第四幕〜となりまち〜その③
「おはようございます」
今日も診療所に出勤し、ロッカーで白衣に着替えて先生に挨拶をする。
最近追加されたローの日課だ。
このプレジャータウンには診療所が一つしかなく、医者と看護師が一人ずつというこじんまりとした施設だった。
患者は島民だけとはいえ一年の殆どが雪で覆われた極寒の地であるので、こんな言い方をするのもアレだがそれなりに繁盛している。
新米のローからしてみれば多くの経験を学べる場で正直ありがたいことではあるが。
「足が赤く腫れ上がって痛みが出るようならまた受診してください」
「おう!ありがとよロー!」
釣り場で足を滑らせた漁師の腓腹部裂傷の処置を終え、元気に手を振る漁師を見送ってひと息ついたローはここまでの経緯を回想していた。
***
ペンギンとシャチが共同生活に加わってから2ヶ月程が経過した頃。シャチの方は一週間もしないうちに固形物まで食べれるようになり、抜糸後も癒着や感染もなく経過良好ということで元気に走り回っている。
ペンギンの方は橈骨と尺骨の近位部付近の切断だったので骨が完全に接合するまでもう少しかかるかと思われたが、成長期なこともあってか2ヶ月経つ頃には痛みもほぼ無くなっていた。
リハビリの一環として箸で食べれるような料理が食卓に並ぶようになり、そのお陰かヴォルフ家の朝食はご飯がメインとなっている。正直ありがたい。パンはあの光景を思い出して気分が悪くなってしまうので避けていたのだ。
そんなローに気付いたかは知らないが、ヴォルフはパンを食べないローに対してとやかく言うことはなかった。
そんなこんなでペンギン達の状態がほぼ完治に近付いた頃、ヴォルフは四人に働き口を探すため町に行くと告げてきた。
言われた時、正直不安だった。ロー達はそれぞれが大人を、更に言えば人を信じることに怯えてしまっている。
町の人達は果たして自分達を受け入れてくれるのだろうかと不安を抱えながらヴォルフの運転するバギーが町に到着した時。
(その不安は全くの杞憂に終わったんだよな)
怯えていた頃の自分に言い聞かせてやりたいと思ったくらい、町の住民はロー達を暖かく迎えてくれた。ベポに至ってはかわいいかわいいとおばちゃん達に撫でられまくった程だ。
振り返ってニイっと口角を上げたヴォルフはいたずらが成功した子供のような顔をしていた。なんとも子憎らしい。
町の駐在のラッドという男に働く許可を貰い、希望の職場一つ一つにヴォルフが丁寧に説得してくれたお陰でロー達の働き口はすんなり決定した。
ローは町の診療所、ベポは力を活かした工事現場で。ペンギンはレストランのウェイター、シャチは美容院の雑用。
みんながみんなの適正に合った、要望通りの仕事だ。
四人で新しい仕事への期待に胸を膨らませていると、最後に寄る場所があるとヴォルフが言い出した。その表情があまりに険しいものだから、一体どこへ行くのかと不安になったローだったが、到着したその場所では。
(あの時のじいさん、カッコ良かったな…。絶対言ってやらねぇけど)
守るように立ち塞がったヴォルフの背中を思い出す。ローはその大きな背中に両親と、コラさんの姿を重ねていた。
大人というものはあのような頼もしい背中をするのだろうか。そして、いつかローも彼らと同じように頼もしい背中を見せる日が来るのだろうか。
まだ先のことは分からない。
それに…まだ考えるのは早いと、ローは目を逸らすのだった。
***
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様。今日もありがとうね、ローくん」
陽が傾く少し前に白衣を脱ぎ、先生に挨拶をして一日の仕事が終わる。
その後は町の中を少しぶらついてみたり、たまに仕事が早く終われば他の三人の仕事場に行ってちょっと冷やかしてみたり。
その日もいつものように先生に挨拶をしてから仕事を上がって、町の入り口に向かうとベポ達三人が自転車に跨って手を振っていた。
「おれ達早く上がったからせっかくだしローさんを待とうと思って!」
「一緒に帰ろうぜ!」
「あのねあのねローさん! おれ今日大活躍だったんだよー!」
