羽なしの話
〆た方がいい。
自分が生まれたとき、母はそう言ったという。
生まれ育った里を初めて離れ、母とともに町に降りた、その最初で最後の日のことだった。
父は反対したそうだ。
理由は聞いていない。
当の父親は物心つく前に他部族との争いで死んだ。
そうして、部族に居場所は無くなった。
今日、自分は捨てられに来たのだ。
大きな建物の前でふたりして立ち止まる。
ここなら身寄りのない子どもを引き取ってもらえるそうだった。
ごめんね、と言う母に、なんて返したかは覚えていない。
お母さん、とも、待って、とも言えなかった。
自分のせいで、母の立場が悪くなっていることは知っていたから。
母は、手も声も届かない空へ消えていった。
結局、意を決して教会へ保護を求めた自分は門前払いされた。
あとで知った話だが、他の町の教会で、保護された子どもによる殺人事件が起こってごたついていたらしい。
かくして路上生活が始まった。
朝霧のたちこめる前に目覚める。
早く行かなければ取り付くされてしまう。
まず向かうのは、飲食店の裏。
生ゴミの小さな山に近づけば、同じくゴミに集っていたハエが威嚇するように飛んだ。
ゴキブリも払いのけて、変色した果物の皮を齧る。
まだ慣れない。
肩身が狭いとはいえ、少ないながらも与えてもらっていた部族の食事。
それを思い出さないように無心で飲み込む。
そして、隠れるようにゴミを拾い集めた。
破れかけた袋を片手に、市場のひしゃげたゴミ箱を漁り、排水溝に手を突っ込む。
紙くずとプラスチックとガラス片。使用済みの避妊具も放り込む。割れた注射器は慎重に。鉄クズは高く売れる。見つけては喜んだ。
それでも、日が沈むまで這いずり回ってパンひとつ分稼げればいい方だ。
回収業者にふっかけられているようだったが、食い下がれば取り合ってもらえない。
その日の稼ぎはパンには届かなかった。
そんな日は通りに出る。
その時間、空気はいっそう淀んでいた。
香水の匂い、タバコと麻薬の煙の中に煮込み料理の匂いが混ざる。
纏わりつくように立ち上がる砂埃を払い除けて見渡した。
残飯を売る少年、腐った魚を並べる老人、顔を浮腫ませた娼婦、道行く男の服をつまんで親指をしゃぶってみせる子供、手を引かれていく少女。
亡者のように座り込む乞食の、枝みたいな腕には誰も目もくれない。
そして食事を、人を物色する者。
その中の、浅黒い歯抜けの男の目に適ったようだ。
今日はこの人に奉仕して食いつなぐ。
見様見真似で始めたことだった。
そんな日々が何日続いただろうか。
排水溝を覗き込んでいるとき、背後に複数の気配を感じた。
蹴り落とそうとしてきた脚を振り向きざまに躱す。その少年はそのままバランスを崩して落ちた。
5、6人だっただろうか。棒きれやパイプを手にした少年達に取り囲まれていた。自分よりもずっと年上に見える者も、まだまだ幼い子の姿もある。全員痩せていて薄汚かった。自分と同じように。
彼等は口々に自分を責め立てた。
ここらは俺達のシマだ。
稼ぎを全て寄越せ。
縄張りを侵すな。
消えろ。
渡せる稼ぎなどない。
ほとんど全てその日食べていくことで消えたのだから。
ごめんなさい、消えるから許してほしいと乞うたが聞き入れられなかった。
わかっていたことだ。
しこたま殴られて、その日の成果と隠していた僅かな金も奪われた。
日は既に傾きはじめていた。
ここ2日くらい、ロクに食べていない。
売りをする体力はなかった。
それ以上に気力が尽きていた。
人通りのない路地でひと休みしようと横になって、それきり起き上がれなくなった。
体中が痛い。
物乞いの真似事をして、虚空に手を伸ばしてみる。
当然なにも得られない。
当たり前だ。そもそもここには誰もいない。
地面に落ちた手に、代わりにハエが止まった。
なにかを期待するような眼差しで見つめられる。
