第四幕〜となりまち〜その①

第四幕〜となりまち〜その①


「はぁ……はぁ…、はぁ…」

一面の銀世界の中をひたすらに歩く。もう、どれだけ歩いたか分からなくなっていた。どれだけ歩いても、目に入るのは雪、雪、雪。白、白、白。

吐き出す息も白く、凍える世界へと消えていく。

足の感覚なんてとっくの昔に消え去って、重たい二本の丸太を交互に動かしているかのような、そんな感じだ。

それでも足を止めるわけにはいかない。

だって生きなければいけないから。

生きないと、あの人の恩に報いることが出来ない。

コラさんの愛に報いることが出来ない。

コラさんが、おれを生かしてくれたんだ。おれのために駆けずり回って、沢山撃たれて、ボロボロになって、最期には命まで落としてしまって……それでも、おれを生かしてくれたんだ。

だから、絶対死ぬわけにはいかねぇんだ。おれは生きなきゃいけねぇんだ。

その想いのまま、歩き続けた。


終わりの見えない雪景色。周りを取り囲む針葉樹から降り注ぐ白い結晶達。それが頬や鼻先に当たって溶けて、冷たさが痛みに変わる。でもそれでいい。痛ければ、生きている。それが分かるだけで十分だ。

「となりまち…となりまち……。コラさん…コラさん…」

ひたすらに歩く。コラさんと落ち合う場所の“となりまち”を目指して、着いても待ち人は永遠に現れる事がないと分かっていても。

もう歩き続けて太陽が三度昇るのを見た。今頭上にある太陽が沈む前に“となりまち”に辿り着きたいものだ。

もう、体力が限界に差し掛かってきている。これまでに何度も目の前が霞んで雪の上に倒れそうになったがそうなる度にーーー、

「ーーーぁ」

目が、霞んできた。ふらふらと平衡感覚があやふやになってきて、そのまま瞼を閉じて眠ってしまいそうになってーー。

ぐっ、と唇を強く噛み締め腰のポーチからメスを取り出し、それを自分の腕めがけてーーー、

「あああああっ!!!」

劈く痛みに目を見開いて口から悲鳴が上がった。

「よしっ」

でも、これで目は覚めた。もう眠くない。まだ、歩ける。

包帯を取り出して腕に巻いて止血する。血の匂いで獣が寄ってくるかもしれないが、今はそんなこと気にしてられない。

再び歩き出す。コラさんとの約束を何度も口の中で繰り返しながら。

「となりまち……」

そして、何度目になるかも分からない呟きと共に前を見ると明かりが目に飛び込んできた。町だ。人もいる。

「ーーーあ」

思わず声が出た。

となりまち。ここだ。立て看板に『プレジャータウン』と書かれている。着いたんだ。助かったんだ。これで、おれは生きられるんだ……!!

それまで丸太のように重かった足が急に軽くなった気がして、今までとは比べ物にならないくらい速く走り出した。

「ハァッ! ハアッ!」

肺が爆発してしまいそうだ。でも、止まれない。止まりたくない。

コラさん、おれ助かるんだ。おれ、生きていられるんだ。ーー生きてて、いいんだ。

世界から赦しを得られたような気分だった。喜びに跳ね回って幸せを撒き散らしたい気分のまま町の入り口まで走ってきて、門をくぐる直前で足が止まった。

「……」

このまま入っていいのだろうか。

ふと、そんな疑念が湧いた。

思い出すのはコラさんとの旅での記憶。いくつもの町に訪れ、いつくもの病院を周り、そこでどんな目に遭ってきたのかを。

「……ぇ、ぁ」

そうだ。この姿はあの頃と何ら変わりない、迫害の象徴である白い痣にまみれている。もし珀鉛病だと知った町の人達がおれを駆除しようとしてきたら?

政府に連絡されたら?

また、防護服を着た兵士がやってきたら?

また、あの時の二の舞になったら?

脳裏に何度も浮かぶのは故郷が焼けて全部炎に呑まれていく光景と兵士達に撃ち殺された家族や友人達、死体の山に囲まれて揺られたこと、コラさんとの旅で何度も叫ばれたあの忌まわしい言葉。

それらがぐるぐる、ぐるぐると駆け巡り、おれを恐怖に叩き落としてくる。

怖い。またあの目で見られるのが、怖い。

完全に足が竦んでしまって、絶望にぎゅっと目を瞑った時。

『ロー、愛してるぜ!!!』

耳の奥で響くのは、コラさんの愛。

そうだ。こんな所で立ち止まってはいられない。おれは生きると決めたんだ。だから、縮こまってはいられないんだ。

なぁシスター。この世は地獄ばっかりで救いなんて無いって思ってたけど、救いの手はあったよ。

コラさん。あんたのお陰でまた人を信じてみようって思ったよ。だから。

震える足をなんとか踏み出して、町に入った。

「…ッ、…ッ」

浅くなる呼吸を必死で繰り返しながら歩いて、一番近くにいた女の人に声をかけた。ーーのだが、

「あ、あの…っ」

「おや、あんた、その顔…」

「ーーーッ!!」

見られた。バレた。珀鉛病だってバレた……!!