騒がしくも可愛い子分達に笑みが零れる。今こうして笑って過ごせる日々を与えてくれた彼等に心の中で感謝しつつ、ローはペダルを踏み込んだ。
この電動自転車(ヴォルフ曰く『スーパー彗星号』だが名前がダサいのですぐさま却下した)は彼の発明品の一つで、凍った場所や雪の降り積る道もものともしない優れものだ。
なんでも深く積もった場所でも進めるような仕掛けを施してあると聞いたが、ガラクタ屋の発明品なので起動スイッチは触らないようにしている。リスクマネジメントは医療の基本だからな。爆発しちまって脚が吹っ飛んだとかシャレにならねぇし。
雪解けの道を颯爽と駆け抜ける影が四つ。耳元でびゅうびゅう唸る冷気を伴う風は、汗ばむ首筋を心地よく撫でてゆく。
「今日の夕飯なんだろな!」
「肉がいいなぁ! 魚も好きだけど!」
「この前のワニ肉美味かったなぁ〜」
「お前ら今度は枚数で喧嘩するんじゃねぇぞ、怒られるのはおれなんだから」
「「「はぁ〜い」」」
わいわいと楽しく喋りながらロー達は自転車を走らせて、片道一時間の帰路をあっという間に走り終えていた。
「ガラクタ屋ー、帰ったぞー」
本日の夕飯のメニューを予想しながら自転車を停め、玄関を開くも普段ならすぐ返ってくる返事が聞こえてこないため四人は顔を見合わせた。
「あれ? いないのかな?」
「発明に夢中になってんじゃねぇの」
「もうすぐ夕飯なのにな」
「先に準備しとく?」
そんなやりとりの中、ふとペンギンが「あれなんだ?」と指差す先に視線を向けると、畑の方からもうもうと立ち昇る黒煙が目に入った。
「まさか…」
「っ、行くぞお前ら!!」
嫌な予感にロー達は急いで畑に向かって走り出した。
畑に着き、ビニールハウスの扉を開けると同時にモクモクと上がる黒い煙がロー達の視界を覆う。
「げほっ、ごほ、ローさんこれって!?」
「ガラクタ屋ァ!! 返事しろ!! 聞こえるか!!」
「ゲホッ、え、火事!? ど、どうしようペンギン!」
「落ち着けベポ! とりあえず換気だ!!」
「お、おう!」
ペンギンの指示にベポが慌てながら窓を開けていく中、ローはヴォルフの姿を必死に探す。
(どこだ、どこにいるんだじいさん!)
そうしてようやく見つけたのは。
「じいさん!!!」
未だに黒煙が昇る小型飛行機の傍で血塗れになって倒れているヴォルフの姿だった。駆け寄ってその惨状にローの喉が鳴る。
ひと目で、重症と判る有様だった。腹部に破片が突き刺さり、至る所から赤黒い血液が溢れている。
意識なし、頻呼吸、脈拍は橈骨動脈で触知不可、頸動脈で触知可能だがひどく速い。
……不味い、出血が多すぎる。
このままでは出血性ショックで命を落としかねない。一刻の猶予もないのは明白だった。
「ローさん!! 早くじいさんを病院に…!」
「ダメだ間に合わねぇ!!……おれがオペする!! じいさんはおれが運ぶからお前らは手術の準備を!!」
「了解!!」
「おれは火を消してくる!!」
ヴォルフを担いだローが家に到着した時にはリビングに手術道具が並べられていた。
「ローさん! 消毒はすませてる!!」
ヴォルフを手術台代わりのテーブルに寝かせ、マスク代わりに布で口元を覆って手袋を嵌める。
「シャチ! 輸血が必要だ! お前の血を貰うぞ!!」
「分かった!! 使ってくれローさん!!」
差し出された腕に針を突き刺してギリギリまで血を抜き、輸血用パックに注入していく。消火を終えて帰ってきたペンギンからも血を貰って集めた血液をヴォルフの腕に輸血する。
しかし輸血しても流れ出る血が多すぎる。傷口を塞がなければ意味が無い。
「う…」
その時呻き声が聞こえてきて目を向けると薄らと目を開いたヴォルフがローを見ていた。
「そこにおるのは…ローか…」
「じいさん! 喋るな、静かにしてろ」
「どうやら、しくじった、ようじゃな…お前らに、…飛行機を、作ろうと、思っとったのだが…」
「いいから喋るな! 後で訊くから!」
怒鳴るローに小さく笑い声漏らすヴォルフ。朦朧と意識を揺らす彼に向き直った。
傷口を確認する。…ダメだ出血が多すぎてどこから出血しているか特定できない。量から見て内臓は確実に損傷しているし、恐らく複数箇所から出血している。手術をするならこれらを同時に治療しなければ間に合わないだろう。
しかし出来るのだろうか?
