結わう絆(4)
「伏せていなさい」
ゆみが後部座席に乗り込むと、叔父はすぐにそう言った。
菓彩ゆあんは母あまねの兄だ。若い頃はアイドル並みの美男子と街でも評判で、不惑を迎えた今でもその男振りは衰えていなかった。
そのゆあんが、端正な顔に鋭い目つきで辺りを見渡しながら自家用車をゆっくりと発進させた。
学校の敷地の外にはデジカメやスマホを構えた者たちが大勢たむろしていた。おそらく本職の記者以外にも動画投稿者や、単なる野次馬もかなり混じっているのだろう。その数は時間と共にさらに増えているようだった。
その輩たちの注意が学校から出てきた私有車両に集まったが、ハンドルを握るゆあんの鋭い目つきに睨まれると、誰も皆すぐに目を逸らした。ゆあんはその隙に道路へ出て速度を上げた。
「ゆみちゃん、どこに目があるかわからないからそのまま伏せているんだ。家に着いても俺がいいと言うまでそのままでいること。いいね?」
「はい」
「俺を呼んだのは正解だったかも知れないな。俺は顔が怖いから誰も寄りつかん。みつきだったら逆に引き寄せていたところだ」
ゆあんは自虐気味に笑った。みつきは双子の弟だが、こちらは優男という言葉がぴったり当てはまるほど甘く優しい雰囲気を纏っており、それが顔つきにも現れていた。
一方でゆあんは古武士という言葉が当てはまる雰囲気をもっていた。母あまねが古風な雰囲気を纏い言葉使いもどこか男まさりなのは、実兄ゆあんの影響を受けたのだろうとゆみも思っていた。
そのゆあんの指示どおり後部座席に伏せたまましばらく時間が経った。そろそろ自宅近くへ着いた頃だが、しかし、ゆあんは速度を落としたものの車を停めようとしなかった。
「拙いな」
ぼそりとつぶやいたゆあんに、ゆみは思わず体を起こしそうになった。ゆあんはバックミラーでそれに気がつき、すぐに、
「伏せているんだ」
と強い調子で指示した。ゆみが慌てて伏せ直すと、ゆあんは車の速度を上げた。
「すまん。君の自宅だが、今は帰れそうにない。……囲まれている」
「囲まれ…? それって」
「客ではないな、恐らく面倒な輩どもだ」
「お店は!?」
「今日は臨時休業だ。君から連絡をもらった時にあまねにも電話したら、騒ぎになりそうだから念の為、今日は開けないと言っていた。……最悪の想定が当たってしまったな」
「ママ……」
「ウチに…菓彩家に行くぞ。ほとぼりが覚めるまで俺たちが君の面倒をみる」
菓彩家は母の実家だ。フルーツパーラーKASAIを営業しており、ゆあんとみつきはその共同経営者だった。流石に母の身元まで世間には出回っていないのか、こちらには一般客の他に人集りは無かった。
車を駐車場に停め、店の裏手にある自宅用の玄関から中に入ると、もう一人の叔父・みつきが出迎えてくれた。
「おかえり、ゆみちゃん。大変だったね」
いらっしゃい、ではなく、おかえりと言ってくれた叔父の優しい気遣いが、ゆみの心に沁みた。
「お、叔父さ……」
ここまで混乱と不安、そして得体の知れない者たちに囲まれ追われたことでずっと張り詰めていた心が、一気に緩んだ。
みつきは駆け寄ってきたゆみをギュッと抱きしめた。
「よしよし……怖かったね」
「……ううん、平気だよ。ゆあん叔父さんが守ってくれたから」
「噓だ。全然平気じゃないだろう?」
すかさず、ゆあんが言葉を挟んだ。
ゆみは顔を上げたが、涙でよく見えなかったのでまた俯いてしまった。
「……はい」
「その我慢強さも君の長所だね」
とみつきが言うのが聞こえた。そして叔父二人が顔を見合わせて頷き合う気配も。
「とりあえず部屋に案内するよ」
「ああ。あまねには俺から連絡しておく」
みつきが案内してくれたのは、かつては母の自室として使われていた部屋だった。同じ町内に住んでいることもあって母は今でも度々実家に顔を出すことが多く、この部屋もそのままになっていた。ゆみも母と共に菓彩家を訪れたときにこの部屋で何度か過ごしており、我が家に近い感覚でくつろげる場所でもあった。
ちなみにゆあんとみつきのどちらも既に既婚者であり、菓彩家の近くにそれぞれ自宅を持っていた。そのため菓彩家には、母の両親──ゆみにとっての義理の祖父母・しゅういちとぼたん夫婦が二人暮らししていた。
すぐに祖母ぼたんがお茶とお菓子を盆に乗せて訪れてくれた。
「ゆみちゃん、難儀やったね。事情はようわからへんけど、どうせ根も葉もない噂ですよ。すぐに収まります」
はんなりとした京言葉で慰めてくれる祖母の言葉に、ゆみは複雑な思いで頷いた。