会うもの会うもの全てから、死ねと言われているようだった。
それで、気がついた。
ようやく理解した。
この世界には、自分の居場所などどこにもないのだ。
目を閉じる。
浮かんだのは母の姿だった。
親族から叱責されて頭を垂れる母。
その中には羽なしの言葉もあった。
たまに向けてくれる優しい顔。
そして、飛び去っていく背中。
顔も知らない父を思う。
会ってみたかった。
会って、問い詰めたかった。
どうして自分を〆てくれなかったんですか、と。
体は根が生えたように重かった。
鳥が遠くで飛んでいるのがわかる。
空腹は既に苦ではなかった。
このまま転がっていれば、自分もこの体から抜け出して、飛べたりするのだろうか。
眠ろう。
疲れた。
疲れた。
……………
………
…
「いる?」
最初、自分にかけられた言葉だとは思わなかった。
ぽふ、と手になにかが落とされる感覚。
目を開ける。
数日ぶりに目にするパンがそこにはあった。
上を見ると、薄暗闇の中に月がそのまま降りてきたような金の瞳が4つ。
自分と同じくらいの猫の獣人の女の子と、その妹と思しき小さな女の子がこちらを見下ろしていた。
「だいじょうぶ?」
小さな方がしゃがみ込んで、ぺとりと湿って柔らかい手で額に触れてくる。
声から察するに、パンをくれたのは大きい方だろう。
ばっちいからやめなと妹を制したその少女は、持っていた瓶の中身をぐび、とひと飲みすると、それを自分の口にも突っ込んできた。
突然流れこんできた水に溺れないように必死で飲む。
それで、自分がひどく乾いていたことを思い出した。
少し飲んだところで瓶は戻される。だけど喉を潤すには十分だ。
大きい方はふたたび瓶に口を付け、残りをごくごくと飲み干した。終始つまらなそうに自分を見下ろしながら。
その金から目が離せない。
自分とは違う、強い意志と生命力を宿した光から。
やがて彼女は踵を返し、妹の手を引いて歩きだしてしまった。
「ねえ、リズねえのぶんは?」
「私の分は別で用意してるから。あんたも早く食べちゃいな」
桃色の髪を翻して、声が遠ざかっていく。
細く暗い路地の先、市場の雑踏へ。
柔らかくて傷んでもいないパンを残して。
「……。」
どうしてとも、ありがとうとも、何も言えなかった。
都合のいい幻覚なのではないかとさえ思ってしまう。
だけどパンに集ろうとする虫を見て、現実に引き戻される。
周囲に人の気配は無いというのに、ごろんと壁を向くように寝返って、丸まりながらそれに齧りついた。
夢中で貪る。
味わう余裕などないのに、おいしいということはわかった。
そして、弾かれるように起きた。
あれだけ重たかった体が嘘のように。
パンひとつでこんなに元気になるものだろうか。
人の気配のする方へ歩く。
あの桃色の髪を探さないと。
通りも市場も、いつもと変わらない。
物や体を売る人、買う人。
掛けられる声を無視して、うろちょろと歩き回る。
土色と黒と灰色の町の中。目立つはずの花のような色は見つからない。
町外れまで来て、痩せた犬に怪訝そうに見られたところで諦めた。
というより、もうこのあたりは暗くて探しようがないのだ。
それでもあの金の瞳なら。
見つかるのではないかと、つい目を凝らしてしまう。
せめてお礼の一言でも言いたかった。
本当にそれだけなんだろうか。
どうしてこんなにまた会いたいと思うんだろう。
何れにせよ、もうこの町では食っていけないだろう。
居場所がないなら、作ればいい。
自分が縄張りを侵してしまった子達も、あの猫の姉妹も、きっとそうやって生きている。
雛のように口を開けて待っていればいい時間はとっくに終わっていたのだ。
腕に止まったハエを叩き潰して進む。
月明かりを頼りに闇の中へ。
びゅうと吹く風に羽を一枚落として、片翼の少年がひとり、町から去っていった。