職場の上司に手を出すなんて面倒なことになるに決まっていること、自分がするはずないでしょう

職場の上司に手を出すなんて面倒なことになるに決まっていること、自分がするはずないでしょう


「トップ、起きて下さい」

「アオキ……?」

「家の鍵を開けて下さい」


 アオキさんが起こすとオモダカさんは目を開け、緩慢に周囲を見回します。10秒ほど遅れて自宅の前にいることに気付いたのでしょう。懐から家の鍵を取り出し、アオキさんの背中から降ります。まだ少し寝ぼけているのか、たどたどしい手付きで家の鍵を開けました。


「ありがとうございます……」

「目は覚めましたか?」

「だいじょうぶ、です」


 オモダカさんはそう言いましたが、あまり大丈夫ではなさそうな、普段よりぽやぽやした顔にアオキさんは困ってしまいます。オモダカさんなら目が覚めればちゃんと動けるだろうと思っていたのですが、この様子では本当に大丈夫なのか不安が残ります。よほど深酒したのでしょうか。

 どこかふわふわした足取りで玄関に入ったオモダカさんは、それでも丁寧にアオキさんにお礼をいいます。


「わざわざ、ありがとうございます。アオキ」

「いえ……そういえば自分がチリさんと交代したのはちゃんと気付いていたんですか?」

「ふたりがはなしていたのは、うっすらと、きこえていました」


 チリちゃんからオモダカさんを受け取ったあの時、オモダカさんはすやすやと眠っていたように思っていたけれども、うっすら覚えている程度の意識はあったようです。普段のオモダカさんなら確実に言うであろうチリちゃんへの礼の一つも言えない程度の酩酊状態を意識がある状態と言っていいとは思えませんが。

 とはいえ、目が覚めたのであればわざわざオモダカさんの家の中にまで入る訳にもいかないでしょう。大丈夫だと信じるしかありません。


「それでは、ここで大丈夫ですか?」

「だいじょうぶです。ありがとうございました」

「……それでは、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


そんな挨拶と共にドアが閉まります。けれど、アオキさんの耳にはがちゃりという鍵を掛ける音は一向に聞こえてきません。それだけ確認して帰ろうと思っていたアオキさんは眉を寄せてドアを睨みます。


「……トップ?」


 いくら待っていてもそれらしき音は聞こえません。軽くノックをして、一拍おいてからアオキさんはドアを開けます。やはり玄関に鍵は掛かっておらず、スムーズに開きました。エントランスには既にオモダカさんの姿はなく、ジャケットだけが脱ぎ捨てられています。普段のオモダカさんであればきちんとハンガーに掛けるでしょうに、今は無造作に床に投げ捨てられています。戸締まりすら出来ない様子のオモダカさんを置いてこのまま帰る訳にはいかないとアオキさんは溜息をついて家に上がりました。

 オモダカさんを探すと彼女はソファの上で丸くなっていました。思った以上にダメそうな様子に、アオキさんはもう一度溜息をつき、声をかけます。


「トップ、せめてちゃんとベッドに行って寝て下さい」

「んー……なら、つれていってください」


 うとうとしながらもとんでもないことを言い出したオモダカさんに、アオキさんは思わず半目になります。チリちゃんはある程度理解したようだと言っていたはずなのですが。本当にオモダカさんは理解してくれたのでしょうか。


「アカデミーの教師やチリさんに聞いて、少しは自覚してくれたとチリさんから聞いたのですが? 本当に理解しましたか?」


 そんな無防備な顔で男を家に上げた上、寝室まで連れていかせるなど自殺行為もいいところだ。それこそ誘っていると勘違いされてもおかしくない。アオキさんは内心そう思います。戸締まりやオモダカさんの様子に問題があったとはいえ今勝手に家に上がり込んでいるのは自分なので口には出しませんでしたが。

 アオキさんの不機嫌な表情を知ってか知らずか、オモダカさんは目をこすりながら身体を起こします。ややふらつく頭を上げて、アオキを見上げました。


「けど、アオキはそんなことしないでしょう?」


 オモダカさんの言葉からは揺るぎない信頼を感じます。そんな不埒なことはしないとアオキさんのことを信じてくれているのは疑いようもないでしょう。アオキさんだって信頼されていること自体は嫌な訳ではありません。けれど、信頼しているのだと言いながらそんな無防備な姿を見せるのはやめて欲しいと心から思います。正直に言うならばその信頼ごと全部ぐちゃぐちゃにしてしまいたいと思う時もあるのです。

