精とすっぽん

精とすっぽん


斎藤硝太は心配性だ。

彼の雇い主であり、今では某週刊誌でもトップ層の漫画『東京ブレイド』の作者、鮫島アビ子に対してはその傾向がとても強くなる。

漫画家というのは基本座って仕事をし、外で走ることなどほとんどないということを知ってはいたが徹夜作業も多いのでそれなりの体力はあると硝太は思っていた。

しかし結果はかなり酷い。近くのスーパーまで買い物するだけでへとへと、ジムに連れていけば10分と経たずにギブアップ。漫画家というものを主に女性2人しか知らない硝太だったがそれでも予想を反した体力の無さに最初は絶句した。硝太も流石に高校生となり常識を学んだ。建物から建物に飛び移ったり、片手でマンションの壁を這い上がる、なんてことを出来る人間は割と少ない。なので最初からそのレベルをアビ子に期待していた訳では無い。ただ基本的な筋力と体力をつけて置かなければ生活習慣病のリスクが上がる。

アビ子にはできるだけ長い間漫画を描き続けて欲しい。彼女にとっては漫画はただの金稼ぎの手段では無い。自分を表現する場で自分の人生を書き留めたもの。硝太にとっての母親とも言えるものだ。その為にも身体は大切。その願いの元に斎藤硝太の鮫島アビ子改造計画が音も立てずに始まった。

筋肉をつけるのならやはり肉だ。肉食って動いて寝れば普通に生きられるだけの筋力は手に入る。幸か不幸か斎藤硝太が家政夫をした結果鮫島アビ子の口にするものを全て把握するどころか全部作るというラ〇ザップのトレーナーも超える管理体制が自然と出来上がっている。なので筋力をつけるためのメニューをつけることも可能だ。

ということでとりあえず少し遠くのスーパーまでひとっ走りして、買い物かご片手に周りを見ていると珍しいものが目に入ってきた。


「すっぽんか」


すっぽんはカメの一種で、平べったいフォルムと長い首が特徴的な生き物。古くから滋養強壮や精力増強に役立つとされている。カロリーが低く、タンパク質、ビタミンB1、B2が非常に多い。コラーゲンも豊富なので女性の肌にも非常に良い効果を見込める。


「すっぽん...日本酒...鍋」


アビ子の為に料理を習得した硝太にはすっぽんの料理経験などあるはずもない。

サプリメントならともかく、高級食材であるすっぽんの扱いなど硝太は常識的な範囲...とアビ子と同じ漫画家であり、同じく実質的に胃を握っている吉祥寺頼子に血を使った日本酒の存在を聞いたためその二つだけは知っている。しかし知っているだけで料理としてできるかと言われると話は別だ。高級食材なだけあり、失敗は許されない。


───が、興味はある。

硝太自身、別に料理人という訳では無いがそれなりの経験は積んできたつもりではある。行ったことがなくてもやってみたい、という興味に惹かれていく。下処理はしており、時間もそこまでかけずに済みそうだ。

とはいえ、安い代わりに量が多い。今日はアシスタントの人も夜には帰ってしまうのでアビ子先生一人でお夕飯を食べることになってしまう。これだけの高級食材を食べてくれそうで、アビ子先生と関わりがあり、硝太も変な気を回さなくて済む女性。

そんなの硝太が知っている中では一人しかいない。すぐさまスマホで吉祥寺頼子先生に電話を始める。


「もしもし頼子さん。今日の夜空いてますか?」

『え!?空いて、いるけど...何かあったの?』


ド直球な言い方しかできない硝太に吉祥寺の声はかなり慌てている。吉祥寺頼子は独身一人暮らし。時間帯からして予定さえ組んでなければ空いているだろうという見込みで電話をした硝太だが、傍から見ればただの愛瀬の誘いにしか見えない。


「もしよろしければ今晩アビ子先生を交えて食事を、と」

『あ、ああ。そう。なら、私も行こうかしら』

「お待ちしております」


本来なら一応家主であるアビ子に声をかけるべきなのだが、最早あの家はアビ子が買っただけで実権は硝太が握っている。家事はもちろん、家計簿、管理全て硝太が行ったせいなのだが、このことは一応誰にも伝えていない。仮に不服だとしてもアビ子も恩義のある吉祥寺の誘いを断られない。

