紛うこと無く愛だった

紛うこと無く愛だった



「よォ」

ヘルメッポが声を掛けると鎖が擦れる音がして、「少佐サマがこんな所に何の用だ?」と楽しげな声がする。声の主である「元」四皇黒ひげは鎖にその巨体を繋がれている。インペルダウンの最下層、本来ならヘルメッポが入れる様な場所では無い。それでも許可が降りたのは、本当に特例中の特例である。ヘルメッポは黒ひげの入っている檻の前に腰を下ろした。

「話をしに来たんだよ」

「話ィ? 話す事なんかもう無ェがなあ」

「コビーの事だ」

名前を出すと、黒ひげは口を閉じた。何故今更その名前を、という顔。それから、彼が今何をしているのか気になっている顔。二つの表情が混じっている。器用なモンだなあ、とヘルメッポはぼんやり思った。




黒ひげ海賊団にコビーが拉致されたのは、今から数ヶ月程前の事だ。民衆の英雄である彼が最悪の海賊団に拉致され生死不明、その上原因は間違い無く海軍の不祥事である。一刻も早く解決を、という方針で海軍はコビー大佐の捜索を始め、ようやく発見し保護したのが一ヶ月前である。コビーは黒ひげの船の、一番奥の部屋に居た。大きなベッドの上で足枷を嵌められ眠っていた。身体中には鬱血痕、目元には涙の跡がくっきり残っていて、彼が何をされていたのかは明白だった。コビーの保護を最優先と指示されていたヘルメッポは、コビーをシーツに包んでそっと横抱きに抱えた。そうしている間にも後方や至る所から戦闘の音が聞こえていたが、コビーが目を覚ます事は無かった。黒ひげ海賊団と海軍の戦闘は長く続き、重傷者こそ数え切れない程出たものの、死者はどうにか出す事なく海軍の勝利に終わり、幹部全員、そして「黒ひげ」マーシャル・D・ティーチをインペルダウンの最下層に収容する事が出来た。しかし、それでめでたしめでたし、とは、終わらなかった。

コビーが目を覚ましたのは戦いが終わった二日後だった。コビーはまず、今居る場所が海軍本部である事に戸惑っている様だった。ヘルメッポが状況を説明すると、コビーは何故か血の気のひいた顔をした。その違和感に首を傾げながらも、ヘルメッポはコビーの手をそっと握る。

「もう大丈夫だ、コビー」

「……がう」

「……コビー?」

コビーは真っ青な顔で、何度も首を振る。

「ち、ちがうんです、ちがう、……ちがうんです、ヘルメッポさん」

「違うって何が」

「あの人はなにも……ティーチはなにも、なにもしてないんです、ぼくにはなにも、ただ、ただいっしょにいてくれてただけなんです」

「お、おい、コビー?」

小さく震えながら、コビーは「ちがう」「ティーチは」「あのひとは」と繰り返していた。挙句の果てには「いかなきゃ」とベッドから降りようとした。恐らく数ヶ月間ずっとあのベッドの上で足枷に繋がれていたのだろうコビーに、リハビリも無しに今すぐ歩く事など出来る訳も無い。ヘルメッポは暴れるコビーを抑えて軍医を呼ぶ事になった。軍医は「ストックホルム症候群」との診断を下した。誘拐、監禁された被害者が自らの心を守る為に次第に加害者に信頼、好意を抱く様になる症状だと言っていた。コビーはぼろぼろと涙を流しながら何度も「ティーチに会わせてください」と言っていたが、会わせられる筈も無い。そんな精神状態であるから、コビーは一時的に海軍保護下での休暇を命じられた。幾日かして、コビーは黒ひげに会いたい、とは言わなくなっていた。代わりに、「会うのが駄目なのは分かりました。なら、手紙を出しちゃいけませんか」と、そう頼んで来た。けれどそれも駄目だと却下され、コビーは遂に何も言わなくなってしまった。

コビーは黒ひげに何もされていない、と言っていたが、発見時の状況から見て「何もされていない」なんて有り得ない。それに、黒ひげ自身が証言していたのだ。情報目的で拉致したは良いがどれだけ拷問しても何も吐かず、かと言って解放しては此方の不利益になる。だからあの部屋に繋いで、性欲処理の玩具にしていた、と。ストックホルム症候群であると診断された今、コビーが何を言っても「脳がそういう風に記憶を改竄したのだろう」としか思えなかった。──違和感は、確かにあったのだけれど。

ある日、コビーはヘルメッポにある本が読みたい、と頼んだ。コビーが黒ひげに関する事以外で何かをしたいと要求するのは初めての事で、回復の兆しが見えて来たのかもしれない、と思った。頼まれた本は分厚く大きい、シリーズ物の本だった。巻数は10。最終巻なのだそうだ。こんな本をコビーは読んでいただろうか、と首を傾げながら、ヘルメッポは本をコビーに渡した。彼が持つには些か重たそうに見えた。

「あと少しで読み終わる所だったんです」

愛おしそうに表紙を指で撫でながら、コビーはぽつりと言った。

「……そんな本、読んでたか?」

「いえ、ヘルメッポさんの前では読んでませんよ。毎日少しずつ、あの人の膝に座って、一緒に読んでたんです」

「あの人って」

言わなくても分かるでしょう、と目が言っている。

「意味が分からない単語は、あの人に聞いたりして。そうしたら、あの人はすぐに答えてくれたんです。キリの良い所で眠くなって、そうしたらあの人は色んな話をしてくれました。歴史の話が一番多かったかな、……それが子守唄みたいで、いつの間にか、寝ちゃうんです」