今回はペンギンとシャチの治療をした時とは比べものにならない程高度な技術と分析力が求められる手術になる。オペオペの能力を使ってもそこまで出来るか分からない。
「はっ…はっ…、ハッ…」
自らの呼吸が頭の中で大きく響く。逆に周囲の音はどんどん遠ざかっていき、見える景色もぐにゃりと歪み出した。
怖い。
もし手を尽くしても間に合わなかったら?
もし手術が成功しなかったら?
ヴォルフを、おれに手を差し伸べてくれた恩人をまた、喪うことになってしまったら?
奥歯がカチカチと鳴る。手が震える。脚の感覚が無くなっていく。
怖い。怖い、こわい。
どうしよう、このままじゃ…!
「ローさん…」
左腕を掴まれる感覚にはっとして顔を上げるとペンギンとシャチ、ベポが泣きそうな顔でローを見つめていた。
「ごめんローさん。おれ達、なにもできねぇけど…ローさんに託すことしか、できねぇけど…、
でも、ローさん!! 頼むよ…! おれ達はローさんを信じてる…!!
じいさんはおれ達に居場所をくれた人なんだ…っ、だから、お願いします、助けてやってくれよぉ…!!」
三人とも涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
しかしローを見つめるその目のどこにも諦めの色は見えなかった。その真っ直ぐで、重いくらいの信頼が、ローの臆病な心の横っ面を殴り飛ばして霧散させてくれた。
…そうか。お前達はおれを信じてくれるのか。
ーーならば、その期待に応えなきゃだな。子分の期待に応えるのも親分の務めだ。
(それに、おれにとってもじいさんは居場所をくれた恩人なんだ。……おれがこの手で助けてみせる!!)
覚悟を決めたローはベポ達に振り返って不適に笑ってみせた。
「ありがとなお前ら。もう大丈夫だ、離れてろ。ーーおれに任せろ」
「うん……!」
三人の手の感触が離れていく。ローは目を閉じ、深く息を吸って、吐くとカッと開いて能力発動の言葉を口にした。
「“ROOM”」
同時に青い半透明のドームが部屋を覆う。
「これって…!?」
「おれを助けてくれた時のやつだ!」
「ロー、お前、この力は…」
ヴォルフとベポ達が驚きに目を見張っているが気にする余裕はない。
「オペ、開始」
ローの口から手術の開始が宣言された。
まずヴォルフに麻酔を投与し意識がないことを確認後、能力に意識を集中していく。
「“スキャン”」
ブゥンと音を立ててヴォルフの頭から脚の先まで光が通過すると、彼の創部の位置がローの脳に流れ込んできた。
視える。解る。
腸が破れている。胃が破裂している。肝臓に金属片が刺さっている。肺に折れた肋骨が刺さっている。
「“タクト”!」
ローの叫びに応じてメスや鑷子、鉗子などがいくつも浮かび上がった。そしてローもメスと鑷子を手に持ち、オペを進めていく。
このドームの中では全てがローの思うがままだった。メスも、鉗子も、針と糸も、開創器も、自由自在に操れる。
メスで肝臓を開きながら、胃を元の形に縫合し、大腿動脈を止血。肺に刺さった肋骨を取り除いて縫合、あちこちからの出血をガーゼで拭き取り、ぼろぼろの腎臓を繕っていく。
「ペンギン、輸血は出来てるか?」
「ああ、大丈夫だ。止まってない」
手術は順調だ。出血も収まってきたし呼吸も安定してきた。このままやればーー、
そう思った時。
「うッ!?、あああああ!!!!」
突然頭に劈くような激痛が貫いてローは絶叫していた。視界が赤く染まる。
「ぐ、ぶ…ッ」
ビチャビチャと床を叩く水音が聞こえて鼻まで覆った布が濡れて顔に貼り付いた。
急に能力を全開で使用した代償だろう。練習していたとはいえ、脳への負荷が大きすぎるのだ。ローは荒い呼吸を繰り返しながら必死に耐えようとするが痛みは治まらない。
「ぐ、あ……っ」
ヴォルフはまだ予断を許さない状況だ。ここで手を離すわけにはいかないが、激痛がローの気力と体力をガリガリと削ってくる。
まずい、意識が飛びそうだ…!
