総括
どすん。
突然の衝撃が腹に重く響いた。
「うぐっ」
「おい、起きろ」
「んえ……え? オジュウくん?」
「おはようボケ餅。さっさと支度しろ」
まだ焦点が合わない目。ぼんやりと自分の上にオジュウくんが跨っているのは今の状況からわかった。なんでこんなことになってるのかは、無理矢理覚醒した頭でひたすら考えて。
「ええっと……」
「ハァー。昨日あれだけ言ってたじゃねぇか」
「な、なんでしたっけ……」
体の上にあった布団を引っ剥がされ、心地よい温もりが無くなった。
「行くんだろ。中山に」
2023年、12月23日土曜日。
クリスマスイブのイブになるこの日。もしくは有馬記念の前日。
僕たちにとっては、中山大障害の日。
「年末はやっぱり冷えますね。うぅ……はやくカイロ効かないかな」
「俺のポッケはもう効いてる」
「え〜いいなあ。ちょっとお邪魔させてください」
「やだ」
「そんなあ」
開門から少し経ってから中山競バ場へ入場した僕たちはとりあえずご飯の調達に向かった。場内を歩き回る予定なので、なるべく手に持って食べることができる唐揚げだったりホットコーヒーだったり。
粗方確保した後、空いていたベンチに座って競バ新聞を広げてみる。ついでに一緒に買った赤ペンを持ち、中山大障害のページを探していると隣でオジュウくんが「あ、」と何かを思い出したように呟いた。
「ウェルカムチャンスやってねぇわ」
「あーそういえば……。あれ当たったことあります?」
「ない」
「僕も全然。……来たからにはやってみますか」
広げた新聞を一旦畳んでスマホでアプリを開いてみる。からから回る抽選画面を眺めて数秒後。
「…………やっぱりダメでした」
「同じく」
「今年の初めのアレ……オジュウくんのフォトブックも当たんなかったんですよ。ショックだったな」
「目の前の俺じゃ足りない〜って?」
「そういうことじゃなくて……やっぱり欲しいじゃないですか。出されたら」
「そういうもんか」
「そういうもんです」
スマホをコートのポケットにしまい再び新聞を読む。オジュウくんも焼き鳥を頬張りながら覗き込んで、コイツの前走はこうだ今回はここが肝だと教えてくれた。
オジュウ君も僕も、別に今日初めて出走メンバーを知ったわけじゃない。新聞を買わずとも特別登録が出た時点でこういう展開だこういう競バになりそうだと自宅のリビングで討論だってしたのだ。
それでもやっぱりなんとなく。新聞を買ってしまったり、何か呟いてみたくなったり。
この不思議な感覚はレース場特有のものなのだなといつも思う。
「このレース、バ券勝負しようぜ」
お昼時で段々と人が増えてきた頃、オジュウ君と条件戦のパドックで歩様とバ体をチェックをしていると隣からお誘いが聞こえた。
「いいですけど……ルールは」
「3000円勝負、バ券の買い方は単勝複勝3連単なんでも。プラスになった額が多い方が勝ち、どちらもマイナスなら抑えられた方が勝ち」
「勝ったらご褒美あるんです?」
「たこ焼き奢るってのは」
「受けて立ちます」
「決まりだな」
おまえメシが絡むと食いつきいーよな、と笑いながら彼はスマホでこのレースの情報をチェックし始める。僕はというと一応本命はもう決めていたので、あとは紐候補で気配がよさそうな子を探すことにした。
色とりどりの勝負服に、出走者たちの真剣な眼差し。今日この時のために仕上げてきた肉体と精神。花壇の向こう側にいる彼らの空気がビリビリと伝わってくる。
「……よし、決めました」
「俺も決めた」
「じゃ、バ場に行ったら買いに行きましょ」
「3連単1頭軸1着固定で全部埋めたとか正気かおまえ」
「君は単複とワイドですか……手堅いですね」
「紐はきたのに!紐はきたのに!」
「マルチにすればよかっただろ。俺は複勝きたからギリトリガミ回避だな」
「うう……何ほしいんでしたっけ」
「たこ焼き。何味が良い」
「……てりたま」
「じゃ、俺もそれ。さっさと行ってこい」
「はーい……」
あふい、と出来立てのまるいたこ焼きをはふはふ頬張るオジュウ君に水筒を手渡す。
念のためお茶を常温で入れておいてよかったな、なんて思いながら彼の飲みっぷりを眺めた。んべっと出したその舌は若干いつもより赤い。
