結わう絆(1)
星奈ひかる。
今やその名を知らぬ人はいないだろう。二十代の若さにして宇宙飛行士に選ばれた経歴を持ち、少年少女たちの憧れの職業ランキング第一位に宇宙飛行士が毎年連続で挙げられるほどの影響を社会に与えた女性だ。
その星奈女史と母が知り合いだったことを、ゆみは最近になって知った。
なんでも母曰く、
「まぁ、戦友と言ったところだ」
らしい。
知ったきっかけは父宛に舞い込んできた一件の依頼だった。星奈ひかると父・品田拓海の対談を取材したいという雑誌記者からの依頼だった。
父はおいしーなタウンの変哲のない定食屋の主人だが──ついでにゲストハウスも経営している──大阪を凌ぐ食の都と呼ばれているこの街でも父を知らぬものはおらず、誰もがその料理の腕前に一目を置いていた。
あの高名なカリスマフードコーディネーター・芙羽はつこ女史も父について言及したことがあり、知る人ぞ知る通好みの料理人として全国的にもそこそこ知られているらしい。
そんな父だから地元メディアからも取材を受けたことが幾度かあり、今回の取材の依頼についても、ゆみ自身も驚きはしなかった。
ただ、まさか星奈ひかると対談だなんておかしな企画もあったもんだね〜と、母と居間でお煎餅をボリボリ齧ってたところに、母から友人だとカミングアウトされたのだ。
「へー」
「そんなに驚かないんだな」
「ママの人脈も大概おかしいもん、今さらだよ」
先述の芙羽はつこの娘と親友な上、どこでどう知り合ったのか外国の女王とも友人関係というのだから、友人に宇宙飛行士どころか宇宙人が居てもおかしくない。
ゆみがそう言うと、母はなんとも言い難い表情になってお茶を啜った。
ゆみは三枚目のお煎餅に手を伸ばしながら訊いた。
「で、どんな対談するの?」
「さあな。しかしパパは聞き上手だから、どんな取材や対談でも巧くこなすさ」
「そういうのはママの方が得意そうだけど? 中学と高校、大学も生徒会長やってたんでしょ?」
「大学は生徒会じゃなく学友会と呼ぶんだ。ま、別に取材を受けるほど大した肩書きでもない」
そんなことを言っているが、父が取材を受ける時は必ず、事前に母と相談して細かくアドバイスを受けていることをゆみは知っていた。つまり父の取材対応術は母のプロデュースの賜物と言える訳で、ゆみはそんな母を尊敬していた。
宇宙飛行よりも、女王よりも、そして申し訳ないが父よりも、ゆみにとって一番の憧れで大好きな人は、母の品田あまねだった。
〜〜〜
父が星奈ひかるとの対談取材を受けてから一月と少し経った頃、その記事を掲載した雑誌が発売された。
表紙を飾ったのはもちろん星奈女史だった。スラリとした長身のルックスをブランドもののシックなパンツスーツに包み込んだその凛とした姿は、気品と知性、そして宇宙という過酷なフロンティアに挑む者の逞しさと気高さを秘めていた。
「わー、かっこヨ」
ゆみは立ち寄ったコンビニでその雑誌を見かけて、思わず手に取った。
表紙には父の姿は見当たらなかった。おそらく対談記事内でちょこっと写真があるくらいだろう、と思ったが、雑誌は立ち読み防止のために紐で括られていたので確認はできなかった。
しかしわざわざ買ってまで確かめる気にならなかったので、ゆみは雑誌を棚に戻して、おむすびを二つ買って学校へと向かった。
お昼休み。
母が作ってくれたお弁当を食べ終え、腹ごなしにコンビニで買ったおむすびを食べていた時、クラスメートの一人から声をかけられた。
「ちょっとゆみ、これ見た!? 今日発売されたこの雑誌──って、なんでお弁当食べた後にオニギリ食ってんの?」
「食後のデザート? 的な?」
「おぬし知っておるか。デザートとは古くは主食では補えないビタミンなどの栄養素を補うための食事であったことを。だからフルーツとか食べるんだよ?」
「へー。でもフルーツならお弁当に入ってたし。ママのお弁当、美味しいけどお米が足りないんだよ」
「そのオニギリなんか茶色いんですけど、なにそれヤバくない?」
「ヤバくないよ、玄米おむすびだよ」
ちなみに玄米はビタミンや食物繊維が豊富であるため、ライフスタイルが西洋化する前の日本人はほぼ玄米と漬物、そして大豆発酵食品だけで必要な栄養素を摂取できたという。
歴史の授業で教師からそんなテストの役に立たない雑学を教わった時、ゆみは江戸時代にタイムスリップしても生きていけると変な自信を強めたものだ。
なお江戸時代の中心地である江戸では精米技術と流通システムが進んでいたため白米が主食となり、却ってビタミン不足となって「江戸煩い(脚気)」という病気が流行ったそうな。
「まぁ、あんたの米狂いは今更だからいいとして……本題はコレよ」
