船出

船出




シューッと蛇の唸り声に似た、嫌な金属音が鼓膜を撫でる。

今夜ほど海賊として戦い慣れた自分をありがたく思った瞬間はないだろう、とサッチは思った。

実際はつい2週間ほど前に起こった敵船との戦闘でも、全く同じことを全く同じ強さで感じていたのだが。


「やるじゃねぇか」


いつも通りにざらついた、低い笑い声を漏らしながらティーチに手を緩める気配はない。

静かに、ただじっくりと得物に体重をかける。

初撃をなんとか受け止めた包丁が、恵まれた体躯に悲鳴を上げていた。

少しでも力の受け流し方を間違えれば、切っ先が喉に届いてしまう。


「なにやってんだよ」


非難の言葉を口にしながら、サッチは口角が上がるのを止められなかった。

首筋の産毛が逆立つようなひりついた緊張感。

ザクロのように小さく、真っ赤な色をした瞳がつややかに光っている。

こんなに怖いものだったろうか、武器を持った彼の前に立つことは。


正直、状況もよく飲み込めていない。


見回りついでに夜の散歩で、寝静まった船内をうろついていただけ。

人の気配があった気がして、船室を覗いてみただけ。

誰かが寝転がっているようだったので、様子を見ようと中へ入っただけ。


「お前、なにやらかした?教えろよ」


ずるいじゃないか、とすねたような声色が混ざる。

白ひげ海賊団の全員が家族であることに異論はない。が、その中でも二人はお互いを友達だと思っていたはずだ。

少なくとも、サッチはそう信じている。

それなのに彼は友達がこれほどまでに強いことを知らなかったし、そのうえ何か楽しそうなことを独り占めしている。


「ガキみたいに強請るなよ、サッチ」

「仕方ねェだろ」


こんなに必死なお前は初めて見た。と、面白そうに笑う。

本当は周りの様子でも伺って自力で考えたいところだが、少しでも気を抜くと自分の血で溺れる羽目になりかねないのだから。

しかしこれ以上包丁に負荷がかかるのは良くない、刃物というのは側面からの力に存外弱いのだ。

つい、と思い出したふうに出入り口を顎でさす。


「とりあえず、ドアを締めたらどうだ?」


入ってきたときのまま、中途半端に開いて波に合わせてゆらゆらと揺れていた。

この状況を誰かに見られて困るのは、間違いなくティーチの方だ。

たっぷり五秒ほど考えて、踏み込んでいた足から力を抜く。


「いつもお前が言ってることだろ、開けたらちゃんと自分で閉めろ」

「ははッ、おふくろみてェだ」


どちらともなく控えめな笑い声が重なる。

きちんと扉を締めてから、サッチは振り返ってようやく、見覚えのある男が死んでいることに気がついた。

テーブルの上になにか奇妙な果物の、食べかすと葉っぱがテーブルに落ちていることにも。


「教えてやるから手伝え」


甘い誘いにそそのかされて死体を酒樽の中に隠し、床に広がった血溜まりをそれなりに掃除する。

困惑と驚愕のうちに固まってしまったその顔が、思った通りのものだったことにサッチは少し驚いた。


隊長でこそないもののそうあってもおかしくないほど腕は確かで、懸賞金の額もそれなりの、船員としては名のしれた男だ。

恐らく不意打ちとはいえ抵抗すらできないうちに、あっさり殺されるとは。


「まあ、ほんのハズミだ」


まじまじと死体を見られるのが嫌だったのか、言い訳じみたセリフをもごもご言いながらティーチは樽の蓋をしめた。

その辺のものに混ぜておけば、少なくとも朝までは誰も気づかないだろう。


「仕方なかったのさ。俺の長年探し求めた意中の悪魔の実を、あいつが手に入れちまったんだから」


かいつまんでしまうとそういう話だった。

話を聞きながら、やっぱり面白くないなとサッチは唇を尖らせる。


20年以上、その実を手に入れるためだけにこの船に乗り、ただじっとチャンスを待ち続けた。

いざというときに確実にことを運ぶため、殺し合いが常の戦場で実力を隠し続けた。

