背を押す手は力強く
日付を書く。
天気を書く。
そこから今日あった事を書く。
大体はどこの島に立ち寄っただとか誰と会っただとか他愛無い事。
大きな動きがあればそれに関して。
それでも月日を経て積み重なれば日誌らしくなるのだから時というものは偉大だ。
今日の分の日誌を書き終えて閉じれば皮脂で色濃くなった表紙が手に馴染む。
ロジャーを真似て書き始めた日誌も随分と増えた。
船長室の本棚に並ぶ歴代日誌が並ぶのを見てローは口元を綻ばせる。
ロジャーのように立派な革表紙のものは旗揚げ前後の手持ちでは揃えられず、初代辺りは簡素な冊子だ。
冊数を重ねる毎にしっかりとした背表紙になっていくのは嬉しかった。
少しずつでもロジャーに近づけているようで、彼のように自由で強い人になれているようで。
――けれど。
緩んだ口を引き結ぶ。
「(ドフラミンゴはこっちの動きに気付いてる)」
麦わらの一味との同盟は知られている。
ハートの海賊団のクルー達も確認したのだろう。
出来ればクルー達はドフラミンゴに接触させずに退避させたかったのだが、あちらに先手を取られた以上無理だろう。
いや、ヴェルゴを見かけた時点で同盟を解消してクルー達を離脱させれば済んだ話だ。
「(麦わら屋達は最悪自力で乗り切ってもらう。あいつらも潜水しながらドレスローザを迂回すれば大丈夫な筈だ)」
傍に広げてあった海図で位置関係を確認する。
ここからパンクハザードへ行く途中で航路を曲げて、そこから潜水すれば平気だろうか。
幸い暫くは穏やかな筈だとナミから聞いているのでベポがうっかりしなければ大丈夫の筈だ。
ドフラミンゴを討つまでは足を止めるわけにはいかない。
例えその過程でヴェルゴと戦う事になっても、その果てにロー自身がどうなろうとも。
だがこんなざまで出来るだろうか。
「…は、あいつらと相対するって考えただけでこれか」
震える手を見下ろして自嘲する。
ヴェルゴに散々甚振られた経験と、コラさんを殺したドフラミンゴへの恐怖。
十年以上経っても消えないそれを抱えたまま戦えると言い切れるだろうか。
「……ロジャーおじさま、コラさん」
憧れた人はもういない。
助けてくれた人はもういない。
懐の日誌と傍らの鬼哭がほのかに光を帯びるが、閉じた目には映らない。
もしもどちらかでも仕損じればクルー達に危害が加わるだろう。
残酷なやり方で見せしめとする事だろう。
――あの日、コラさんにしたように。
そう思った瞬間、胃の底が沸騰したように熱を持つ。
どれだけ叩いても開かない箱。
降り止まない雪の白。
響く銃声。
飛び散った赤と、白に埋もれていく黒と。
フラッシュバックしたそれらが頭の中で自船のクルーへと変換される。
ベポが、ペンギンが、シャチが。
イッカクが、ハクガンが、ジャンバールが。
ローの家族が、物言わぬ物体となって目の前に転がる光景が。
かつて父と母がそうなったように。
シスターと子供たちがそうなったように。
叫びそうになった口を両手で抑え、目を閉じて感情を鎮めていく。
そうならないように作戦を立てたのだ。
最悪を引かない為なら何だってやると決めて麦わらの一味との同盟を組んだ。
……ただ、それが本当に良かったのだろうかという疑問は未だに尽きないが。
中々にお人好しな彼らは事情を説明すれば協力してくれるだろうが、そこまで甘えるわけにはいかない。
これはローの我儘だ。
長く細く吐いた息が静かな部屋に響く。
いつもの顔に戻ったローは日誌を本棚へ仕舞い、鬼哭を抱えて部屋を出る。
もうじき出航の時間だ。
最後にもう一度打ち合わせをして航路と上陸後の作戦を伝え直しておかねばならない。肝心の船長が理解してくれなさそうだという事には目を瞑るしかないのがどうしようもないが。
ローはまだ知らない。
麦わらの一味とハートのクルー達の話し合いの元、ローの身柄を麦わらの一味に一時的に預けるという結果になっている事を。
『あのさ、訓練してくれてるのは本当にありがたいんだけど』
遠い目をして話し出したコラソンにロジャーが怪訝な顔をする。
『あん?なんか文句あんのか』
『ありがたいけど!でもずっと聞きたい事があって』
『なんだ?ローのちっちゃい頃の話?』
『それは別口で聞きたい』
あんな擦れた子供がロジャーの話を聞くに純粋で可愛い子供だったと聞いてからちょこちょこと出てくるローの話は確かに興味深いのだが、それよりも気になる事があるのだ。
『違ぇのか?じゃあローが毒キノコ採取してきた時の話?それとも俺に憧れて剣の稽古つけてくれって言ってきた時の話?』
『それも別口!』
『じゃあなんだよ』
『訓練場所の話だよ!』
前足を地面に叩きつければ傍らで真っ赤な熱湯の入った釜が揺れた。
彼らがいるのは鬼哭の領域ではなく地獄。
文字通りの黄泉の国、ロジャーが今住んでいる場所。
