聖水
モブ猿その日は蒸し暑かった。
いくらクーラーの効いた室内といえど、窓から容赦無く降り注ぐ日差しと湿気を完全に誤魔化し切ることはできない。
俺は自分の脇がじんわりと湿っていく感覚に不快さを覚えていた。
教祖様はまだ来ない。
どれぐらい待ち続けただろうか。
部屋の襖がゆっくりと開き、夏油様がそのお姿を見せる。
俺は暑さの事などすっかり忘れ、舐めるように凝視した。
いかなるときでも夏油様はきっちりと着込んでいる。
どうすればもっと露出の多い服を着て下さるだろうと熱く語っていたあの信者は、いつの間にか姿を消していた。
俺は内心奴を軽蔑していたのでどうでもいいが。
あの袈裟と白い足袋の素晴らしさが分からないとは何たる侮辱、着込む事により漂う色気を理解できないとはただの猿だ。
五条袈裟を身に纏いツンとすました顔の夏油様は、人知を超えた神々しい生物に思えた。
しかし、夏油様も人間だ。
食事をし、排泄をし、暑ければ汗ばむこともある。
滲んだ汗が形の良い額を通り、顎までつうと流れる。
美しかった。
俺が理性のない獣ならば、今すぐ飛びついて舐め取っていたことだろう。
「…暑いな」
そっと忍ばせていらしたのだろう。
かわいらしいウサギ柄のハンカチを額に当てながら夏油様が呟いた。
夏油様の汗をたっぷりと吸い込んだハンカチ。
欲しい。
気が付くと俺はこう言っていた。
「今汗をお拭きになられたそのハンカチ、私めに言い値で買い取らせて頂けませんか?」
夏油様は少し考えるように首を傾げ、心底面倒臭そうに息をついた。
「10、いや20万」
「はい、此方に」
俺は持参していたトランクケースから20万を抜き取り、夏油様に差し出した。
余分に金を下ろしておいて良かったと心の底から思う。
札束はしっかり枚数を数えられ、その懐に収まった。
俺の金が夏油様の手に渡る。
これ以上に喜ばしいことは無い。
「ハイどうぞ」
ハンカチがポイッと地べたに投げ捨てられる。
俺は思わず足元に這いつくばり、それを拾った。
「嗚呼…。拝領致します」
夏油様の肌に触れたハンカチ。
仄かに夏油様が香るハンカチ。
なんと素晴らしい物だろう。
ファンシーな色のハンカチにそっと触れると、先程汗を拭いたであろう箇所が湿っている。
その瞬間、俺の中の体裁や良識というものがぷちんと弾けた。
夏油様の聖水が乾く前に。
もう止まれなかった。
俺の理性は吹き飛び、愚かな獣の赤子のようにそれを口に含む。
ハンカチはあっという間に唾液で湿った。
嗚呼、穢れてしまう。
しかしそれ以上に、俺は夏油様の一部を口に含みたかった。
(夏油様、夏油様、夏油様!)
口内で俺の唾液と聖水が混ざり合う。
俺は興奮の絶頂にいた。
俺は夏油様と混ざりあっている。
「…チッ」
あっという間に醜い生物と成り果てた俺に向けられた乾いた舌打ち。
嗚呼、それで良いのです。
俺は貴方に虫けらのように殺されるべき愚かな猿なのです。
気が付くと俺は泣いていた。
恐ろしくなったわけではない。
興奮でおかしくなったわけでもない。
見上げた先にある夏油様の軽蔑を孕んだご尊顔が、余りにも美しく扇情的であったからである。
「猿が」
吐き捨てられたその言葉は、俺が今まで耳にしたものの中で一等素晴らしい響きだった。