 ……今のように。


 その衝動を抑えきれず、アオキさんはオモダカさんの腕を掴み、ソファに押し倒します。そしてオモダカさんの耳元で囁くように言います。


「……自分も、れっきとした男なのですが?」


 オモダカさんの背は低い方ではありません。体幹も弱くはないはずです。けれど酔っ払っているせいか、油断していたせいか、思いの外あっさりとアオキさんに組み敷かれてしまいました。

 オモダカさんは信じられないものを見るような顔で目を見開いています。一瞬で酔いが覚めたかのようなその表情に、アオキさんも我に返ります。何とか自分の理性を総動員させて、このまま彼女の全てを食らい尽くしてしまいたいという衝動に全力でブレーキをかけます。ここでオモダカさんを襲ってしまったら、先日の事件のあの男と同じでしょう。そこまで落ちるのはアオキさんとしても本意ではありません。

 長く、大きく息を吐いたアオキさんはオモダカさんから離れ、立ち上がります。そうして何とか厄介事など御免だと言える、いつもの自分を取り戻します。そうしていつものような冷静さを装い、言います。


「チリさん達からも言われたのでは? 男の前で無防備な姿を晒すなと」

「……言わ、れ、ました、けど……」

「この人なら大丈夫、などと勝手に判断すべきではないとわかりましたか?」

「……」

「これに懲りたら、気をつけて下さい。あとこれほどの深酒はしないで下さい。面倒なことになるので」

「……はい」


 アオキさんの様子にオモダカさんは混乱した表情を浮かべていました。けれど何とか頷いてくれます。それを見たアオキさんは溜息混じりに言います。


「それで、きちんと戸締まりしてベッドに行けますか? それとも自分がベッドに連れて行かないと駄目ですか? その場合は合鍵をお借りしますよ。明日にはお返ししますが」


 オモダカさんの家のドアにドアポストはないので、鍵を外から掛けた場合には持ち帰る以外にありません。郵便受けのような最悪壊されてあれこれ持ち帰られる可能性がある場所に鍵を入れて帰るくらいなら預かっていた方がいいとアオキさんは思います。

 もっとも、寝室まで入って寝かしつけるのは正直やりたくありません。これ以上変なことをするつもりはありませんが、ようやく抑え込んだ衝動に突き動かされることは絶対にない、とは言い切れません。

 幸いオモダカさんも先ほどのアオキさんに驚いて少し酔いが覚めたのか、少し顔つきがしっかりしました。これなら少なくとも戸締まりくらいはきちんと出来るでしょう。

 アオキさんが返事を問うように視線をやるとオモダカさんは立ち上がります。


「大丈夫です。自分で閉められます」

「なら、自分はこれで失礼します」


 そう言ってアオキさんとオモダカさんは玄関に向かいます。アオキさんの数歩先を歩くオモダカさんの足取りはさっき玄関先で見たときよりも安定しているし、これなら大丈夫そうだとアオキさんも思います。

 そうして改めてオモダカさんの家を辞去します。


「それでは、お疲れ様でした」

「……お疲れ様です」


 頭を下げるオモダカさんの姿が玄関ドアの向こうに消え、それからすぐに今度こそきちんと鍵を閉めた音と、部屋に戻る足音が聞こえます。それを確認したアオキさんは踵を返します。 


 うっかり全部投げ捨てて手を出しそうになったけれども、何とか言い逃れの出来ないレベルの狼藉は働かずに済みました。それに安堵してアオキさんは息をつきます。いえ、衝動に負けて押し倒してしまった時点でおかしな真似をしないという意味では駄目だとは思っています。それでも自宅まで背負って帰ってきたことを思えばこの程度の接触は許容範囲内でしょう。腕を掴んだだけですから。何ならただの教育的指導だと言い張れるかもしれません。身体に触れたり唇まで奪っていたら言い逃れは出来ませんでしたが。

 それにオモダカさんもあれだけ酔っ払っていたのであれば今夜のことは覚えていない、という可能性すらあります。あまり記憶を失ったことはないと本人は言っていましたが、普段は節度を持っているからだという可能性はゼロではないはずです。

 明日以降のオモダカさんの態度次第ではありますが、きっとまだいつもの日常に戻れるはずです。

 そうなると信じて、アオキさんは帰路へとつきました。



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