根も葉もない噂と言うが、火のないところに煙は立たぬともいう。ゆみは祖母にSNSに上がっていた父とひかるの密通を疑う写真について話そうと口を開いた。
「おばあちゃん……あの」
スマホを取り出して見せようとすると、ぼたんから止められた。
「ネットはしばらく見ん方がええ。振り回されて余計にしんどくなるだけや」
「でも」
「でもやない。あんた、ネットと父親、どっちを信用するんや」
そう言われてゆみはハッとした。
「……はい。ごめんなさい」
「謝る必要は無いんよ」
ぼたんはそう言って、優しい笑みを浮かべた。
「ゆみちゃん、お父さんのこと信じてあげなさい。拓海はんは、ウチのあまねが選んだお人……何よりよねさんのお孫さん、そう、あなたの実のお母さんが選んだお人やさかいね」
(ママと……お母さん……)
ゆみには母が二人居る。義理の母あまねと、そして実母のゆい。
ゆいは、ゆみを産んですぐに亡くなってしまった。だからゆみには彼女の記憶がない。アルバムでしか知らない。
ゆみは部屋の片隅にある本棚に目を向けた。そこには母あまねが大事に保管しているアルバムがあった。家族のアルバムは品田家にあるが、母の個人的なアルバムはここに残されていた。ここに遊びにきたとき、母から何度か見せてもらったことがある。父と結婚する前の若き母や、そして実母ゆいの姿が写る写真がたくさん収められていた。
ぼたんが退出した後、ゆみはそのアルバムを手に取った。ゆっくりとページをめくる。
学生時代と思わしきあまねと、拓海と、そしてゆい。三人が揃って写る写真が何枚もあった。大抵の写真は、拓海とゆい、そしてゆいの隣にあまね、という並びだった。
父・拓海と実母・ゆいは幼馴染だったそうだ。
今は父が経営する定食屋なごみ亭は、元はゆいの実家、和実家の家業だった。父とゆいとの結婚を機に、品田家が元々経営していたゲストハウス福あんとの経営統合がなされたという経緯があった。
ゆいの死後、なごみ亭は父と、そしてゆいの母、つまりゆみにとって実の祖母である和実あきほと、父方の祖母・品田あんの三人で回していた。ちなみに祖父である品田門平と和実ひかるは遠洋漁業漁師で一年のほとんどを留守にしていた。
しかし拓海があまねと再婚すると、和実夫妻は二人を気遣ってか、自宅だった店を完全に譲り渡し、今は近所のマンションで悠々とした隠居生活を送っていた。とはいえ、あきほはあんと共に店の手伝いを今でもしてくれている。
今日も確かその予定だったはずだが、この状況では店に近づくことさえできないだろう。元々は自分の家だった店を訪れることさえできない祖母の気持ちを思うと、ゆみは胸が痛かった。
なお、あんは夫・門平と共に世界一周旅行の最中で留守にしていた。こちらの祖父母も息子のスキャンダルを知ってしまっただろうか。ゆみはスマホに目を向けたが、確める気にはなれなかった。
気分を変えるためにアルバムに目を戻す。
ゆいが見慣れた自宅の縁側…まだ和実家だった頃の家宅の縁側に座り、両脇にあまねと父に挟まれ、そして後ろに別の友人たち──芙羽ここねと、華満らんに囲まれて、満面の笑顔を浮かべていた。今よりも少し若い姿の実母だが、笑顔も、仕草も、今のゆみとよく似た顔立ちで、ゆみは思わず部屋にある化粧台の姿見とアルバムを何度も見比べた。
「……お母さん……これが……私が生まれてくる前のお母さん……」
写真の中のゆいの仕草を真似て、両手を頬に当てて笑顔を作ってみる。そんな自分の姿が、アルバムの母と本当にそっくりで、まるで自分が父や母に囲まれているような錯覚を覚えた。
不思議な感覚を覚えながらページをめくっていくうちに、ふとそのページの隙間から一枚の写真がこぼれ落ちた。
アルバムに整理されずただ挟まれていただけの写真。それを拾い上げたとき、ゆみの目が見開かれた。
そこに、若い頃の星奈ひかるが写っていた。
まだ中学生か、それとも高校生くらいだろうか。その彼女が、悪戯っ子のような笑みを浮かべて、右手でピースサインをしていた。そして、その左手は……隣の人物の腕をしっかりと掴んでいた。
掴んで居たのは、父・拓海の腕だった。まだ少年の面影を濃く残す若き拓海が、ひどく慌てた顔をしながら、腕をひかるに引き寄せられ、肩と肩を触れ合わせていた。
「パパ……?」
ゆみは、今まで父親と認識していた拓海の姿が、急速に得体の知れない男へと変貌していく気がして、その悍ましさに彼女はゾッと背中を震わせた……