編入初日

編入初日


 4月のはじめ。晴れてトレセン学園に入学した私は、諸々の手順を終え、長らく生活を送る(ことができたらいいな……)栗東寮の一室の前まで来て、そして息を呑んでいた。

 やけに格好いい寮長さんに教えてもらった新たな自室である215号室の番号の横に、『ツルマルツヨシ』というネームプレートに加えてもう一つ、『メジロフライト』という名前があったからだ。

 メジロ家。ウマ娘に興味がある人間ならば誰もがその名を知っていると言っても過言ではないほどの、超名家だ。

 恥ずかしながら『メジロフライト』さんの名前には聞き覚えがなかったものの、メジロ家出身であることには間違いない。まさかメジロ家の方と共同生活を送ることになるなど、誰が予想できようか。畏敬と緊張で自然に背筋が伸びる。

「すぅぅ……はぁぁ……よし!」

 しかし、名前を見ただけで物怖じしていては、熾烈なトウィンクル・シリーズを駆け抜けることなど到底できない。深呼吸を一つして心を落ち着かせ、3回ほどノックしてから扉を開ける。

「し、失礼します!今日から同じお部屋で生活いたします、ツルマルツヨシと申します!こっ、これ!つまらないものですが、マンゴーゼリーです!お口に会えば幸いです!」

 平身低頭して手土産を両手で差し出し、一息に自己紹介する。が、10秒ほどその姿勢を維持していても、何のリアクションも返ってこない。恐るおそる顔を上げると、ちらと見ただけでも高級そうな家具一式があるスペースに、人影は無かった。

「そっか、居ない可能性を考えてなかった……」

 込み上がってきた安堵のため息をつきながら、先んじて運んでもらっていた椅子に腰掛ける。同期にメジロ家のウマ娘がいるという話は聞いていないので、恐らく先輩なのだろう。であれば予定が違っても不自然ではないし、部屋に居ないのも頷ける。

「……どうしようかな」

 それから1時間ほどかけて荷ほどきをある程度済ませたものの、『メジロフライト』さん本人どころかその知人らしき人も部屋を訪れてくる気配はない。ついでに急を要する用事も無いため、手持ち無沙汰になってしまった。

 ふと窓の外に目をやると、青々と晴れ渡った空が見えた。折角だし学園の周りでも散策してみよう、という暢気な心の提案に、乗ってみても良いかもしれない。

 燦々と陽光が降り注ぎ、風がそよぐ中での散歩は、想像通りとても心地が良かった。足取りもだんだんとの軽くなり、初めて見る街並みを小走りに駆けていく。

 軽く首筋が汗ばんできた頃、住宅街の中に小さな公園を見つけた。昼下がりではあったがいくつかの遊具や砂場に先客はおらず、静かに休むにはちょうど良さそうだ。

「んっ……んっ……ふぅーっ……ん?」

 水飲み場でややぬるい水を飲み下して一息つくと、水飲み場の反対側の木陰にあるベンチに人影を見つけた。付け襟つきの薄荷色のワンピースをまとった少女は私と同じウマ娘のようで、自らの傍らで丸まる黒猫を見つめながら撫でていた。

「あら、ご機嫌よう。よいお天気ですわね〜」

 声をかけようか迷っていたところ、少女は猫から顔を上げ、穏やかな声色でそう言った。育ちの良さが垣間見える言葉遣いや恰好とは裏腹に顔立ちはかなり幼さが残っており、同い年か、それ以下のように見える。