友人が差し出したのは、朝コンビニで見かけた例の雑誌だった。
「買ったんだ?」
「そりゃ買うわよ。星奈ひかるよ? 見てよこのカッコよさ。キラヤバじゃん?」
「うん、かっこヨだね」
今朝見たこともあってさほど興味を惹かれなかったゆみだが、友人が、
「それだけじゃないよ」
とニヤっと笑いながらページをめくった。
巻頭のグラビアページだ。星奈ひかる特集が組まれ、スーツ姿の彼女の立ち姿が写っている。
しかし表紙と違い、その隣にはもう一人スーツ姿の男が立っていた。
白を基調としたスーツのダンディな男性。一瞬、それが誰か分からなかった。
「この人、アンタのパパさんでしょ!? ほら品田拓海って! イケメン過ぎてキラヤバいって!」
「パパ……?」
これが父だと、俄かには信じられなかった。
普段はTシャツに前掛け、頭にはタオルを巻いて、厨房で忙しく立ち働いている姿ばかりなのに、それがピシッとした白いスーツに身を包み、キリリとした顔で星奈ひかるの隣に立っているのだ。まるで別人のように見えるが、その顔は間違いなく父だった。
今まで見たこともなかった父の姿に奇妙な胸の疼きを感じたゆみを他所に友人ははしゃいだ声で言った。
「アンタのパパさんも街じゃちょっとした有名人だけどさ、なによ、こんなイケメンだったなんて初めて知ったわよ。うわー勿体な!」
「勿体ない?」
「今まで知らなかった時間が勿体ないってこと。ねえねえ、今日アンタん家遊びに行っていい? パパさんに会わせてよ」
「え、やだ」
「なんで!?」
即答のゆみに友人は素っ頓狂な声を上げた。
「ねえお願い! パパさん紹介してよ〜!」
ゆみは友人を他所に雑誌のページをめくった。
次のページに載っていた写真に、ゆみの手が止まった。
そこには、星奈ひかるを両手で抱き上げる──そう、お姫様抱っこだ──父の姿があった。
その父の姿はまるで某スパイ映画のヒーローのように逞しく、そして抱かれた星奈ひかるは普段の格好良さが嘘のように、可憐な少女のようにあどけない笑みを浮かべて父の首に手を回していた。
また胸が、疼いた。
訳の分からない嫌悪感が湧き上がり、ゆみは雑誌を閉じた。
「ゆみ?」
「ううん、なんでもない」
「遊びに行っていい?」
「駄目」
「けちー。なら普通にお客さんとして行くもんね」
「勝手にどうぞ」
「……不機嫌じゃん。どしたのさ?」
「………わかんない」
見てはいけないものを見てしまった気がして、胸がモヤモヤして……ゆみは席を立った。
「どこ行くのさ?」
「購買でパン買ってくる」
「弁当とオニギリ食ったばっかりじゃん!?」
「そうだけど、そうだけどさ……なんか腹ペコったの!」
〜〜〜
学校から帰宅すると、我が家に隣接する店の前には長蛇の列ができていた。
「なにこれ…?」
行列ができることは珍しくない。取材を受けるたびに評判を聞きつけた客が並ぶことはよくあった。
だけど今日はまるで様子が違った。
これまでは地元メディアの割とマイナー寄りの雑誌取材ばかりだった。というか知名度の高い観光雑誌などからも依頼を受けたことがあったが、両親はそれを断っていた。
──下手に観光客が押し寄せると常連さんの迷惑になるだろ?
父が語ったその理由はどこか自意識過剰に思えたものだが、しかしそれは杞憂なんかじゃなかった、とゆみはこの光景を目の当たりにして思い知らされた。
女の子だ。若い女の子ばかりが店の前に大勢並んでいる。いや、押しかけている。
ゆみは店の裏手にある玄関から家に入り、店の厨房を覗き込んだ。厨房はカウンターの裏手なので、そこから大して広くもない店内の様子を長め渡すことができた。
ゆみは唖然とした。
女性客で満席の店内では、客のほぼ全員がスマホを父に向けて掲げていた。
忙しく調理を進めながら、父はそれでもカウンターに座る客からの求めに応じて会話をこなしたり、味や食材の好みのリクエストに応じたりと、いつものように細やかな接客をこなしていた。
けれどお客さんは普段の常連と違って、明らかに料理よりも父個人に興味を向けていた。
──あの、一緒に写メ撮ってもいいですか!?
──サイン下さ〜い♬
──マスターとお話ししたいな〜💕わたしのこと知ってます? キュアチューバーやってて結構有名で……
まるでファンに囲まれたアイドルだ。ゆみは父に向けられた店内の異様な雰囲気に肌が泡立つような怖気を感じ、厨房から後ずさって自室へと駆け戻った。
制服から着替える気にもなれず、そのままベッドに身を投げ出す。
枕に顔を押し付けると、脳裏にさっき目にした若い女たちに囲まれる父の背中が思い浮かび、そこに星奈ひかるを抱いた別人のような姿が重なった。
胸が疼く。ひどく疼く。
「気持ち悪い」
ゆみは吐き出すようにそう呟いた。