胸の戒め

胸の戒め



多くに愛された人生だった。

兄弟に。父母に。妻に。民に。

多くを捧げられ、授かった人生だった。

その愛に見合う英雄で在れた、と思っている。その自負がある。


……だがその自負は、ふと去来する思考に揺さぶられないほどのモノではなかった。それを振り払えるほどの強度はなかった。

故にこうして、何度も何度も答えのない問いを繰り返す事態に陥っている。

ああ。なんと情けない。


こんな有様の私は、本当に、彼らの思いに応えられるほどの存在だったのだろうか──?




「ほら、後ろを向いて? 今日は私がほどいてあげます」

柔らかい声が告げる。いたずらっぽい声が跳ねる。

可愛い人だ。大切な人だ。聡明で、美しくて、愛らしくて、とても素敵な人だ。

妖艶に微笑み、少女のように声を弾ませる彼女の名は、ドラウパディー。私の妻にして、私の兄弟の妻でもある人だ。

「……? ほどく、というのは……?」

「その窮屈なヤツよ、当たり前でしょう! 折角二人きりなのだから、楽な格好をなさって? 私の愛しい人?」

両肩に彼女の華奢な指が乗って、後ろからぐっと体重をかけられた。それに逆らわずに椅子に腰を下ろせば、力強く抱きしめられる。

首筋に彼女の艶やかな髪が触れて、くすぐったさについ笑みが溢れた。

夫婦として、このような穏やかな触れ合いは当たり前のことだろう。何をする気かは知らないが、こうした暖かさは嫌いではない。

そんな愛しい彼女は鼻歌まじり。私の衣を捲ったかと思えば、晒された背中に指を這わせ……待て。待って欲しい。いけない、つい油断を。先程の言葉を忘れたか。


ほどくと言ったか。楽な格好を、と言ったか。

彼女の言う楽な格好というのは、それの意図することというのは、まさか!

「すまない、待ってください。わ、私は『そうしたこと』には、応えられないと……!」

「ええ、知ってますよ? 同意もなく全ての衣服を脱がせようという話ではありません、安心なさって」

「なっ、では一体……あの、ちょっと……?」

一瞬安心したのも束の間、その手は止まらない。するりと背筋を撫で上げて、彼女は笑う。

「一部は脱がせますけれども」

「ドラウパディー!?」

無論、私達の力の差は歴然である。

こういう場合、いつだって妻……ドラウパディーの方が強いのだ。




「……先に……言ってくれ……!」

そう時間は掛からなかったはずなのに、酷く疲れ果ててしまった。

とはいえ、彼女の言葉は嘘ではない。確かに服は一枚も脱がされなかった。

服は、だが。

「だって。詳細をお話ししたら、断るか自分で脱いでしまいそうでしたから」

「それはそうだ……」

「ほら、やっぱり。言わなくて正解でした」

くすくす、楽しげな彼女の手のひらの上で長い布が踊っている。それは先程まで私の胸部を強く押さえ、かたく戒めていたもの。

有り体に言えばさらしというものである。

世間からは男として扱われているが、私の肉体は女性だ。その嘘を吐き通すために細心の注意を払っている。

背丈のために靴に細工をしたり、喉元を極力隠したり。手の甲も見えない方が望ましい、と手袋をしたり。

どれもこれも人目のない沐浴以外では外さない代物で、さらしなどはその極致にある。これがなくては、すぐに女と見破られてしまうだろう。

それを、近くに誰かいる状態で取り払ってしまうなんて! しかも他人の手で、と来た。ひどく落ち着かない。受け入れ難い。

「あんなにぎゅうぎゅうと縛っては、息が辛いでしょう? それも取って、ゆっくり休みましょうよ」

「慣れていますし、影響のない呼吸法もあります。特に苦痛は感じません」

「まあ! 私と同じくらいあるのに、それを平らにして苦しくないわけないでしょう。そんな強がるなら、私の胸も平らにしてみてから仰ってくださいね」

ほら、引っ張って縛ってご覧なさい、と布の両端を手渡された。

衣服の上からそれをゆるゆる巻きつけてみせながら、彼女はそんなことを言う。

鍛え上げた私の肉体ならまだしも、柔らかな肌にそんなことをしたら痕になってしまうのに。

自分相手だから躊躇なく縛り上げたものを、他者に行えと言うのは無理だ。

「……ドラウパディー」

「ふふ、困った顔。ごめんなさい、愛おしいものだからつい」

「謝る必要はないかと。……では返して貰っても?」

「それはイヤ。アルジュナは、我儘な私はお嫌い?」

「それは────」

「わあ、もっと困った顔!」

嫌いとも、嫌いでないとも。好きだとも、愛している、とも。

自分の感情の詳細がわからないから、何の言葉も発せない。

問いに答えられない。微笑みに何も返してやれない。その優しさに、応じることができない。

けれど、彼女は嘆かないのだろう。そんな愛に応えてやれないのが……ますます、ひどく、心苦しい。


すまない、ドラウパディー。

私の「なかみ」は雨上がりの泥濘より酷い有様だから、開示することは勿論、精査することさえ憚られるのだ。貴女への思いに触れて仕舞えば最後、その眩さに泥を塗ることになってしまう。こんな醜いところに踏み入るわけにも、踏み入られるわけにもいかなくて。


「いいの、いいのよ。意地悪を言ってごめんなさい。私はあなたと一緒にいられるだけで、こうしてお話ししているだけでとても幸せなんだから」

いつまで待とうと、答えがないことを知っている。だから、簡単に問いを切り上げ、何も出来ないまま強張る私の手を握ってくれる。

そのまま軽やかに腕を引いて、楽しげに寝台へと私を引き込んでくれる。

もう寝てしまおう、と優しい逃げ道を示された気分だった。

「さあ、アルジュナ。きっと今日はぐっすり眠れますよ。良かったですね!」

そのまま二人して、見つめ合うような形で横になる。ちゃんと隣で足を止めてくれるから、目を合わせるのに躊躇や忌避感はない。

むしろ、その瞳を覗き込む度に胸を刺すあたたかさがあるくらい。穏やかで、静かで、少しだけくるしい気遣い。優しさ。愛。強張る体を溶かす、柔らかなぬくもり。

「それ、は……どうして? 何か理由があるのですか?」

「何故って、私があなたを抱きしめて寝てあげるからですよ。どうやら、身体をぎゅうぎゅうとされるのがお好きなようですからね!」

「は、い?」

何とか制止の言葉を吐く前に、先手必勝と言わんばかりに行動に移される。

「っ、う」

彼女が全力で抱きついたとて戦士の体は軋まないはずなのに、息が詰まって堪らなかった。

「だから今日は、このドラウパディーが代わりを務めます。あんな布なんか、妻の前ではお役御免。……ね? 私の方がよく眠れそうでしょう?」

……そうかもしれない。そうではない、かもしれない。

その問いへの答えは出そうになくて、胸の痛みで声もろくに発せない。愚直に同じ抱擁を返すくらいしか、私などに出来ることは無さそうだった。

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