「こんにちは。隣、座ってもいいかな」

「どうぞ〜。この子、わたくしと同じでのんびりさんのようでして〜。ず〜っと、撫でさせてくださいますのよ〜」

 楽しそうに言いながら、少女はゆっくりとした手付きで撫でる。猫もそれが心地よいのかすっかりとリラックスした様子で、あくびさえしていた。

「えーっと……名前、聞いてもいい?私はツルマルツヨシ、友達にはツルちゃんって呼ばれてるけど、好きに呼んでね!」

「ふむ〜……では、ツルちゃんさまとお呼びいたしますわね〜。わたくしはブライト、でかまいませんわ〜」

 そう言って、猫を撫でるのを止め、もう片方の手を差し伸べてくる。もちろんそれに応じて握り返したが、第一印象はなんとも不思議な雰囲気だな、というものだった。

「ブライトちゃんは、どうしてこの公園に?私は散歩してて、休憩しようと思ったらちょうどここを見つけたから来たんだ!」

「なんと〜、奇遇ですわね〜。わたくしも、よいお天気でしたので、おさんぽしようかと思いまして〜。そうして、こちらの猫ちゃんがいらっしゃったので後を追っていましたら、この公園に着いたのですわ〜」

 ブライトちゃんがそう言うと猫はすっくと立ち上がり、別れの言葉替わりのようにこちらを一瞥してから、とてとてと歩いていった。ブライトちゃんが微笑みながら手を振っていたため、私もそれに倣い、猫の姿が見えなくなるまで手を振った。

 その後も当たり障りのない会話を続け、なんとなく彼女の人となりがわかったような気がした。少々行き過ぎなくらいにのんびり、おっとりとしている、典型的なお嬢様といったようでありながら、どこか芯の強さを感じさせるところもある。不思議だが、魅力に溢れている人物だった。

「……さて、猫ちゃんもいなくなってしまいましたことですし、わたくしもそろそろお暇いたしますわね〜」

 談笑が一段落付いたところで、ブライトちゃんがベンチから立ち上がって言う。時計を確かめてみると、いつの間にか1時間ほど話し込んでいたようだ。

「そっか……そうだ、ここで会ったのも何かの縁だし、家まで送っていくよ!ブライトちゃん、この辺に住んでるんでしょ?」

「まあ〜、よろしいんですか〜?ツルちゃんさま、お優しいんですのね〜」

 『散歩』で来られる距離ならば、家まで送っていってもそう時間はかからないはずだ。「任せて!」と胸を叩きはしたものの、心中で警戒心の薄さに若干危機感を覚えてしまうのは失礼だろうか。

「それでは、こちらです〜」

「はいはーい!」

 公園から、住宅街の隙間を通ってのんびりと進む。奥様方のお喋りや小川のせせらぎに耳を傾けたり、他愛もない会話をしながら歩いていると、いつの間にか出発地点である中央トレセン学園が見えてきた。

「見えてきましたわね〜」

 これなら帰りもそこまで時間がかからない、ああ珍しく運が良かった、なんて考えていると、ブライトちゃんは何の気無しにそう言った。

「えっ?……もしかして、ブライトちゃんもトレセンの生徒なの!?」

「ええ、そうですわ〜。そういえば、お伝えしていなかったですわね〜」

 ブライトちゃんが、うっかり〜と自分の頭をこつんと叩く。制服姿の私を見て無反応だったことで勝手に生徒でないと思いこんでいたが、とんだ勘違いだったらしい。

「まあでも、それなら部屋まで送っていくね……あと、もし良ければ、これからも時々お話ししたりできたらいいなって思ったんだけど、どうかな」

「もちろん、いいですわ〜!ツルちゃんさまとのおさんぽ、とっても楽しかったんですもの〜。ぜひお友達になれたら、と思っていましたのよ〜」

 にっこりと笑い、ブライトちゃんが手を叩く。少し変わっているかもしれないが、『いい人』であることは間違いないと思える。編入初日からそんな友人ができるなんて、幸先がいい。

「たしか〜、こちらの二階でしたわね〜」

「……ビックリ、栗東寮ってだけじゃなくて階も同じだったなんて!」

「なんと〜、ツルちゃんさまのお部屋に迷わずに行けるのは、うれしいですわね〜」

 るんるんと楽しげに歩くブライトちゃんに着いていくと、3時間ほど前に出発した新たな居室が見えてきた。しばらく時間も経っていることだし、『メジロフライト』さんも部屋にいるだろう。

