終末の鎖、永遠の夜

終末の鎖、永遠の夜



 全ての始まりは、あの夜からだった。


あの夜、私────否、"私だったもの"は、ある少女に殺された。どこにでもいそうな、ただの平凡な女の子。そんな子に、私は殺された。


華奢な指で首を絞められた。きゅう、と嫌な音がしたかと思えば、今度はきぃん、という耳鳴りが私の耳をつん裂き始めた。

空気が枯れて苦しい。目の前は真っ暗で、そこが夜の闇の中なのか、そこに彼女の顔があるのか、それとも既に目が自らの仕事を棄てたのかすらもはっきりしない。

頭の中の恐怖が、残酷な冷気となって私の体を満たしていく。後悔の余地すら、もう私には残されていなかった。


どうしてこんなことになってしまったんだろう、その問いだけが頭の中を駆け巡る。その答えを見つける間も無く、私の命は暗闇へと溺れていった。



 乾いた風と光とが鋭い棘となり頬を刺し、私の眠りはそこで覚めた。


そこは、何の変哲もない路地裏だった。ゴミやら木片やらが乱雑に転がっていて、人気が感じられない。夕暮れ時だろうか、薄暗いせいもあり、まるで世界から忘れ去られてしまったような場所だと思った。


……ここはどこだろうかと、ゆっくりと起き上がりながら眉を顰めた。

未だに残る頭の鈍痛に顔を歪ませながら、私は路地裏の外へと歩いていく。

そして、通りに出ると同時に、私は絶句した。


それは私が知っている街から、あまりにもかけ離れていた。

人が一人もいない────いや、正確には、"人だったものしか転がっていない"。

道端に倒れているのは、恐らく老人だろう。干からびていて、もはや性別すらわからないほどだが、かろうじて人の形をしていることはわかった。

店先に座り込んでいるのは子供だ。しかしその肌は既に乾き切って、腕や脚はあり得ない方向に曲がっている。

それだけじゃなかった。街には喧騒一つなく、見渡す限りの灰、灰、灰。


言葉が出なかった。一体ここで何があったのか? そもそもこれは現実なのか? 夢なら早く醒めてくれ。そうでないなら、どうか嘘であってくれ。

そんな空虚な願いを吹き飛ばすかのように、街に大きな叫声が谺した。

慟哭にも似たそれは天を衝き、空を震わせ、世界を揺るがす。

この世に生きるあらゆる生物を憎むかのような、怨念の声。


──────地獄だ。そう直感した。

直後、それを肯定するかのように、向かいの空に異質な物体が現れた。

黒い太陽。そうとしか形容できなかった。それが一つの星のように見えたのは一瞬で、すぐに違うものだと理解させられた。

その物体からは、無数の黒い手が伸びていた。それらは一本一本が意思を持っているように動き回り、何かを掴もうとするようにしきりに何もない空を掻きむしっている。


ずきん、と頭に電流が走り、視界が一変する。

人の消えた廃墟は消え、生命が枯れ果て灼き尽くされた砂漠がその目に写った。

頭上を見上げれば、そこにまた黒い太陽があった。今見えているものと全く同じものだ。しかし、明確に違う点が一つだけあった。

そこには一人の男がいた。男はそれに拍手を送っていた。嘲るように、しかし称賛するように笑っていた。

不意に空が割れ、それと男はその中にゆっくりと堕ちていった。

辺りに残されたのは、命の息吹もないただ乾き切った空気と、訪れた終末だけだった。


視界が戻り、再び黒い太陽が向こうの空に見えた。

呆気に取られて、訳のわからぬまま再び未来を見据える。それでも映る景色は変わらない。諦めまいと次は自分の未来を見てみる。

──────今度は真っ暗だ。希望(ひかり)一つ見えやしない。


……そうか。もう世界は終わるのか。

不思議と何も感じることはなかった。涙もない。絶望もない。そう感じるための心の隙間すら、私には既に残されていなかったのだろう。

何もできることはない。ただ静かに終わりの時を待つだけ。終末の鎖からは、もう逃げることなどできないのだ。

ついに私を見つけたのか、黒い手が私に殺到してくるのが見え、私は目を静かに閉じた。



『…………か……』


遠くで誰かの声が聞こえる。忘れかけていた、懐かしい声。


『……る……か……』


もう二度と目覚めたくないというのに、なぜこうもしつこく私を起こそうとするのだろう。


『……は……るか……』


もういいじゃないか。放っておいてくれ。


『はるか』


はっとして目を開けた時、私の眼前に広がっていたのは、あの黒々とした暗澹ではなく、地に倒れ伏す一人の女の子だった。

あの怪物とは似つかない、普通の、普通の女の子だったもの。

言葉が出ない。何を言えば良いのかわからない。

"嫉妬"という毒が抜けた平凡な少女を、ただ眺めていることしかできなかった。


涙は枯れていた。声も干いていた。眼前で何が起こっているのかも分からず、沈んでいく夕陽の中、ただただ私はその死相を見つめていた。


「……いやはや、まさかアレすらも倒してしまうとは」


不意に背後から声をかけられ、振り向いた。


「自らの死の運命を捻じ曲げた上、黒手から逆に生命力を奪ってそのまま魔力に転用、相手の因果を崩壊させて倒すとは……さすが運命改変の魔法、本来ならあり得ないことですら成し得てしまう力という訳ですね」