またあの目が襲ってくる。嫌悪に歪んで、汚物を見るような、おれの生存を認めないあの目だ。

『ホワイトモンスターだ!!』

『死んじまえーー!!! モンスターめ!!』

その声が耳の中で響いた途端、踵を返して走り出していた。

「あ、ちょっと!」

後ろから聞こえてきた制止の声を無視して、ひたすら走る。

情けねェ。おれはあんたから愛を貰って、また他人を信じてみようと思ったのに。

おれの心は縮こまったまんまだ。



「ハア……、ハア……。……ハッ、……ハッ」

しばらく走ってから、膝に手を置いて息を整えてから辺りを見回す。町からは随分離れたところまで来ていた。今日は野宿するしかないだろう。夜風を凌げる場所を探して彷徨い、海沿いに洞窟を見つけた。

中に入って、火を起こす準備に取り掛かる。まさかこんな所でドンキホーテファミリーにいた時の経験が生きてくるなんて、何とも皮肉なもんだ。

ぱちぱちと燃える焚き木に手を翳して暖まっていると腹が悲鳴を上げて空腹を訴えてきた。

ここ数日はほとんど何も口にしていない。強烈な空腹は耐え難く、その辺で掘り返したミミズに針と糸を通して枝に括り付け、即席の釣り竿を作って海岸に向かった。

運のいいことに垂らして直ぐに大振りな魚を釣り上げることが出来て、急いで洞窟に戻る。

内臓の処理をして枝に刺し、火にかざした。洞窟内に魚が焼けていく香ばしい匂いが立ち上り、いよいよ空腹が我慢出来なくなってきたその時。

「が、あああああッッッ!!!!?」

全身を激しい痛みが襲ってきた。

まずい、珀鉛病の発作だ……!!

ただでさえ父様のデータから計算した寿命よりも早くなるかも知れなかったのに、実際一度発作は起きてしまっているのだ。もう一度起きない保証なんてどこにもない。

こうなる可能性も十分あったのにどうして考えなかったのかと自分の馬鹿さ加減に舌打ちしたい気分になる。だが後悔しても遅い。

「あ、ぐぅう……!かは、ぁあぁあ あ!!!」

あまりの痛さに身体が痙攣し始める。

熱い。寒い。苦しい。

このまま死んでしまうのか。せっかくコラさんから命を貰ったのに、それでもここで、死んでしまうのか。

いやだ!!絶対にいやだ!!!

でもどうすればいいんだ。オペオペの実を食べたら、人体改造能力が手に入るってコラさんは言っていた。でも、この力は魔法みたいに何でも治せる力じゃないってことはあの時嫌という程思い知った。

だったらどうしたらいい? この能力を使いこなせないと、コラさんの願いを叶えられない。

そんなこと、絶対許さねえ!!

「おれが生き延びないと!! コラさんの命が、願いが、無駄になっちまう!!!」

声高に吼えた。コラさんの愛を、優しい笑顔を無かったことになんてするもんか!!!

ドクン。

心臓が強く脈打った。

全身がポンプになったかのように鼓動をはっきりと感じる。次第に強さを増していく脈動は痛いくらい、激しい。

全身が熱かった。鼓動と共に駆け巡る血潮が、大きな力を引き連れて全身を巡っていく。それらが合流しどんどん重なりを強め、限界まで膨れ上がってパチン! と弾けた。

「……!!」

その瞬間、ブーンと音を立てて青いドームのようなものが広がっていた。

「なんだ……これ……?」

薄い膜のようなそれは、ローを中心に広がっていて、半径数mを覆っている。

膜に触れてみようと伸ばした手が目に入った。白い痣で覆われたそこは表面の皮膚だけでなく骨にまで珀鉛が蓄積していて、なんとも酷い状態だ。

そこまで考えて、はたと我に返る。何で珀鉛病が骨まで広がってるって分かったんだ? 精密検査を受けない限り病気がどこまで広がってるかなんて確認のしようがないのに。

「まさか、これが……?」

悪魔の実の、オペオペの実の力なのか…?

意識を自分の体に集中して深く診てみれば、血管の走行や骨、筋肉、神経、臓器の位置など、手に取るように分かった。

そして確信する。この膜の中であれば何でも出来る。半ば本能でそれを理解していた。

この力があれば珀鉛病を治療出来る…!

