第四幕〜となりまち〜その⑤

第四幕〜となりまち〜その⑤


ーー体が痛い。

骨から響くような痛みが、足からズキズキと全身に広がっていく。苦しくて身を捩ると痛みは更に酷くなった。

痛い。痛い。痛い。痛い。

鼓動と共に響く痛みは吐き気まで連れてきて、喉の奥を締め付ける。

「うっ……」

耐えきれずにえずいた声にも掠れてひゅーひゅーと喘鳴が伴っていた。

ああ、この痛みには覚えがある。少し前までローの隣に在ったものだ。油断するといつでも襲いかかってきてあの人を心配させてしまっていた。

ーーー?

何を言っているのだろう。まるでこの痛みが過去のもののような言い方だ。珀鉛病が治るわけがないのに。コラさんはオペオペの実があれば治せると言っていたが、あの赤い果実にそんな力があるなんて到底信じられなかった。

今でも不思議に思っている。普通の手術では考えられない方法で珀鉛を摘出したが、その後も本当に除去できたのかと何度も確かめたくらいだ。

…あれ?なんでオペオペの実の能力なんて分かったんだ?見たこともないはずなのに…。それに珀鉛病が治っただって?なら、今おれを苦しめているこの痛みはなんだというんだ。

……ダメだ、考えが纏まらない。意識が朦朧としている。まるで脳みそをぐちゃぐちゃにかき回されているような感覚にまた嘔吐感が増していく。

「……ぅ……」

息苦しい。水の中みたいだ。はくはくと口を開けても酸素が上手く肺に運ばれてくれない。苦しい。痛い。痛い。痛い。

あまりの苦痛に喉を掻きむしろうと手を伸ばした時だった。

ーー誰かの手が背中をさすって、優しく撫でてくれている。

それは温かくて大きな掌だった。ああ、コラさんだろうか。そうだ、彼は心配そうに覗き込みながら発作に苦しむおれの背をさすってくれていた。

その温かい手にどれだけ救われたことだろう。

コラさんがいてくれたから、あの痛みも耐えられたんだ。あんたがおれに、生きて欲しいと願ってくれたから、終わりの見えない苦しみの中でも投げ出さないで生きようと思えたんだ。

……だから、今度は、おれが、コラさんを助けなきゃいけなかったのに。

「………なさい、……さん」

ああ、苦しい。苦しい。痛い。この痛みがおれの弱い所に刃を突き立ててくる。

痛い。痛い。心細い。ラミもこれを感じていたのだろうか。だとしたら、おれはどれだけ罪深いのだろう。暗く狭いクローゼットの中で、妹はこの苦しみを抱えたまま業火に焼かれてしまった。おれの言葉を信じて待っていてくれたのに、おれは間に合わなくて、死なせてしまった……

ごめんな、ごめんな、ラミ。ダメなお兄様でごめんな。

「大丈夫、大丈夫だよ。ロー」

温かい手が背をゆっくりとさする。苦しみに怯え泣くおれを宥めるように、静かに。静かに。

手を握られた。とても温かかった。記憶にあるものより小さい気がするが、おれが大きくなってきたからだろう。その手がこの痛みを、苦しみを吸い取ってくれるような気がして、いつしか身を委ねていた。


***


ローがヴォルフに拾われて三年が経過した。

この三年の間に指にタトゥーを入れた。指一本一本に彫った文字は『DEATH』。死を意味する言葉だが、医者としていつでも「死」を感じていられるようにという意味で選んだ。

人を生かすために。大切な人を生かすために。自分が色んな人の「死」に近い場所にいるということを覚えておきたかった。

入れる時は針がチクチクとして少し痛かったが、珀鉛病の発作や地獄のような成長痛と比べたら全然マシだった。

入れたタトゥーを子分達に自慢すると彼らは素直に「カッケー!」と褒めてくれて少し気分が良かった。しかしベポが「おれも入れてみようかな〜」と言うのには全員で反対しておいた。お前にはまだ早いし、そのふわふわな毛が損なわれることになったら大問題だ。おれは絶対認めてやらねぇからな。