拷問を行う傍らで訓練をしている状況に漸くツッコむ勇気が出たらしいコラソンにロジャーが不遜に笑う。
『いいじゃねえか快く場所と武器貸してくれるってんだから』
『黄泉の官吏が震えながら差し出してるのは快くって言うかな!?』
見ろよあの震え方!と言われてロジャーが顔を向ければそこにいた官吏が悲鳴をあげて倒れた。
駆け寄った官吏が黙って首を横に振る。駄目だったらしい。
『覇気も出してないのに軟弱な』
『やらかしてる事が事だからなぁ……!』
『んで、何が聞きてぇんだ。ローの思い出話なら山ほどあるし他の奴らの話も山ほどあるぞ』
『ローの話だけ後で聞かせてくれ。じゃなくて俺が言いたいのは一応俺も死者だからここに来れるのはまあいいとして現世とここを自由に行き来して官吏が匙を投げるようなやらかしをしている件』
『根性がなってねえだけだろ』
『ずっと思ってたんだよ俺。もしかして』
『もしかして?』
『あんた、常識という言葉を御存じでない?』
返事はアッパーカットだった。
『失礼な奴だな、海賊なら檻くらい壊せるし三途の川を泳げるし坂道ダッシュ出来るし大岩を一突きで壊すくらい出来るだろ常識的に考えて』
『もしかして常識という言葉の意味を存じていらっしゃらない?』
帽子の紐を顎下で片結びされた。酷い。
『大体今の時代に常識なんてあってないようなもんだろ』
悪魔の実の能力者が存在している以上、ロジャーの航海時代の常識は大体変化している。
『まあそうなんだけど、人としての常識はあんまり変わってない筈なんだけど』
『大体こんなもんガープも普通にやってたぞ?』
『センゴクさんから聞いたけど人間枠外れてる人の普通は普通じゃないんだよな』
主にロジャー、ガープ、白ひげ辺りは人類カウントするなと言われていたコラソンが思わず呟く。
『それはさておき、こんだけボコれば……ぅうん!訓練すれば力加減もわかるだろ!』
『隠れてねー…』
ジト目でロジャーを見つつ、確かに力加減は掴めてきた。
目を閉じて集中し、元の姿を今の姿に重ねてその枠に収めていく。
『なんだ、人になってもでけぇな』
感心するような声に目を開ければ随分とロジャーが近く見える。
『まあ中途半端だからかもしれねえが…一応成功だな、覇気で何とかする作戦!』
そう笑うロジャーの前、特徴的なハートのシャツを着た黒髪の男は呆然と自らの体を見下ろした。
大きな人の手、狼の時よりは低いが人の平均よりは高い長身、背後に見えるふさふさの尻尾……尻尾?
『ちなみに頭にも耳あんぞ』
『嘘だろドジった!?』
両手で頭を触れば確かにふさふさとした獣耳が存在する。
『髪の色も獣の方に寄ったみたいだな。だがまあ初めてにしては上出来じゃねえか?』
『はー…マジで覇気って何でも有りだな』
『俺も思いつきで言ってみたんだがマジで出来るとは思ってなかった』
『はあ!?』
からからと笑うロジャーに目が飛び出る。
あんなに自信満々に覇気のコントロールが出来れば人に成るくらい出来る!と豪語したのはこの男なのだが?
『実際出来たんだから嘘じゃなかったろ?』
『屁理屈!!』
叫びながらもとりあえず顎下で結ばれた紐を解く。
人に成らないとどうにもできない事は多いが、死者が姿を変えられるからといって何が出来るというのだろう。
そんな疑問が顔に出ていたのかロジャーが笑いを引っ込めて真剣な顔つきになる。
『ローが何か腹括ったみてぇだ』
『っ、まさか!?』
鬼哭を通して外の状況は全てではないが理解している。
これから行くというパンクハザードの関係者、その先のドレスローザに居るのはドンキホーテ・ドフラミンゴ。
ローにとっての因縁の相手であり、コラソンとしては絶対会わせたくない相手。
『エースの処刑の時はまだお前起きてなかったからな、だが次は間違いなく戦う事になる』
『…その時に人の形が取れたら何か出来るのか?』
そう聞けばあくどい笑みが返って来た。
『俺はローの守護霊やってるからな、お前一人くらい一緒に連れてけるだろ』
遠くで連れていけて堪るか!と怒鳴り声がした気がするが気のせいだろう。閻魔の声に似てたけど気のせいだ。
『あのグラサン野郎を盛大に驚かせてやりたくねえか?』
『…その案、乗った』
にやりとコラソンも笑う。
殺した筈の弟が成長した右腕候補と一緒に現れたら流石に驚くだろう。
ローにチャンスを与える事も出来る。
『よし決まり!じゃあ次は人の状態で戦えるように覇気の持続訓練だな、えーとそこの官吏!針山空いてるか~?』
『ヴェッ』
指名された官吏が鳥の首を絞めたような声と共に倒れる。
近くの官吏が近寄り、首を横に振る。残念ながら。
『声かけただけで官吏が死ぬってあんた本当になんなの…』
『俺か?知ってんだろ』
海賊王だよ、と笑う顔はローに構いにくる麦わら帽子の少年に驚くほどに似ていた。