その確信が、死に瀕していたローに希望の力を与えた。

もう一度、深く集中して体内を診る。目的はこの体を蝕む珀鉛の位置と量だ。目を凝らすとたちまち体中に蓄積された珀鉛の場所が脳内に滑り込んできた。

広く蔓延している中、特に肝臓への蓄積が群を抜いて多かった。

通常の手術であればこれだけの範囲を摘出するのに大掛かりなオペになることは間違いなく、ろくな医療設備もないここで行うのは不可能だろう。

しかし、ローにはオペオペの実がある。

この実の力は、人体改造能力。

摘出箇所が多いのであれば、一つにまとめてしまえばいい。

目を付けたのは肝臓だった。肝臓は人体の中で最大の臓器であり、切除しても再生する機能がある。

ここに全部集めてしまえば取り除くのがぐっと簡単になるだろう。

ぎゅっと目を瞑り、身体中に散らばった珀鉛を肝臓に凝縮する光景を強くイメージする。

(集まれ…っ)

すると、イメージ通りに珀鉛が肝臓に集結した。丁度肝臓の2/3くらいだった。このくらいなら切除してもまた再生してくる…!

次はどうやって切除するかだ。場所は分かっても自分で腹を開いて行うには余りに不安定だ。

(肝臓だけ取り出せたらいいのに…)

そう思った時、ローの手の中に肝臓が収まっていた。驚きに瞠目するが、同時に理解する。これもオペオペの実の力なのだと。

「これなら…っ」

近くに落ちていた樽に肝臓を乗せて、外套でよく拭いたメスを火に翳した。十分に熱せられたのを確認してから、右手に持って肝臓を見下ろす。

本来内臓に痛覚は無いが、能力で取り出された肝臓は透明なキューブのようなものに収まっている。これが腹膜あるいは皮膚の役割を担うのであれば、ここを破ればきっと痛みが生じるだろう。こんなことなら麻酔の効果のある薬草でも探しておくべきだったかもしれないが、もうそんな猶予は残されていない。

一度大きく深呼吸して、覚悟を決めた。

大丈夫、やれる。いや、やる…!!!

「ぎ、ぃああああああああ!!!!」

メスの刃が膜を切り裂いた途端、想像を絶する激痛が襲った。あまりの痛みに大声を上げてしまう。

全身を苛む痛みに息が詰まり、涙が溢れてきた。それでも何とか耐えて必死に歯を食いしばる。

「ひぐ…ううううううう!!!!」

しかし止められない。このオペを成功させないとおれは生きられない。コラさんに報いることが出来ない!!

メスを動かし続ける。膜を切る度劈く激痛に何度も意識を飛ばしそうになりながらも、珀鉛に冒された箇所を切除していく。

「がああぁっ!!」

最後の箇所を切り取った。あとは縫合して腹を塞げは終わりだ。

「ふー……ふぅ……!」

額から流れる汗が止まらない。鼓動と共に響く痛みに針を持つ手がぶるぶると震えてしまう。それでも気力で縫い進めていき、最後の糸を切って縫合が完了した肝臓を腹に宛てがうと、するりと元ある場所に収まっていった。不思議と腹も元通りだ。

「やった……」

じわじわと体を苛む熱と痛みが引いていく感覚に達成感が湧き上がってくる。

成功したんだ。おれは生きられるんだ……!!!