地獄のような成長痛を経て、ローの身長は190cm近くまで一気に伸びた。声変わりも終わって声も低くなったし喉仏も出た。自分の声を聴きながら、この声は父様と似ているのだろうかとぼんやり思ったりもした。

家族の声も顔もまだはっきりと思い出せる。それは度々故郷の夢を見ているお陰なのだろう。幸せな夢を見るとこもあれば、あの滅びの日の悪夢を見ることもあった。どちらの夢もローの胸を締め付け、苦痛を刻み込んでくるが、それでもローは良かった。どんなに辛い夢でも彼らを思い出せるなら耐えられた。

故郷から持ち出せたのは9歳の誕生日に貰ったこの帽子だけだ。後は形見も、写真も何もこの手に残らなかった。

だから忘れたくなかった。

痛みが伴うことになろうとも、あの日々を、彼らを忘れたくない。


診療所では先生の助手として働いていたが、ヴォルフを治した実績から手術を任されることも多くなり、今では風邪のような軽いものから肺や心臓など難しい手術も出来るようになった。

「ローくんはきっと良い医者になれるよ」

先生に言われた時、どんな反応をしたらいいのか分からず曖昧な返事しか出来なかった。

良い医者とはなんだろう。

『おれ、父様や母様みたいな立派な医者になるんだ!!』

幼い頃の誓いが脳裏を過ぎる。

あの宣言の通り、今の自分は立派な医者になれたのだろうか。あまり実感は湧かない。

良い医者とは、立派な医者とはなんだろう。手術の腕が良いことだろうか。金を沢山稼げることだろうか。多くの知識と技術を持つことだろうか。患者を救えることだろうか。

まだ答えは分からない。きっとその答えはこれからローが見つけていくしかないのだ。

「大丈夫。君ならきっとその答えも見つけられるさ。…君は良い医者になれるよ」

再び先生が繰り返した。

「ローくんはとても良い医者から医学を教わったんだね。君の知識と技術がそれを証明している」

まるで両親が褒められたような気分になってローは込み上げる喜びを噛み締めた。この手を通して父と母の意志や技術を受け継いでいけているのだと思うととても誇らしかった。

「……はい、ありがとうございます」

噛み締めるようにはにかんだローの、願いが刻まれた手を握って、先生は眼鏡の奥で目尻のシワを深くした。


***


夢を見た。故郷の夢だ。懐かしい夢。胸を抉る夢。

悲鳴が聴こえる。石畳を打つ硬いブーツの音が重なる。銃を構える音。銃声。悲鳴。命乞いの叫び。断末魔。『駆除』の言葉。

真っ白な町が真っ赤に染まっていく。純白を穢すドス黒い赤、紅、赫。

逃げ惑う人々。翻り鈍い光を弾く剣。

血飛沫があがる。涙と血が石畳を濡らす。知らない人々が、どんどん殺されて、死に絶えて、その中を縦横無尽に飛び回る、悪魔。その指先から放たれる操り糸。悪魔が耳まで裂けた口を大きく開けた。

景色が重なってズレて見えた。知らない人が見知った人へ置き換わる。彼らを襲う銃弾の嵐。迫り来る足音。足元に転がる、血と火に炙られた死体たち。

間に合わない。間に合わない。助けに行かないと行けないのに、いくつもこの手から滑り落ちて散っていく。

父様。母様。シスター。みんな。

ラミ。

手を伸ばした先に燃え上がる病院があった。父様と母様と、妹が、その中で灼熱の炎に焚べられて金切り声で叫んでいる。家族が、みんなが、おれを責め立ててくる。待ってくれ。今行くから、おれが助けに行くから。

ああ、ああ、ああ。

何があっても守ると、誓ったのに。

ーー。

ーーー。

ーーーーーーーーー。


「っ!!」

ガバリと飛び起きた。全身汗でびしょ濡れだ。心臓がバクバク言っている。額に手を当てると指先が震えていた。

「…ローさん大丈夫?」

隣で寝ていたベポが起き上がって覗き込んできた。それに大丈夫と返し、ローはしばし深呼吸をして息を整えていた。

最近悪夢が続いている。しかしその原因は分かっていた。

《ドレスローザに新たなる王が誕生!!ーーその名はドフラミンゴ!!》

その一文を目にしただけで眩暈がした。

《ドレスローザは「平和を象徴」する国だったが先日、王が乱心し国民を虐殺した。それを海賊ドンキホーテ・ドフラミンゴが止め、新しい王として君臨した結果、今は落ち着きを取り戻している……》

