翼を奪い、地に縛る

翼を奪い、地に縛る

ナワリ

 ふわり、と。羽根が舞った。

 その日は珍しくも雪が降っていて、世界をまっさらに染めていた。

 だから。そうするには、きっと一番ふさわしい日だったのだ。

 

 羽根が。羽根が。羽根が。真っ白な、天使のような羽根が、舞う。舞い散る。白の地面に舞い落ちる。雪の白と羽根の白、それらとコントラストを描くように、鮮血が世界を染めていく。

 絵画のような、映画のワンシーンのようなその光景は、紛れもなく現実であり。その中心では、一人の少年が倒れていた。

 ああ、けれど。彼は本当に人間なのだろうか。

 少年のその体には、人間ならば決してあり得ないものがついていた。どう見ても異物であるはずの「それ」なのに、余分、とは思えない。それも含めて完成しているような姿であり、違和感をまるで感じさせない。馬鹿げた話を、それでも真実だと思わせるような物語というものはあるが、彼はまさしくそれだった。

 即ち、少年は天使だった。

 正確には、天使のような羽根が、少年の背からは生えていた。ギリシャ神話における勝利の女神ニケ。現代において一般的に知られる「天使」の姿の元となった有翼の人型。空を飛ばぬ人間には不要なものを、どうしてか少年は持っていた。

 

 倒れこんだ少年を支えるように、一人の男が背をなでた。引きちぎられた片翼の生え際を、すうと指がなぞる。少年の肩が痛みに震えた。か細い静止の声があがる。忌々しいとでも言うように、男は健在なもう片方の翼をねめつけた。

 鮮血は少年のものであり、男が翼を引きちぎったがために生まれたものだ。

 そうだ。根元から。癒着している肉ごと。男は少年の翼を引き抜いた。ぶちぶち、という嫌な音も、過度な出血も、少年の苦悶も全てを無視して引き裂いた。本当なら、もう片方も抜いてやりたい。自分のモノに手を出された事実が腹立たしい。しかし、残りまで抜いてしまっては少年自身が耐えられない。死んでしまう。ただの人間だったはずの少年の体は、着実に別のモノへと作り変えられていた。

 抉れた肉が痛々しい。痕が治ることはないだろう。治療技術が発達しても、「元通り」とならないことはよくわかっていた。この先一生残るのだと、こうなる前から少年は知っていた。

 少年はまだ痛みに呻いている。歯を噛みしめていた口はぱかりと開き、閉じる気力もないのか唾液がこぼれている。肩で息をして、縋りつくように男に体を預けている。自身の羽根を奪った男に。

 

 閉じた世界で、一人と一人が寄り添いあっていた。

 

 

 物心ついたときから、母はいなかった。行方を訊いたことはない。父がいてくれればよかったし、父には愛されていると知っていたから。母を必要とはしなかったから。訊けば教えてくれるとわかってはいても、そうしたら寂しがるだろうなということは察していた。

 父のことが好きだった。絵本を読んでくれた。たくさんのことを教えてくれた。仕事のことを話してくれた。映画も、漫画も、本も、音楽も、たくさんのことを教えてくれた。父のことが好きだった。母がいなくても、毎日が幸せだった。

 だから。その出来事のことは、こんな体になっても覚えている。

 揺れる地面。流れる土。倒れる木。なすすべもなく流される自分。そんな夢を、見た。恐ろしくて恐ろしくて、飛び起きてからは二度寝もできなかった。無性に父に会いたくなって、電話をかけてみたりもした。なんど掛け直しても繋がらず、不安は倍増した。

 連絡がついたのは三日後、父が持つ携帯の番号だった。一も二もなく通話ボタンを押して、息を殺して相手の声を待つ。鼓動の音さえうるさかった。はたして、耳に届いた声は、父のものではなかった。

 父と懇意にしていた男性のものであり、父が事故に遭いなくなった、とその声は教えてくれた。血の気が引いたことも、頭が真っ白になったことも、それでもなお冷静な自分がいたことも、覚えている。その出来事だけが、唯一記憶としてもっていることだった。

 

 

 父が死んでからは、父の友人だという男性が後見を務めてくれた。過度な干渉がないことは正直にいってありがたかった。父が死んでから、自分はどこかおかしかったから。そういったことに唯一気が付いていたのだろうが、何も聞かれないことがありがたかった。うまく説明できるとは思えなかったので。生きている実感がない、だなんて。

 13のとき、その人に連れられて引っ越した。新しい家は慣れないが、安らげないのは父が死んでからずっとだったので特に気にもならない。なんとなく、と思い遠くにでかけて、一匹の猫を見た。

 只の猫ではない、と思った。ずっとよくないモノたちが見えていた。見えていることを知られないようにしろ、と言われていた。ずっと言いつけを守っていたのに、つい動揺して、顔にでてしまった。

 だって、感覚が正しければ、その猫は。

 「なんだお前。俺がわかるのか」

 神様、と呼ばれるもののはずだ。

 

 神様。そういった存在は、好んではいなかった。いつもいつも纏わりついてきて、向こうだけが得する契約を持ちかけられて、うんざりしていた。助かったのは、複数がいるから勝手に小競り合いをして、抜け駆けしてくるものがいなかったことだ。力の弱い霊程度ならば近づけば勝手に消えていくが、力の強い神となるとそうはいかない。むしろご馳走だという目で見られるばかりだ。

 

 だけど、その神様は。

 「信仰するものが消えれば消える、神ってのはそういうもんだ」

 「そりゃお前を喰らえば全盛期まではいかずとも力は戻るが、そうまでして神でいる理由ってのはなんだ? 生まれたからには消えるのが定めってもんだ」

 初めて、自分を求めなかった。人間としてそこにあるだけでいいと言ってくれた。馬鹿馬鹿しい、と言ってくれた。とても、とても嬉しかった。価値はそれ以外のところにある、と告げてくれたことが。だから。