ならば問題は無いだろうというのが硝太の考えだ。雑に扱われるアビ子も最近は雑に扱われることに快感を覚えるという謎の進化をしたので実際問題は無い。


問題があるとすればその後買ったすっぽんとその単語から女性二人が想像する行為にある。


◇◇◇

吉祥寺先生が鮫島宅につき、急に来たことに驚きながらもすぐにもてなし始めるアビ子先生を横目に硝太は完成したすっぽん鍋を出す


「はい、今夜はすっぽん鍋です」

「すっぽん...!?」


一人暮らしだと出番があるとは思えない大きな土鍋に入ったすっぽんと白菜や白ネギ等の野菜。

何が出るのかという表情をしていた吉祥寺もなれないもてなしに慌ててたアビ子も鳩が豆鉄砲を食らったような表情で土鍋を覗き込む。


「滋養強壮と体力をつけるのにいいので買っちゃいました!お二人には体力と精力が必要なので!」


すっぽんに驚く二人に硝太が笑顔で言った一言が場の空気を支配した。



アビ子も吉祥寺もすっぽんの主な効果は知っている。滋養強壮に精力増強。そう──精力増強。斎藤硝太は幼い顔立ちで台所に立って料理をしているが未だに彼は高校生。男子高校生が精力増強で有名なすっぽんを料理として二人の女性に振る舞う。


「こ、ここここれは《《そういう》》こと、ですか?」

「ん?ああ。そうかもしれませんね?お二人には頑張って貰いたいので」


一気に完熟したトマトのような真っ赤な顔に変わったアビ子が顔を上げる。普段の斎藤硝太なら相手の気持ちを理解して言葉を選んでくる。それを知っているアビ子なら『そういうこと』の意味を理解している、理解してくれると思ったのだろう。吉祥寺も硝太が嘘をつけない、隠し事も下手な青年であると理解している。つまりこの場において硝太の言葉こそ彼の気持ちなのだと考えた。

だが、残念ながらこの普段は他人の気持ちに敏感な男子高生は『そういうこと』においては無類の阿呆、所謂クソボケだ。『そういうこと』はちゃんと説明してもらわないと気付くことが出来ない。

だから硝太はアビ子の『そういうこと』を漫画を書くこと、体力をつけることだと解釈した。硝太にとってそれが二人の最初に考えること、一番本気になれることなのだからそれも当然の帰結と言える。


つまり、この瞬間アビ子と吉祥寺の振る舞われる側と硝太の振る舞う側で大きな情報の差異が発生したことになる。


そんなことを知る由もないアビ子は鍋から中身に息を吹いて冷ましながらよそっている硝太を見ながら一人で考えを巡らせる。

硝太は一般的に男性が人生で最も性欲を強く持つ男子高校生。硝太の体力は毎日実家と鮫島家、吉祥寺家で家事をしながら学校生活を送って疲れを一切見せない程。精力もそれ相応に高いとみて間違いない。それこそ同時に二人の女性を押し倒して抱き潰しても平然としていられるということも。


──抱かれる。

それが今の日本を代表する漫画家、鮫島アビ子の出した結論。少々残念にも受け取られるかもしれないが土鍋の熱に犯された身体が硝太の身体を渇望し始める。


心を無理やり落ち着かせながら隣で慌てながらもすっぽんを受け取る吉祥寺を見る。吉祥寺もアビ子と同じことを考えているようで惚けた顔ですっぽんを眺め、口に運ぶ。アビ子と違いわかりやすい動揺こそしていないがその顔は鍋の熱気にやられたとは思えないほどに赤い。

この中で一番人生経験の多い吉祥寺も男子高校生の性欲の前では生娘同然。

その上吉祥寺はアビ子すら知らない、硝太の特大の秘密を抱えている。まだ家政夫に慣れていないころ、シャワーを借りた硝太にシャワーの説明をしようとした吉祥寺がみてしまった硝太の全裸。とある事件でつけられた一生モノの傷と共に女性に見られたからか、たまたまだったかは最早誰にも分からないが最大とは行かないまでも相当勃起した魔羅を吉祥寺はその目で確かに見た。