とうとうローは右膝を床に付いてしまった。
「ローさん!!!」
「問題、ねぇ。……大丈夫だ…おれを、信じろ」
しかしローは折れなかった。
そうだ。おれにはコイツらがいる。おれを信じてくれる奴らが見てるんだ。
だったらおれは、諦めない。
“ROOM”も解除しない、“タクト”もそのまま続ける。
ギブ&テイクとヴォルフはいつも口にする。見返りがなければ何もしない。確かにじいさんらしい言葉だ。
それはローも同じだ。ヴォルフに拾われて居場所を貰ったから、助ける。コラさんに命と心を貰ったから、恩に報いる。どちらもギブ&テイクだ。
でも本当にそうなのか?じいさんは見返りが欲しくておれを助けたのか?ーー違う。
コラさんはおれに恩返しをして欲しくて助けてくれたのか?ーー絶対に、違う。
二人とも、見返りなんて求めてなかった。それは短い付き合いの中でも十分に分かることだ。助けたいと思ったから、助けてくれたんだ。それくらい、おれにも分かる。
おれだって同じだ! コラさんが命懸けで助けてくれたから恩返しをするんじゃない。ヴォルフが居場所をくれたから助けるんじゃない。
どちらも、おれがしたいからやるんだ。
なにより、見返りを求めて人助けをするなんて父様と母様に顔向けできない。
医者としてのおれが、許さない。
ローは力を振り絞って立ち上がった。足下はふらついて今にも倒れそうだったが、それでももう膝はつかなかった。
「絶対助けるッ!!! おれは、医者だからッ!!!」
そうだろ? 父様、母様、ラミ。
傷口の縫合も、止血も終わってる。後は腹を塞ぐだけだ。
倒れるな。ふらつくな。後もう少し。
力が抜けて震えが止まらない手で糸を通した針を持ち、開いた腹を縫い合わせていく。
ーーー。
ーーーーーー。
「オペ、終了…」
呟くと同時に膝から力が抜けて後ろに倒れそうになった。が、伸びてきた仲間達の手が支えてくれた。いい子分を持ったと、ローの顔に微かに笑みが浮かぶ。
「ローさん…」
「じいさんは、助かるよね…?」
「……わからねぇ。手術は完璧だった。ーー後は、じいさんの生命力に賭けるしかねぇ」
ロー達はヴォルフの傍に椅子を並べて座った。いつ急変するか分からないんだ、眠る訳にはいかねぇ。
そのまま三時間、四時間、五時間と時間だけが過ぎていく。
「ローさん疲れてるだろ? ちょっと休んだ方が…」
「何言ってんだ。子分を残して親分がぐーすか寝てられるかよ」
医者として見届けなければならない。
それからは全員無言で見守っていた。
もうとっくに夜は更けて普段の就寝時間は過ぎてしまっている。それでも誰も疲れた素振りも見せなかった。
助かれ。助かれ。助かれ。
多分全員が同じこと思いながら祈るようにヴォルフを見つめていた。
手術から十二時間が経った。
外はすっかり日が昇り、カーテンの隙間から差し込む朝日が、柔らかくロー達の顔を撫でていく。そしてヴォルフの顔も優しく照らしたその時、
「んあ……朝か…」
じいさんが、目を覚ました。思わず四人で顔を見合わせる。
「生きてる……?」
「喋った……?」
「助かった……?」
シャチ達が疲れ切った声で呟いた。
そして沈黙の後、
「「「「うおおおおおおおおおおお!!!!!」」」」
歓喜の雄叫びが部屋中に響き渡った。ローも拳を振り上げて叫んでいた。
「よがっだ〜!!じいさんたすがっだ〜!!あり゙がどうロ゙ーさん!!!」
ベポが顔中を濡らしながら抱き着いてきた。倣うようにペンギンとシャチも泣きながらしがみついてきてあっという間にもみくちゃにされる。
「なんじゃ…天国に来たと思ったら見慣れたガキ共が喚いとる」
ああ、嬉しい。嬉しいよ、じいさん。
「ロー………お前が、助けてくれたのか」
「おれだけじゃねぇよ。ベポもペンギンもシャチも頑張った。コイツらがいなきゃ、おれはオペを成功させられなかっただろうさ」
「そうか……」
そこまで言って再び眠ったヴォルフの状態を確認する。バイタルサインも安定しているし、縫合も問題ない。
人の命を救えたんだ。
そんな充足感がローの全身を満たしていた。
その後疲れて眠たい筈なのに「おれが年上だから!」とペンギンが町まで自転車で走り、診療所の先生を連れてきてくれた。