すべての点が線として繋がったような感覚がした。ドフラミンゴはこれを狙っていたのだ。そしてコラさんの本当の望みをようやく理解することが出来た。

コラさんは、これを止めるためにおれに文書を託したんだ。でもおれは、それをあろうことかファミリーのヴェルゴに渡し、奴とコラさんを引き合わせてしまった。そのせいでコラさんがスパイだとバレて、文書は闇に葬られてしまった。そして、コラさんはおれを逃がすために殺された。

おれのせいでコラさんは死んだようなものだ。おれが、コラさんを殺したんだ。

ドレスローザも、おれが本物の海兵に文書を渡せていれば、悲劇を防げたかもしれない。あの時たかが自分一人の恐ろしさに怯えないで最初の集団に渡せていれば、こんなことにはならなかったんだ。

おれが全部悪いんだ。おれのせいで、おれが、おれが、おれが……。

罪の重さに押し潰されそうだった。この記事を読んでから毎夜悪夢を見た。自分の行いによって遠い国の人々が悪魔に蹂躙される夢。泣き叫ぶ知らない人々がいつしか故郷のみんなに変わり、滅びの日の焼き増しを繰り返す。いつしかみんなの悲鳴はローへの糾弾になり、のうのうと生き延びたローを突き刺す刃となっていた。

でも、ごめん。おれは死ねないんだ。コラさんから命を貰ったから、あの人の願いがあるから闇雲にこの命を散らすような真似だけは絶対にしてやれない。

『もう放っといてやれ!!あいつは、自由だ!!!』

コラさんの最期の叫びが鼓膜を揺らす。彼はおれを様々なしがらみから解放してくれた。おれに自由になれと願ってくれた。

しかし、素直にそれを聞き入れることが出来ない。ヴォルフがいて、ベポとペンギンとシャチと5人で仲良く幸せに暮らしていくことも出来る。きっとコラさんはこんな風に生きていくことこそを望んでいるのかもしれない。けれど、それじゃ申し訳が立たない。

彼の本懐を知った今、彼が守ろうとしたものにおれは責任を負っているはずだ。責任は果たさなければならない。彼の本懐を遂げなければ、おれに自由になる資格はないんじゃないのか。