 「来たいなら勝手にくればいい。好きにしろ」

 また会いにきてもいいか、と初めて訊いたのだった。

 

 神様と話すのは楽しかった。それまでの過去も、自分の異変も、どうしてか包み隠さず答えられた。神域、とかいう場所で、誰にも聞かれない話をするのはドキドキした。

 ずっと、知らずのうちに守られていたから、知らなかった。目を逸らしていた。気付きたくなかった。忘れていたかった。

 

 自分の魂とやらは、霊的な存在にはご馳走だということを。

 

 

 以前から、体は違和を訴えていた。妙に軋む肩甲骨あたりだとか、頭がいじられているような感覚だとか、そういうものが頻発していた。けれど、目に見える異常なんてなかったし、どうすることもできなかった。

 密かに根を張り、勢力を広げていく。さながらそれは、開花のようだった。

 夜中。耐えきれない痛みに飛び起きる。背中が、いたい。縦に二か所、広く痛みが走っていた。服が邪魔で急いで脱ぐ。なんとなく、押し込められていたものが広がった気がした。みしみし、と畳を突き抜けるような音。畳なんて授業で訊いたぐらいだが。それが自分の背から聞こえていて、恐怖で全身の血が凍り付きそうだった。

 たまらず、後見人の部屋に押しかける。返事はなかったが突入して、そこで返事がない理由を知った。

 赤色が、ベッドから垂れていた。後見人は動いていない。まだ温かかった。

 くすくす、くすくすと笑い声が聞こえて、実行したものを知った。背の痛みを忘れるぐらいの衝撃が走った。

 

 駆けだす。家を出て、いつもの場所に向かう。

 父が死んだ。後見人が死んだ。大切な人が死んだのだから、じゃあ次は?

 守られていた。あの日からいつだって守ってくれていた。父に、父の死後は後見人に。言葉にはなくとも、守られていたことは知っていた。じゃあ、じゃあ。彼ら彼女らにとっての残る邪魔者は?

 「おま、なんで来た!」

 息をきらして、いつもの場所についた。神様は弱っているのに猫の姿ではなかった。つまり、あの姿では負けてしまうということ。少ない力を使ってでも、戻らなければならないということ。叱責に申し訳なく思うけれど、止まるわけにもいかなかった。借りを、まだ、返していない。そもそも自分のせいで招いたことなのに。

 

 「僕は……オレは、カプセラ。神様、貴方に仕える。オマエに全てを捧げよう」

 「死をつかさどる古き神。死後の、永久の束縛を対価に、オレを人ならざるものから守ってくれ!」

 

 名前も、本当は一つ以外ただの情報のようになっている過去も、死後の安寧も。全部、全部くれてやる。だから……

 ……消えないで、と。懇願した。今となっては、唯一の友達に。消えてほしくはなかった。ただ、それだけ。

 死後を対価に、生の安寧を。その縛りを設ければ、それまでは神様だって簡単には消えられない。神との約束はそういうものだった。

 彼が応える義理はない。けれど。

 楽しかったのが自分だけ、なんて、そんなことは考えていなかった。

 

 「ハッ……。いいだろう、カプセラ。俺の神官。俺の巫女。俺は××××××××。仕えることを許す。捧げることを許す。俺の加護だ、安寧には程遠いが……。ああ、ここに宣言しよう。オマエが、あのものたちに怯えることは二度とない!」

 

 そうして、契約は結ばれた。

 目に見えて力が強くなる。蜘蛛の子を散らすように、神様は襲撃者たる「神」を叩きのめした。

 

 

 「あー疲れた、オマエちょっと来い」

 「なんだ」

 「なんだじゃねえよ。厄介なもん引き連れてきやがって。おかげで悠々自適な余生がパーだ」

 「悪かったとは思っている。が、受け入れたんだから文句を言うな」

 「オマエ案外図太いな? 俺にそんなこと言う神官なんぞいなかったぞ」

 「対等だ、と以前オマエが言ったんだ。忘れたとは言わせない」

 「対等! ああそうだ、生を見守り死後をもらう。つり合いはとれている。ならば畏まる必要はない。度胸のある人間は好きだぞ?」

 「髪をかきまぜるな。……助かった、ありがとう」

 「バァカ、契約の通りだ。礼を言う必要はねえ。……オマエ、意味わかってんのか?」

 「わかっているつもりだ。……オマエとの交流は、それだけの価値があった」

 「へえ、よりにもよってこの俺にか。……ふっ、く、ははっ。ああ、俺の負けだよ、カプセラ。惚れた方の負けとは人間もよく言ったもんだ。────これから先に何があろうと、この俺から逃げられると思うなよ」

 「そんなことはありえない。ところで、これはどうすればいい」

 「あん? ファッションとかじゃねえのか。……いやそんな顔すんなよ、冗談に決まってんだろ。大方あいつらがオマエを共謀して連れて行こうとしたんだろ。完全に種ができていたら手遅れだったな、よく俺のところに来た」

 「どうすればいいんだ。また来るぞ、これを目印に」

 「簡単だ、ちぎる」

 「は?」

 「引っこ抜く。両方……と言いたいところだが、そうしたらオマエは死ぬな。片方だけになるか。まあ片翼程度なら大したこともできん、それでいいだろう。痛いぞ?」

 「……仕方ない、やってくれ。あとオマエ、怒っていないか?」

 「クソボケの神官が。自分のモノに手を出された神が怒らないと思うのか?」

 「……そういうものか、ありがとう」

 「礼なんぞ言うな、調子が狂う。激痛だ、歯ぁ食いしばっとけ」


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