「やけどした」
「すぐに食べるから……も〜〜、追加でお茶買います?」
「いやいい……それより、おまえの先生に顔出す時間って決まってんのか」
「ああ、佐々木先生にはレースの後にお会いする予定です。レース前は集中していた方がいいでしょうし。先生が忙しそうならまた別の機会にします」
一応スマホで予定を確認する。手帳アプリにある場所と時間は頭の中にあるものと相違なく、そのままアプリを閉じた。
佐々木先生、僕の恩師。
ダートで迷走していた時も、障害入りして林さんと出会ってJG1のタイトルを取ってからも、いつでも真摯に僕に向き合ってくれた人。
またこの舞台であの人の名前を見ることができる、と分かった時は胸が熱くなったっけ。
「あんまり先輩風吹かせに行きすぎると嫌われんぞ」
「ちょっと会うだけですよ! 久しぶりなんですから」
「へーへー、じゃー俺も今日出た後輩と駄弁ってるわ」
「君もバッチリ吹かせてるじゃないですか!」
にっと笑うオジュウ君はもう火傷のことなど忘れてしまったらしい。ん、とたこ焼きの器を渡され、「ビール買ってくる、あとは食っていーぞ」と売店の方へ歩いて行ってしまった。
持たされたその器の中には、たこ焼きが4つ。
「……素直じゃないなあ」
半分こでいいのに。
爪楊枝にささったその一つを口の中に運ぶ。
「…………おいし」
中は程よくあったかかった。
「あ、ノエルからメッセージきてる」
「なんて」
「レース予想送ってきましたよ」
「ほー。大障害誰が本命だって?」
「いや、ノエル賞の」
「なんでだよ」
中山大障害は毎年第10競走として組まれている。今年はいつもより発走時刻が遅いとはいえ、パドックの周回開始時間はあっという間に来てしまう。
昼ごはんを軽く済ませてまたパドックに移動すると、まだ出走者は出てきていない。けれど人だかりは先ほどよりも格段に増えて、彼らが出てくるのを今か今かと待ち侘びていた。
僕たちも空いている場所に移動しその時まで待つことにする。師走の青空が、熱戦の前の静けさを語るように澄んでいる。
「あっという間でしたね」
「なにが」
「この一年。君がラストランを終えてから今日まで。なんだか時間が経った気がしないんです」
「そうかぁ? 歳を取ると時間の進みが早くなるって聞くが?」
「あはは、それもあるかも」
意地の悪い笑みを浮かべて笑う彼に遠回しに年寄り扱いされても負の感情が湧かない。自分でも受け入れ始めたってことなのかな、なんて思うほど。
「君はどうでした」
「おれ?」
「去年の今から今日まで、どうでしたか」
何気なく投げかけると、意外にもオジュウ君は考え込んでしまったようで僅かなの沈黙。
そして口を開いた。
「暇だな」
「暇、ですか」
「目標がねえ。グランドジャンプも大障害も、取るべきタイトルが見えなくなった。実際、今も実は長い休暇の最中なんじゃないか、またレースに向けて走り出す日が来るんじゃねえのか……とか考えたりもするが、そんなことなく平和に日々が過ぎてるな。それが暇」
「あー……」
現役を終えた競走バたちは闘争心がなくなるせいか、 気性が穏やかになることが多い。ただ、元々の性格が荒かったり現役時代と心境に変化がなかったり、現役時代が長かったりすると物足りなくなることもあるとか。
オジュウ君もそれに当てはまるのかもしれない。
なんせレースで負けたらあれだけ暴れる子だし。
「ま、今も充実してるしそのうち慣れるだろ。ふつーの生活に」
「……そうですね」
語る彼の目線の先、誰もいないパドック。
その瞳に名残惜しさを感じたのはきっと気のせいじゃない。
だって、かつての僕だって。
「……また来年も来ましょうよ、中山に」
「そーだな」
コートの袖越し、オジュウ君の腕が僕の腕に僅かに触れる。掲示板を見ると既に第9競走の発走時刻を示していた。
今日の主役たちが姿を現すまで、あと数分。
僕たちはいつかの僕たちに想いを馳せ。
来たるその時を静かに待つ。
「折角だしクリスマスは何処か出かけます?」
「いや、俺渋谷で仕事の手伝いあるわ」
「お、お疲れ様です……」