「……コビー」

「……ストックホルム症候群って言ったって、いくらなんでも、こんな風には、記憶の改竄なんてしないでしょう?」

コビーはそう言って首を少し傾げて、笑う。

「痛い事なんて、された記憶、ありません。何度も抱かれたけど、無理矢理された事なんて一度も無かった。分かってるんです。海軍として、あの人を許しちゃいけないって。でも」

そこで口を噤んで、コビーは俯いた。本の表紙を悲しそうに見つめながら。




「──と、そんな訳だ」

ヘルメッポがこれまでの経緯を話し終えても、黒ひげは無言だった。ただじっとヘルメッポを見つめている。大口を開けて笑っている姿しか知らなかったから少し不気味だったが、気にせずにヘルメッポは続ける。

「あいつを性欲処理の玩具にしてた、なんて嘘だろ。そう言えばコビーに不利益な事は無くなる、お前が完全なる加害者でコビーは被害者になる、って考えだろうけど。んな事言わなくてもお前は元から加害者だ」

「あァ、それもそうだなァ」

「……よく考えてみりゃ、違和感はあったんだよ」

コビーの体には、確かに傷は残っていた。ずっと着けられていた足枷が擦れた痛々しい痕、後孔の内部や内臓も少し傷付いていた。度重なる性行為によってそうなったのだとは分かる。しかし、それ以外の傷は、見当たらなかった。例えば、拷問を受けた跡も、殴られた跡も、蹴られた跡も、何も。治ったのだと言われればそれまでだが、それにしたって、数ヶ月も「性欲処理の玩具」にされていたにしては傷の少ない身体だった。当然、軽傷では無いのだけれども。

「コビーはずっとお前に会いたい、会えないならせめて手紙を出したいって言ってる」

「……」

「それが出来ないのは、お前がコビーに対して『暴行』した、って自分から言ってるからだ」

「……で。おれにどうしろって?」

「本当の事を言ってくれりゃそれで良い」

黒ひげは眉を顰める。本当の事を言って、それで──その先は?

「そうしたら、明日コビーをここに連れて来る」

「はァ? なんでだよ」

「コビーは直接お前に伝えたい事があるんだとよ。それが出来ずに別れたから参ってンだ。今のコビーが何言ってもストックホルム症候群のそれだって思われちまうからな。まぁ、半分は本当に『そう』なんだろうけど。

あいつはおれが思ってるよりずっと早く立ち直ってたし、前向いてる。踏ん切りが付いてないのは、黒ひげ、お前に伝えたい事を伝えられねェからなんだ」

「……」

「……本当の事を言えよ。あいつが踏ん切り付ける為にも」

コビーの為、という言葉に、黒ひげはぴくりと反応して。逡巡した末に口を開く。話された内容は、コビーから聞いた内容とまるっきり同じだった。




次の日。ヘルメッポはコビーと共に、また最下層を訪れていた。昨日と同様、特例中の特例である。コビーが黒ひげと直接会う事で何かあれば、黒ひげに関する記憶を全て消させる、との条件で、コビーはこうしてここに居る。一番奥の牢獄に、黒ひげは居る。コビーは深呼吸して、その前に座り込んだ。

「ティーチ」

名前を呼ぶその声は、ひどく優しい。鎖の擦れる音はしたが、返事は無かった。

「あなたの膝に乗って、あの本を読んでる時。あなたの子守唄みたいな声を聞いている時。あなたに触れられてる時、全部、暖かくて、満たされていました」

「……」

「その時に、それしか温もりが無かったからだとしても。その時僕が満たされていたのは、事実です。あなたに、抱かれている時も。あなたに愛されて、それが嬉しかったのも、本当の事で」

「……」

「海軍として、あなたを許しちゃいけないのも分かってるんです。それでも、あなたが僕を愛してくれていたのは、本当だから。それに応えたいのも、本当、だから」

「……」

黒ひげは何も言わない。コビーは目を伏せて、また、話を続ける。

「ティーチ。ずっと読んでいたあの本、実は読み終わったんです。時間、掛かっちゃいましたけど」

「……」

「それでですね。あの本、実は、続きがあったんです。続編が、あって。……それを、僕、読もうと思って」

「……」

「……続きがどんな話だったか、感想も、書いて。そういうカウンセリングとして、書くのは許してくれたみたいで。だから、あなたに手紙を送ります。直接話すのは、今日が最後ですけど……」

「……」

黒ひげは無言を貫いている。コビーはきゅっと唇を噛んで俯いて。けれど次に顔を上げた時には、晴れやかな顔をして立ち上がる。

「僕、あの時、確かに幸せでした」

「……」

「さようなら、ティ、……。──黒ひげ」

「──あァ。じゃあな、英雄」

最初で最後の黒ひげの返事は、心底楽しそうな、嬉しそうな、しあわせそうな、そんな声だった。




「大丈夫か?」

「うん。……ああ、でも」

「どうした」

「今更、ですけど。あの人を捕まえるのは、僕がよかったな」

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