先生は運び込んだ機械でヴォルフを診察し、体内の出血もなく経過は良好と診断してくれた。
「完璧だ。この手術はローくんがやったのかい?……前から思っていたが、君はとんでもない才能を持っているようだね」
「別に……時間が無かったからおれがやっただけだ」
先生の屈託ない賛辞につい目を逸らす。久しぶりに褒められて少し気恥ずかしさが勝ってしまった。
ヴォルフは全快まで2ヶ月くらいだろう先生は話した。本当はずっと傍にいて看病をしてやりたいが仕事を休む訳にはいかないので、一週間だけ休みを貰うことにした。先生からは休んでもいいと言われたがローは譲らなかった。
後は日替わりで看病ができるように仕事の日程を調整し、必ず一人は付き添うことに決めた。
ヴォルフが目を覚ました夜、ロー達はいつもより早く床に就いた。布団に入って早々に響いてくるいびきに頬が緩んで、ローも布団をかぶる。
なぁ、父様。母様。難しいオペを成功させたんだ。
…なぁ、コラさん。あんたから貰ったオペオペの実で、人を救えたんだ。
三人に報告すればきっと誰よりも喜んで、ローを褒めてくれるのだろう。
父様は泣いちゃうかもしれない。もしかしたらコラさんも。騒がしく泣きじゃくるいい年した大人二人を母様とラミとローが笑って見ているのだろう。
その光景がありありと浮かんでまた一つ、笑みが溢れた。
今日はいい夢が見れそうだ。温かな感情に満たされたまま、ローは瞼を下ろした。
***
悪夢を見た。
***
「あああああああぁぁぁぁ!!!!」
叫びながら飛び起きていた。煩く鳴り響く心臓が体から飛び出そうと暴れ回っている。それを抑えるように胸元を握り締めて乱れる呼吸を必死で整える。額から汗が流れ落ちた。
「……………ぃ…」
しかし悪夢の残滓はローを捕らえて離さない。いても立ってもいられなくて、ローは部屋を飛び出していた。
痛む頭を押さえふらつく足取りで向かったのはヴォルフが眠る寝室だ。
一刻も早くローの行いの結果が間違いじゃなかったと確かめたかった。自分の行いが正しいという証拠を突き付けて、罪の重さを忘れさせて欲しかった。
扉を開けるとヴォルフはまだ寝息を立てている。その姿を目に映し、状態を丁寧に確認してホッとした途端、膝から崩れ落ちてしまった。
ベッドの側、膝を抱えて顔を埋める。後悔が胸に迫っていた。
どうしてあの時この力が使えなかったのだろうか。
使えていればコラさんは死なずに済んだのではないか。
そもそもおれがヴェルゴを連れてこなければバレることもコラさんが死ぬこともなかったんじゃないのか。
おれがコラさんを殺したんだ。
おれが、おれが、おれが……。おれのせいで。
「おれの、せいで……、ごめんなさい……ごめんなさい……」
涙と共に懺悔の言葉が静かな寝室に零れて溢れていく。
「どうしたんじゃ、ロー」
突然、ヴォルフに声をかけられて咄嗟に涙を隠した。声が震えないよう努めてあんたの状態を診にきたと誤魔化せば、寝ぼけ眼の彼がローの頭をぽんぽんと撫でてきた。
「…だいじょうぶ、お前の腕は確かじゃ。その力でワシは助かった。そのことは、十分に胸を張っていい」
優しく、穏やかな声がローを罪悪感の沼から引き揚げてくれた。
ほら、もう夜も遅い、はよ寝らんか。と促され、ローは大人しく寝室に戻って目を閉じた。
今度は悪夢を見なかった。
翌朝。ヴォルフに昨夜のことをそれとなく訊いてみたが、覚えとらんと帰ってきてホッとした。怪我人に要らぬ心配をさせたくなかったし、これはローの問題だ。あまり人に話したくはない。
***
そうしてヴォルフの看病をしながらロー達は日常を送り、1ヶ月が過ぎていた。
「ロー。ちと話がある」
先生の見立てでは全快まで2ヶ月だと聞いていたが、予想以上の回復力でヴォルフはもうほぼ全快している。
なんでだと訝しむローに彼は「かつては鍛えに鍛えた身。治って当然じゃわい」と胸を張っていた。
そんな彼が神妙な面持ちで話を切り出してきた。
「ロー。お前がワシを治したその力、それはオペオペの実の能力じゃな?」
「えっ!?」