 改めて自己紹介を……と思うとなんだか緊張してくるが、今はとにかくブライトちゃんを部屋に送り届けることが最優先だ。それにしても、まだ向こうの部屋なのだろうかと考えていると、足がぴたりと止まった。

「ん、ブライトちゃん、どうかした?」

「ツルちゃんさま、エスコートしていただきありがとうございました〜。無事、迷うこともなく部屋にたどり着けましたわ〜」

「はあ、たどり着いた……ここに?」

 ええ、と頷く彼女の視線の先には、『215号室』の扉が。勘違いか何かだろうか。

「えーっと、私もこの部屋なんだけど……」

「まあ〜!まさか、ツルちゃんさまとわたくしが同じお部屋だなんて、とても喜ばしいですわね〜!」

 ブライトちゃんは戸惑いを見せるどころか満面の笑みを浮かべ、ドアを開ける。……ん?

「これからよろしくお願いいたしますわね、ツルちゃんさま……いえ、ツルマルツヨシさま」

 くるりと部屋の中で回転し、お辞儀するブライトちゃん。

「えっ、はい、ツルマルツヨシです……あれ?ブライトちゃん、フルネームは?」

「はい、メジロブライトですわ〜」

 優雅な動作でカーテシーをしながら、彼女はそう言った。途端に、脳内に疑問符や様々な思考が飛び交い始める。

「あれ?んん?……こ、ここの名札、『メジロフライト』っていうのは?」

 纏まらない、というか事実を認めたがらない思考のせいで混乱する中聞くと、彼女はたった今思い出したかのように言った。

「そういえば、フジキセキさまにお伝えし忘れておりました〜。名札の字が間違っているので取り替えてください、と〜」

 雷に打たれたような衝撃が全身に走る。そのショックのあまり、私は一度扉を閉めてしまった。ゆっくりと扉を開けると、ブライトちゃん……いや、ブライトさんが不思議そうに首を傾げていた。

「どうかなさいましたか、ツルちゃんさま〜?」

「〜〜〜っ、つつ、ツルマルツヨシですッ!こ、ここ、これ!つまらないものですが、マンゴーゼリーです!お、お口に合うようでしたら幸いです!メメ、メジロブライトさん!」

 即座に冷蔵庫から手土産を取り出して深くお辞儀し、改めて全身全霊の自己紹介をする。まさか(知らなかったとはいえ)編入初日から、先輩に、しかもメジロ家の方に馴れなれしく振る舞ってしまうだなんて。

「これはこれは、おいしそうですわね〜。ツルちゃんさまも、ご一緒にいかがですか〜?」

「……い、いいんですか?」

 顔を上げると、ブライトさんは特に気にする様子もなくゼリーと私に交互に目を落としていた。

「もちろんですわ〜。こんなにおいしそうなお菓子、わたくし一人にはもったいありませんもの〜」

「そうではなくて……私、知らなかったとはいえ、ブライトさんに失礼な行いを……」

「ふむ〜?……わたくしは、ツルちゃんさまに失礼な振る舞いをされたようには思えませんでしたわ〜。のんびりなわたくしに、最後まで付き合ってくださったではありませんか〜」

 間延びしているが、しっかりとした意志を感じられる声でブライトさんが言う。嘘や社交辞令などでそう言っているとは全く思えない、率直な発言だった。

「ですから、気にしないでくださいませ〜。ね?」

 つん、と私の鼻先に触れながら、ブライトさんが言う。ある種の力が、しかし決してマイナスではない形で、その言葉には込められているようで、私は無意識に頷いていた。

「ほわぁ〜!」

「は……あはは……」

 ブライトさんが、全身で喜びを表現するように両手を上げる。その様子にどうにも緊張感が抜けてしまい、頬が緩んでしまった。

「それでは、ツルちゃんさまも召し上がりませんか〜?とってもおいしそうで、わたくし待ちきれませんの〜」

「じゃあ……お言葉に甘えて!」

 その後、一緒にゼリーに舌鼓を打ちながら話をしたことで、心の中にあったわだかまりは完全に消えていった。これが、私の慌ただしい編入初日の出来事だった。

Report Page