかりの世界で。
彼だけは、常に色づいて見えていた。
私にとっては、完璧で究極のアイドルも、金輪際現れない一番星の生まれ変わりも、全てがこの人。
この人が私の傍で、いつも私を照らしてくれていたから、私は生きていられたのだ。
だから。
突然、この人から色が消えた時は、本当の本当に絶望した。
とうとうこの人さえも、私を偽る存在になってしまったのかと。
けれど、よくよく問い詰めてみれば、この人もついに「あの世界」が偽りのものであったことに気が付いたこと。
それを私に告げて絶望してしまうことを恐れて、私を欺こうとしていたのだと、そういう理由であった。
私は震えた。この人は、この人だけは本当に私を愛してくれているのだと、心の底から感じたからだ。
そして、私も。私の中にあるこの人への愛が嘘ではないことを、確信できた。
『兄妹』だからでも『前世の想い人』だからでもない。『私』が『彼』を愛しているのだと。
それを感じられた時、彼に再び色が戻った。
彼は、「あの世界」から脱出することを考えていた。もちろん、私も一緒に行くと言った。
彼は私と共に行くことには反対した。私は「あの世界」で、既にトップアイドルとしての立場を確立させつつあったからだ。
けれど、私の決意は変わらなかった。偽りの世界での偶像など、何の価値もない。貴方と一緒にいることだけが、私の真実なのだから。
とうとう、彼は折れて。私は、私にとっての真実を手に入れた。
ついにたどり着いた「外の世界」は、彼にとっては思い描いたものではなかったようだった。
でも私にはそんなのはどうでもよかったのだ。
貴方だけが、私の『真実(ほんとう)』。
貴方の隣が、私の『現実(いま)』。
それだけのこと。それだけが、私の全て。「あの世界」に居た頃と、何も変わらない。
そして今私はこうして、彼に愛を与えられている。
この幸せを与えてくれた「あの世界」に、今や私は感謝すらしている。
もしも彼と私を「主役」に据えてくれなければ、私は彼に会うことすらなかったかもしれないのだから。
神の真似事をした、愚かな人達。
その腐った好奇心を散々満たしてあげたのだから、その酬いくらいは頂いてもいいじゃない?
私の隣で、私の腕の中で、苦悩も絶望も忘れて眠る、愛しい人。
貴方の『真実』は私だけでいいの。貴方の『現実』はここだけでいいの。
その心も、その愛も、私が全て受け止めるから。だから――
「だから、ずっと、一緒にいてね」
小さく囁いて、眠る彼に唇を重ねた。
私は、生きていく。
あの頃と同じように、色のない世界で、色づく貴方と。