その執念と本心すら、一分も悟らせることなく。

全く見上げた根性だと感心したくもなるが。


「つまり、お前が探してる悪魔の実がスケスケだってのは嘘か?」

「あー、そうなるな」

「……赤髪の顔に傷をつけたって話、あれ冗談ってのが嘘だな?」

「バレたか」

「ティーチよぉ」


責める声音を向けられても、ゼハハハと笑うばかりで悪びれもしない。

こいつはいつもそうだ、とサッチは深いため息を吐いた。

馬鹿力で皿を割ったときも(しかも数え切れないぐらい何度も!)やり過ぎで敵をうっかり殺したときも、自分勝手なズレた意見を咎められたときも。

悪かった、なんて謝るときもあるにはあるが、口先だけだ。


「俺にぐらいは言ってもいいんじゃねぇか?」

「逆に聞くが、お前が俺だったら喋るか?」


それを言われると弱いけれど、それはそれ、これはこれ。

ガキみたいだとわかってはいても、なんとなく腹の虫が治まらない。

こちらの怒りがのらりくらりと受け流されていればなおのこと。


しかし、それ以上に。


「ここからどうする気だ?」


抑えていた口角が、もぞもぞと再び上がり始める。

胸が沸き立つようなワクワクがじわじわと全身を支配する。

こんなに興奮するのは何年ぶりだろうか。

つま先はもうすっかり辛抱たまらなくなって、床の上で小さくリズムを刻む。


「ヤミヤミの実を手に入れた、その先があるんだろう?」

「……それを聞きたいっていうんなら」


反対にティーチの顔から笑みが消える。

確かめるようにナイフを握り直したのを、サッチは見逃さなかった。


「続きは俺の船の上でだ」

「いいぜ」

「あぁん!?」


あっさりとした肯定に思わずつんのめって、きつく巻いたはずのバンダナがずれる。

眉尻を下げた呆れ顔に、心外だなと肩をすくめてみせた。

全く、今日はよく立場が入れ替わる。


「おいおい、いいのかよ」

「もう手伝っちまったしな。大体、断ったら殺す気だろ」

「……ゼハハハハ」

「こいつ、否定しねぇ!」


笑い声をもう一度重ねて、肩を組むように二人は部屋出た。

出港準備に必要なものをあれこれと考えるサッチに、お前の荷物だけでいいとティーチは言う。

いつでもモビーディックを降りる準備は整っていたらしい。

やっぱり友達としては面白くはなかったが、ここは素直に新たな船長の頼もしさと思うことにした。


手早くボートに荷物を詰め込んで静かに海面へ下ろす。

灯台下暗しとはよく言ったもので、高い場所から遠くを睨む見張り番は、甲板のことなど気づきもしない。

海は墨を流したように暗い色で、触れたが最後どこまでも落ちていきそうだった。


「しかし思い切ったな」


遠ざかる白い"家"を眺めながら、サッチはそうこぼした。

明かりもつけず、小舟は闇の上を滑っていく。

島が近いのは幸いだった。二人揃って干からびる前にはなんとかたどり着けるだろう。


「これで完全に白ひげを敵に回したぜ」

「……10年前ならやらなかったかもな」


やったかもしれねぇが、と告げる声は酷く静かだった。

言いようのない寂しさを覚え、うずくことすらできず、ただ黙ってオールを漕ぐ。


食後の薬を渡すのはサッチの役目だった。

少しでも良くしようと、日々の食事を考えるのも。

だがそれでも、彼自身はエドワード・ニューゲートの全盛期を知らない。

海賊王と真正面から殴り合った、文字通り伝説の日々を。


「白ひげの時代はもう終わりだ」


鼻を摘まれてもわからないような暗がりの中。

ザクロのように小さく、真っ赤な色をした瞳がギラギラと輝く。

思わず見惚れてしまうほど、激しい引力を伴って。


「海賊王には俺がなる」


サッチは笑った。

ティーチも笑った。


嵐が来れば沈むような頼りない小舟の上で、船長は自身の計画を語り始めた。




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