思わず声を上げていた。ヴォルフはもちろんベポ達にもオペオペの実のことは話してないし、訓練も誰にも見られていないことを確認してから行っている。
「甘く見るでないわ。ワシの若い頃は船に乗って世界中を旅しておった。……昔は悪魔の実に興味を持って様々な文献を調べたこともある」
只者じゃねぇとは思っていたが、まさかそんな経歴があったなんて。
「お前、オペオペの実の真の能力を知っておるか?」
「なんだよそれ?」
そんなの聞いたことない。ローが知っているのは「奇跡的な手術で未知の病気も治せる」力のことだ。
「……オペオペの実は『究極の悪魔の実』と呼ばれておる。手術や治療に使えるからではない。この能力を極めた者は人に永遠の命を与える『不老手術』を施すことが出来るんじゃ」
「…そんなの初めて聞いた」
「しかし夢のような能力に聞こえるが、その手術には巨大なリスクを伴う。それを行えば、能力者本人は命を失うことになる。自らの命と引き換えにした一度限りの奇跡という訳じゃ」
「自分の命を、失う手術……」
「うむ。……永遠の命という響きは人々をひどく惹き付ける。その力を得ようとする人間も能力者を利用しようと企む輩も後を絶たん。だからロー。この先その能力のことを決して『他人』には話すな」
彼の話を聞いて、ローは合点がいった。
『オペオペの実を食っちまったんなら…おれの為に死ねるよう、教育する必要もあるなァ!!!』
コラさんに守られながら聴いたドフラミンゴの言葉がよみがえる。
奴がそれほどまでにオペオペの実に執着する理由が分かった。
あいつは、おれに『不老手術』をさせようとしていたんだ。
……なんだよ、それ。
机の上に置いた拳にギリリと力が入る。他人を利用するだけ利用して棄てるなんて、まるで……まるでそれは、散々利用した挙句フレバンスを見捨てた王族や政府と同じではないか。
あの言葉に感じた恐ろしさは間違ってなかった。まさか、こんな理由があったとは想像出来なかったが。
そもそも、この能力が無ければコラさんは死ぬことはなかったかもしれないのだ。
こんな能力が、こんな能力……!
後悔に奥歯を噛み締めるローの手にそっとヴォルフの手が重ねられる。
「だがな、ロー。ワシはその能力を否定しとらん。その力は普通では治せない病気や怪我を治せる奇跡の力じゃ。現にお前はワシを救ってくれたじゃろう?」
「でも、いろんな人に迷惑をかけてしまうんだろ…」
「フンッ! そんなみみっちい話はどうでもいい!! 問題は、その力を使う者の心だとワシは思っておる。
力は振るう者の在り方次第で善にも悪にも染まる。使われる力が大きければ大きいほどその影響力は計り知れんものじゃ。
……しかしな、ワシの知るトラファルガー・ローは持っている力を良い方向へ導ける人間だと、そう信じておるよ」
じいさんの言葉はローの心に染み渡り、胸の奥から温めてくれる。
込み上げてくるものがあり、ツンと鼻の奥が痛くなった。
ヴォルフの目がじっとローを見つめてくる。試すような目だ。ローは泣きそうになりながら、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「当たり前だ。『不老手術』なんてどうでもいい。おれは最高の医者になるために、この能力を使うだけだ」
強い眼差しから逸らさずキッパリと告げてやれば、ヴォルフは満足気に顎を引いた。
「で、話ってこれだけか? もうそろそろ眠いんだが」
「待て待て待て、話はまだ終わっとらん!」
「え? まだオペオペの実について隠してることあんのかじいさん」
「それはもう終わったわ! ……いや、そうじゃなくてだな…」
モジモジと言い淀むヴォルフにローは首を傾げた。何度も言いかけては口をもごもごさせた後、「今欲しいもんはあるか」と脈絡なく聞いてくるため浮かんだものを答えても「もっと欲は無いんか!」と怒られる。
流石に付き合いきれなくなって、立ち上がろうとしたら「待たんかバカもん!」と怒鳴ってきたので渋々腰を下ろした。
「なんだよ、さっさと言えよガラクタ屋」
「ロー、ワシはお前から命を貰った。ならばそれに釣り合うものを返さねばならん!! 人生はギブ&テイクじゃ!