「ローさん、あったかいお茶持ってきたよ。じいさんが栽培してるハーブで淹れたんだ。心を落ち着かせる効果があるんだって」

「……ありがとな、ベポ」

ベポから湯気の立つカップを受け取り、口に含むと鼻腔に優しい香りが広がる。喉を通ると身体の芯まで温まり、ささくれ立っていた心が落ち着くようだった。

「少し落ち着いた?」

「ああ」

「最近うなされてること多いね。……おれ達に何かできることない?」

「……大丈夫、少し夢見が悪いだけだ」

「…、話したくないこと?」

「…。ああ、今はまだ心の整理がついてねぇんだ。悪いな」

「ううん、いいよ。言いたくなったらいつでも話してね」

微笑むベポの頭をひと撫でして再び布団に潜り込んだ。

「なぁベポ。お前はやりたいことってあるか?」

「え?どうしたの急に……」

「いや、ちょっと聞いてみたくなっただけだ」

「そうだなぁ……あ、釣りに行きたいかな。もう流氷も溶けてる頃だしでっかい魚を釣って焼き魚にして食べるんだ〜」

「そうじゃねぇよ。おれも焼き魚は食いてぇが、そうじゃなくてだな。……本気でやりてぇことってのはあるか?」

ローの口調が真剣なものだと感じ取ったのか、ベポはしばらく「う〜ん」と唸って考え込んでから口を開いた。

「……やっぱり兄ちゃんに会いたいかな」

「イケメンの兄貴にか?」

ベポの兄ゼポはミンク族の言葉で「イケメン」だと前に話していた記憶があった。

「うん。ここでの暮らしはすっごく楽しいんだけど、時々兄ちゃんのこと思い出すんだ。腹空かせてないかなとか、酷い目に遭ってないかなとか。

航海術の勉強は続けてるしヘタクソだけど海図も描けるようになってきた。だから、いつかは兄ちゃんを迎えに行きたいって思ってるんだ」

「そうか」

ベポの返答にローはそっと目を伏せた。

「妙なこと聞いて悪かったな。…もう寝ようぜ」

「うん、おやすみ」

ごろりと背を向けてすぐに聞こえてきたベポの寝息を聞きながら、ローはぼんやりと考えていた。

いつか、か。

ベポには明確な目的があって、そのためにずっと努力している。なら、おれはどうなんだ。おれの目的はなんだ。

このままただ漠然と生き続けているだけなのはダメだと分かっている。

けれど、どうすれば良いのか分からない。

いつかはドレスローザに行かなければならないだろうと思うようになった。

しかし行った先で果たしておれに何が出来るだろうか。何をしたらいいのだろうか。

コラさんから命を、心を、愛を貰って、それでおれは何を返せばいいのだろう。

「コラさんの愛に報いるために、おれに何が出来るんだろう…」

答えは返らない。

………。やめよう。頭がごちゃごちゃしてきた。思考を放棄して布団を被る。

いつかと思うだけではその時は永遠に訪れない気がする。けれど、おれには守りたい生活がある。陽だまりのような日々を手放して失ってしまうことが怖かった。もう大事なものを失いたくなかった。

守りたい。失いたくない。でも、責任がある。恩に報いたい。二つの心がせめぎ合って、板挟みになる。

ローはそんな葛藤を抱えながら目を閉じた。


ベポが淹れてくれた茶のお陰か、翌朝は悪夢も見ることなくスッキリと目覚めることが出来た。

食卓へ向かうとベポを始め、みんなから口々に心配の言葉をかけられて少し申し訳ないと思った。

食卓で他愛もない会話をしながら朝食を待つ。ヴォルフの家では朝食と夕食は必ず全員揃ってから食べるというルールがある。この三年間ほぼ欠かしたことのないルールだ。

今日の食事担当はシャチだ。メニューは甘辛く煮付けた白身魚。それを白米に乗せてかき込むと幸せな気分になる。

シャチとペンギンは才能があったのか、メキメキと料理の腕を上げていった。いつまで経っても上達しないローにとってはありがたい限りだ。ローが作った料理を食べて「シャチ達の方が美味い…」とベポに呟かれるのは結構堪える。ベポは……まあ、うん。

「ローさんローさん!今日のどうっすか?」

「ああ、美味ぇよ。流石だな」

「よっしゃ!」

嬉しそうな顔でガッツポーズをするシャチ。それをちょっとペンギンが揶揄って言い返したりベポが参戦して途端に騒がしくなる食卓。合いの手のようにヴォルフの怒号が飛ぶが、それもいつも通りの風景だ。楽しげな友人達を眺めていると、やっぱりこの生活を失いたくない、守りたいという思いが強くなった。


「お疲れ様でした」

「お疲れ様。いつもありがとうね、ローくん」

今日の診療所の勤務が終わって、先生に挨拶をして帰る。いつもの集合場所に向かう途中、すれ違う町の人たちに声をかけられ、それに「こんにちは」と返しながら歩いていく。

もしも。珀鉛病が治る病気だったら。珀鉛が存在していなかったら。今頃ローはフレバンスで家族四人で仲睦まじく暮らしていたのだろうか。両親と一緒に病院で働いていたのだろうか。立派な医者になっているのだろうか。

それは、なんて幸せな光景だろう。しかしどうやっても叶わない夢物語だ。

そんな眩しい「if」を思い描きながら歩いていると、何やら辺りの様子がおかしいことに気付いて足を止めた。

離れた場所から何人もの人が逃げるように走ってくる。

尋常な雰囲気じゃない。遠くで「海賊だ!!」と叫ぶ声が聞こえてローの呼吸が止まった。


巣立ちの時はもうそこまで迫っていた。


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