育む

育む


 手のひらがじっとり汗ばんでいる。口の中は乾いていてカラカラだ。身の内が落ち着かなくて体のどこかしらが動いてしまう。こういうときは煙草を吸ってしまうのが一番だったが、この部屋は禁煙だ。そして喫煙できる場所に移動するのも、相手を待たせてしまいそうで踏み切れない。立ち上がっては座るを繰り返していると、扉が開いて部屋の主が戻ってきた。

「お待たせ、コラさん」

 湯上がり特有の柔らかい熱気をまとったローの体を抱きしめる。前におれが好きだと言ったシャンプーの香りがする黒髪へ鼻先を埋めた。相変わらず落ち着かない気分のままだが、よく知る匂いが少しだけ心を宥めてくれた。

「本当にいいのか?」

「何度も言わせる気?」

 唇にむにっとすべすべの指先が押し付けられる。軽く吸うと、くすぐったそうに身じろぎした。

 腕の中の体をまさぐって薄っぺらい腹に手を押し当てる。筋肉の弾力。成人女性にしては鍛えていてしっかりしているはずなのに、心もとない印象は拭えない。ここに、ここに宿るのか、とまだ何もしていないのに焦燥が胸を焼く。

「コラさんとの子供が欲しいの」

 腹の上でローの手が重なる。目と目が合って、どっと唾が溢れ出す。欲しい、と原始的な欲求が体の内で暴れ出しそうになる。 

 何度も何度も話し合ったことだった。平行線というよりも、おれが用意した理由をローが丁寧に潰していく話し合いだった。おれの手札はすっかり消えて、文字通りお手上げになっている。今更確認したところで、ローの決心は揺るがないと分かっていてもおれは不安だけは消すことが出来なかった。


「コラさん、私と子供作ろう?」

 初めて提案されたときに感じたのは絶望だ。ああ、おれはまたドジったのかと眼前が暗くなりそうになった。ローは聡明だ。特におれの気持ちに敏感で、大抵のことはすぐ意を汲み取ってくれる。おれの態度か何かでローに気を使わせてしまったのだと顔を青くした。

「コラさん違うの、ねえ聞いて。そんなに怖い顔しないで」

 いつの間にか強く握り締めていた拳にローの指が差し込まれる。爪が皮膚を破って血の滲んでいる掌を細い指先が労ってくれる。

「私が欲しいの」

 主語を強調してローが言う。

 そこからは話し合いの連続だった。欲しいと主張するローとやめたほうがいいと主張するおれの攻防戦と言ってもいい。

 妊娠と出産をするのであれば二年は体を思うように動かせない。様々な制限や体調不良だって伴う。その縛りをありふれた女ではなく数十億の賞金首に課すのだ。

 襲撃や捕縛から逃れながら万全ではない体と子供を守らなければいけない。海賊団の船長として既に二十人余りの命を背負っているローに望むには荷が重すぎる。

 ハイリスクだと自己完結しておれはすっかり諦めていたのだ。ローはおれに甘いから望めば応じてくれるのも分かっていた。おれのためにどんな無茶でもするだろうという確信があったから諦めたのだ。愛している女に無茶などさせたくない。これまで散々おれのせいで苦労をさせてしまった自覚がある。真綿で包むように甘やかしこそすれ、身勝手な望みなど口にすべきではないと思っていたのにローの方から提案してきたのだ。

 だからひょっとしておれのワガママに勘付いたローが、無茶を押して叶えようとしてくれているのではないかと疑っていたのだ。

 ローに無理強いしていやしないかと、おれの不安はそこからきている。

「私はずっと欲しかった」

 嗜める口調だった。この期に及んでまだ不安でいるおれにローも忍耐の限界を迎えたらしい。

「二人で逃げようって言われたときから、コラさんの奥さんになりたいって思ってた。コラさんと夫婦になって、子供を産んでどこかでひっそり暮らせたらと思ってた。子供が出来れば夫婦だなんて思ってないけど、愛してる人との間に証が欲しい。コラさんと家族を作りたい」

「ロー……」

「私は海賊だから、もう穏やかで平和な暮らしは望めない。でも好きな人と家族ぐらいは欲しいの。コラさんちょうだい。私に家族をちょうだい」

 今まで理屈でおれを説得していたローが剥き出しの感情をぶつけた。もう叶わない未来の話をしながら、それでも今叶えられる望みを掲げていた。

 ずっとローはひたむきにおれとの未来を考えててくれていたのだ。ぎゅっと目を瞑る。

 負担が重たいならおれが一緒に抱えればいい。ローが無防備になるならおれが守ってやるくらいの気概を持たないでどうする。ローはずっと分け合おうと言っていたのだ。おれの不安も、ローの望みも分け合って先に進もうと未来を示していた。

「待たせてごめん」

「いいの。コラさんがいっぱい悩んでくれたの知ってるから」

 本当に敵わないと思った。真っ直ぐに向けられる愛情に溺れたままではいけないと息を吐いた。地に足が着いたような心地だった。

「ロー」

「うん」

「おれも欲しいよ。ローとの子供」

 言えなかった望みを口にする。ローだけが欲しいのではないのだと、気持ちを分け合うために伝えた。

「ありがとう」

 感謝の言葉を乗せた声が重なった。二人で身を寄せ合ってくすくす笑う。これ以上言葉は要らないと言わんばかりに、ぶつけるように唇を重ねたのもほぼ同時だった。


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