じゃが、命に見合うものなどワシには思いつかん。だからお前の望むもの、望むことを叶えようと思ったんじゃが、」
「ふざけんなよジジイ!!!」
今度はローが怒鳴る番だった。
「おれは見返りが欲しくて助けたんじゃねぇ! それはベポもペンギンもシャチも同じだ!!
あんたがどんな信念を持とうがそれはあんたの自由だ。……でもな、アイツらはあんたが助かって嬉しくて泣いてたんだ。
その涙を侮辱することはおれが許さねぇ!!」
おれ達を助けてくれたのは見返りが欲しかったからなのか?ーー違うだろ、じいさん。
ローの大声が響き渡った後、しばらく静寂が部屋を包んでいた。ヴォルフは眉間に皺を寄せて何かを考えているようだったがやがて、
「すまん……ワシの失言だった」
と絞り出した。
「……分かればいい」
だからローもこれ以上とやかく言う事はない。
「ベポ達はみんな自分を拾ってくれたあんたに感謝してるんだ。だから助けたいって必死にもなるだろうさ」
「お前もか?」
「っ!……お、おれは別に…、医者の端くれとして助けられる命を助けただけだ! …単なる気まぐれみてぇなもんだ…っ!」
「くくっ…そういう事にしてやるわい。しかし命を助けられたのは事実。ならば何も礼をしないという訳にもいかん」
「だからいいって…」
「最後まで聞かんか!…その、つまり、お前達に物や金を贈るのは失礼になるというわけで…だったら別の方法で礼をする必要があるということに…」
「まどろっこしいな! さっさと結論を言えよ!」
「友達になってやるわいっ!!」
「は?」
予想外の台詞にローの頭の中は真っ白になった。何言ってんだこのじいさん。え? なんだって? いやいや聞き間違いかもしれねぇ。
「悪いガラクタ屋、よく聴こえなかったんでもう一回言ってくれ」
「何度も言わせるでないわ! ……この天才発明家ヴォルフ様が! お前達のと、友達になってやると言っとるんじゃ!! 光栄に思え!」
ヴォルフは顔を茹で蛸みたいに真っ赤にしてツンとそっぽ向いた。
ローはしばらく呆然と眺めて、込み上げてくる笑いを堪えきれず吹き出していた。
「ぷっ!あはははは!」
「な、何がおかしい!!」
「いや、だって……ああいいぜ。その礼をありがたく受け取ってやる。今日からおれ達は友達だ」
「ふんっ」
全くおかしなじいさんだ。友達になりたいならこんな必死にならずともただ一言言えば良かったのに。
いや、でもそれがヴォルフには難しかったのだろう。彼はずっとギブ&テイクを信条に掲げてきたのだ。その関係の外側にある友達という言葉を口にするのはものすごく覚悟と勇気が必要だったのだろう。
ーーだったら、おれもじいさんの覚悟に付き合ってやらなきゃ格好が付かねぇよな。
(友達か…)
かつてローにもいた存在だ。故郷の教会で共に学び、遊んで、一緒に逃げようとローの身を案じてくれた、大切な友人達。ーーもう二度と会えない友人達。
あれからローに友達は出来なかったし必要としなかった。だから久しぶりに友達が出来てみて、思った以上の気恥ずかしさに体温が上がるのを自覚した。
これじゃあ、じいさんのこと笑えねぇな。
でもそれでいいかとローは思う。この胸を占める熱は心地よくて嫌じゃない。
互いに顔を赤くして笑い合っていると、ベポ達が階段を駆け下りてくる足音が聴こえてきた。
「なぁガラクタ屋」
「なんじゃ」
「あいつらは『他人』じゃねぇよな?」
「…ふん、当たり前じゃろう」
「じゃあ、オペオペの実のことでも話しとくかな」
他人でもない、家族でもない、友達という曖昧な関係。けれどもその関係はローにとって居心地がいいものであるらしい。
どたどたと部屋に入ってきた友達を、ローとヴォルフは笑顔で迎えるのだった。