振り向いた先にいた男は、嘲けるように、称賛するように私を笑った。


「かえして」


反射的に、喉から声が絞り出された。


「幽歌を、あの子の生きてた世界を」


「かえしてよ」


枯れていたはずの涙は、いつの間にか止まらなくなっていた。

くくっ、と男が笑う。


「返すも何も、貴方自身が棄てたのでしょう? それを今になって返せとは、貴方も相当な破綻者のようだ。ええ、ええ、しかし。貴方はこの戦いに勝利した。相応の対価は必要でしょう。魔法少女ジーニアス、貴方の願いをここに叶えましょう」


そう言うと、視界の隅で持っていたステッキが淡い光を浴び始めるのが見えた。

全てが終わり、元に戻る。あの子は戻ってくる。私も元に戻る。そしてきっと、また一緒に二人で……。




「ああ、ですが」


安堵した表情の私に、思い出したように男は言葉を向けた。


「彼女を生き返らせるのは結構ですが、世界を元に戻すのは13つの魂では対価が足りませんね」


……耳を疑った。対価が足りない?

私は一度死んだのに? 大事な人を殺したのに?


「では、こうしましょうか」


男が億劫そうに腕を振るった。

その瞬間、"空が割れた"。

まるで空間そのものに亀裂が入り、夜がやってきたかのようなその光景に、思わず目を見開く。

空の裂け目はやがて広がり、私をゆっくりと呑み込んでいく。

独り闇に堕ちていく。終わりのない夜に、沈んでいく────。



その先の世界は、地獄ではなかった。

地獄よりも、もっと惨い場所だった。

『自分の世界を元に戻す代わりに、他の世界の同様な願いを持つ魔法少女を消し、世界を滅ぼす』。彼は私にそう契約を持ちかけてきた。

それで彼女が救われるのなら。また二人で食卓を囲めるなら。そう思って、私はその契約を呑んだ。


甘かった。甘すぎた。何もかもが甘くて、愚かだった。


ある世界で、多くの仲間の死を見届けて、その上で立ち上がった少女がいた。彼女の願いを、想いを一蹴するかのように、私は運命を変えて自分自身の魔法で自滅させた。

ある世界では、己の心に打ち勝ち、想いを背負って戦う者がいた。それを無駄だと云うように、私は全ての未来を見通し、因果を捻じ曲げて殺し滅ぼした。


数えきれないほどの命を絶った。数えきれないほどの世界を終わらせた。

それでも私はあの子のためだと、刃を振るう手を止めなかった。滅びゆく誰かや世界への罪責や、永遠の運命という首輪をつけられた自分を憐れむ心は、次第に擦り切れ、消えてしまっていた。


私の魔法は万能だった。未来を見通す力に敵はなかった。

私が願えば全て叶った。たった一つの例外を除いて。


『救われること』。そんな単純なことが、私にはできなかった。



 空間が罅割れた。これが何度目かも分からない。

けれど、新しい世界を終わらせるたびに、何度も胸が締め付けられるような痛みに襲われた。


多くの世界を繰り返した。その度に、私以外の誰かが死ぬ。どんなに運命を変えようと、その先に待つのは"終末"だ。

どうしてこんなことになったのか。どこから間違っていたのか。私はどうすれば良かったのか。


「幽歌」


左腕に付けた腕時計を撫でる。彼女が今どうしているのかは分からない。ひょっとしたらもう何処にもいないのかもしれない。でも、彼女が自分に力を貸してくれている。今の私には、その事実で十分だった。


空という名の緞帳が開く。舞台装置の独壇場が始まる。

そしてまた一つ、物語が消える。彼女はそう確信していた。


眼前の光景を見るまでは。


「…………………………は」


幻覚かと思い、目を擦る。

10人の少女がいる。そしてその中に、周囲に鎖を浮かばせた、学生服の少女が一人。そしてその隣に、和服に身を包んだ、私の一番大事な存在が一人────。


「嘘……わたし……!?」

「はるか……いや、それにしては何よあの姿……!?」


耳の中に入り込んでくる、既に聞き飽きた自分の声と、久しぶりに聴くあの子の声。

ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと求めていたものが、今目の前に存在していた。


自分からはもう消えてしまった存在が。そんな彼女を理解できたあの自分の心が。そして何より自分自身が。

羨ましい。妬ましい。憎い。

憎い、憎い、憎い。

私の心に呼応するかのように、左腕の時計が熱を持つ。ドス黒い瘴気が手の形を成し、彼女らを求めて暴れ回るのを感じる。


同時に、一つの希望が火花となって私の頭を流れる。

この世界なら、私の成せなかったことをした"あの自分"なら。

私に、"終末"を迎えさせてくれるかもしれない。


彼女に流れ込む嫉妬の炎が、今まで奪ってきた無数の命が、そして僅かな希望の灯が。運命を変える力となって世界を揺るがす。


「仕事の時間ですよ、"ジーニアス"。貴方が成し得なかったこの最低最悪のバッドエンドに、絶望の幕切を授けなさい」


男の言葉を受け取って、終末装置が動き始める。

終わりを齎さんと、しかし終わりを求めようと、その力を振るう。


夜は未だ、終わらない。

しかし、それでも黎明を求めて。

助けて、と声なき言葉が空に流れる。


涙を枯らした"終末"の魔法少女は、その足を一歩踏み出した。


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