あれに加えて相当の精力さえあれば二、三人の女性の相手を行うことなんて別に難しいことでは無い。


だが、頭の中ピンクで支配されている大人の女性2人は大切なことを見逃している。

確かに硝太は常軌を逸脱した体力と精力を持っている。何日連続で働こうとも一度もバテること無い無限の体力、後にその世界線での嫁と24時間連続で交合うことになってもずっと固く反り返りながら一度も疲れを見せつけずやり抜いた無限の精力。仮に演技力があったのならAV業界なら喉から手が出る程、なんなら人攫いをしてでも欲しい最強の人材、それが斎藤硝太である。しかし彼は精力こそ高いが性欲が強いかと言うとそれはまた別の話。少なくとも硝太は2人に対して性的な感情を持ち合わせてはいない。


つまりその意味でも振る舞われる側と振る舞う側での認識に大きな差が出てくる。


「どうです?」

「お、美味しいです」

「それは良かった。僕は次の準備(明日の朝の仕込みという意味)をするので」

「──次(今晩女性を抱くという意味)の準備──」


硝太の何気ない言葉に二人の表情は一変する。

そんな二人の状態変化に気付かない硝太が別の部屋まで行くと吉祥寺が耐えきれなくなったのかポツリと呟いた。


「いや、私準備なんてしてないんだけど」

「わ、私も、です」


満更でも無い様子とはいえ準備があるのは男だけじゃないとでも言いたげな顔をしている。残念ながら1人で収めるのも限界があり、彼氏や旦那がいないとどうしても欲求不満になる。何も知らない相手なら絶対に嫌だが目にかけていた最近気になる若い男の子相手となれば貞操観念が高い吉祥寺でも簡単に揺らぐ。

硝太に身も心も掴まれているアビ子の場合はもっと酷い。口では吉祥寺の言葉に頷きながらも感動のあまり涙が溢れている。


「いや、まさか硝太君だってその辺理解してるよ、ね?」

「あの子はそういうところ気づける子ですから...」


実際は気付いていないのだが、自分たちで自分たちの逃げ場を無くしながら2人は食事を進める。


「あれ?もう無くなってる。早いな」


その結果明日の仕込みを終えた硝太の目の前にあったのは空っぽの土鍋と身体が火照っており、所謂出来上がった状態の二人だった。


──二人の身体が火照っているな。鍋は季節的に早すぎたか?にしても二人とも、興奮しているように見えるけど、何かあったのか?


とズレた考察をしながら硝太は食器を手早く食洗機に突っ込み土鍋を洗って洗い物をすぐに済ませた。


「では、僕は帰りますね。頼子さん、送りますよ」

「───は?」


そして──さも当然のように帰り支度を済ませた。実際硝太からすれば仕事はもう終わったので帰り支度をするのは何も不思議なことでは無い。

ただ食事中、片付け中と焦らされ続けた彼女達からすれば何かの隠語かと思いたい程ズレた言葉だった。



「え?あ、ああいや!大丈夫!大丈夫!私タクシー予約しといたから!お疲れ!美味しかったよ!ありがと!」


硝太に言われて瞬時にこのアンジャッシュ状態を察した吉祥寺が取り繕うように硝太の申し出を断る。これだけ興奮した状態で送られたりなんてしたらそのままお持ち帰りせざるおえない。

仲のいい友人で密かな想いを持ってる相手ががストーカー被害に遭われた経験のある硝太からすればタクシーというのはギリギリの落とし所。疑問に思いながらも玄関へと足を動かす。


「ん?はい、失礼しました。アビ子先生、お風呂洗ってお湯入れておいたのでちゃんと身体を洗って、身体温めて、湯冷めする前に寝なきゃダメですよ?」


お疲れ様です、と最後に付け加えると硝太は鮫島宅を出て夜の街へと帰っていった。


場に残るのは犯されるということを期待していた分事態が呑み込めていないアビ子と肩を落とす吉祥寺。


「───なんで?」


小さい欲求不満の声がその場に居残った。

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