切除した箇所は焚き火の中に投げ入れて、全身を襲う疲労と脱力感に逆らわずその場に倒れ込んだ。

「コラさん…!!! コラさん、見てるか!!! やったよ!!! おれ、治したよ!!!」

興奮にばたばたと手足を動かして宙に拳を突き上げる。

「あはははは……!!! ざまーみろ政府!!! はははは!!! ははは……、はは……、ぅっ、ぐ、うぅ…ッ」

高らかに上げていた笑い声が萎んでいき、最後には嗚咽に変わっていた。

悔しい。悔しい。悔しい悔しい悔しい悔しい。目尻から熱い涙が伝い落ちていく。この力があれば故郷のみんなを救えたのに。家族を、ラミを救えたのに。

その考えがコラさんの命への冒涜だと理解していても、どうしても止められなかった。

「ごめ、なさ…っ、コラさ…っ、父様…母様…っ、ラミ…ッ」

救えなくてごめんなさい。守れなくてごめんなさい。こんなこと考えてしまって、ごめんなさい。

止まらない涙に顔を腕で覆って泣きじゃくる。しばらく泣いて、ぼうっと天井を見上げていると、くわんと目の前の景色が歪んで曲がった。

「う、ぁ…?」

襲い来る強烈な眠気に抗えそうにない。瞼が重くなっていく。だめだ、寝ちゃいけない、ここで寝たら……。

必死に頭を振るが、意思に反して身体が動かない。やがてローの意識は闇に落ちていった。


***


目が覚めると温かいベッドの中にいた。

見上げた天井は木目調で、ここがどこかの部屋だということが分かる。

視線を周囲に移すと、机と椅子、たくさんの本が詰まった本棚、金魚の泳ぐ水槽、それから中で火が燃えている立派な暖炉が見えた。

「ここは……?」

洞窟の中に居たはずなのに……、とそこまで考えたところで昨夜の事を思い出した。そうだ、あの後意識を失ってしまったのだ。

慌てて起き上がった時、ドアが開いて老人が一人入ってきた。

「おう、やっと起きたか」

老人は木椀と匙を乗せたトレーを持っていて、木椀からは温かそうな湯気が立ち昇っていた。老人の齢は60歳ほどに見えるが格好がめちゃくちゃだった。

オールバックの白髪に真っ赤なサンバイザー、変な柄のアロハシャツと短パン、足元はサンダル。どこからどう見ても胡散臭いじいさんだった。外は雪降ってんのに頭おかしいんじゃねぇのか…?

しかし。胡散臭いじいさんを注視する。問題はこの老人がドンキホーテファミリーの手の者じゃないかってことだ。

何の因果かあの時ドフラミンゴはローが海軍に保護されたと思い込んだようではあったが、もし保護されたのが別人だとバレればこのスワロー島に捜しに戻ってくるかもしれない。

それだけドフラミンゴはオペオペの実に拘っていた。もし懸賞金がかけられていたら、この老人はローをドフラミンゴに引き渡すかもしれないのだ。

油断ならない。

「何が目的だ、じいさん」

寝具から飛び降りて一瞬で老人の背後に回る。左腕で首を絞め、右手に持ったメスを頸動脈へ押し当てて訊き出そうとすれば、老人は「やれやれじゃ」と呟いた後頭をぐっと下げた。

「うおっ!?」

視界が回ったと思った時には背が床に着いていた。どうやら目の前の老人に投げ飛ばされてしまったようだ。

しかし直ぐに起き上がってメスを構え、両目をしっかりと開いて敵を睨め付ける。

「…まるでケダモノのような目じゃわい」

老人は机にトレーを置くと木椀と匙をこちらに差し出してきた。

「食え。お前さんの体は冷え切っておった。ロクに栄養も摂っておらんじゃろう」

木椀の中から香ばしい香りが漂ってきて鼻腔をくすぐる。ぐうっと腹が悲鳴を上げて口内にじゅうと唾液が溜まった。スープと老人を交互に見て、それでも木椀には手を伸ばさなかった。

怖かった。もしこのスープに睡眠薬が入っていたら? このままおれを眠らせてドフラミンゴの元に連れていくかもしれない。信じられない。人が、怖い。

「変なものでも入ってると思っとるのか。…他人が信用できんのだな」

警戒するローに老人は匙を手に取ってスープを一口、二口とすすった。

「毒は入っとらんと分かったろう。……だいじょうぶじゃ、ワシはお前さんの敵じゃない」

それを見届けてからやっと机に置かれた匙に手を伸ばし、右手のメスは相手に向けたままスープを口に運んだ。

「……!!」

美味い。温かくて優しい味がした。こんなにちゃんとした食事を食べるのは何日ぶりだろう。

気がつけば涙をぼたぼたと流して泣いていた。

「ちくしょう…ッ、美味ェ…! 美味ェ…!」

泣きながら食べ続けた。夢中で掻きこむおれを見て、じいさんは微笑ましそうに笑みを浮かべた。

「すぐにおかわりを持ってきてやるわい」

まるで、拾ってきた野良猫がようやく懐いたかと言うように。


***

その後老人に言われるがまま風呂に入っていると、

「あ………」

鏡に映る体には未だあの忌々しい白が広がっていた。頭をガンっと殴られたかのような衝撃が走り、体から力が抜けて膝をついてしまう。

そんな、珀鉛は全部取り除いたはずなのにどうして…!?

混乱する頭に併せて呼吸が浅く速くなっていくのが分かる。呆然と床についた手を見つめているとあることに気付いてハッとした。

「あれ……?」

手に広がっている色にふと違和感を覚えた。手を持ち上げて凝視してみると、間違いない。僅かに血の色が透けて見える。

慌てて腕から足まで全身隈なく確認したが、やはり体の至ることろにある白い痣がうっすらと薄桃色になっていた。まるで、瘡蓋が剥がれた直後の新しい肌の色のような。ありえなかった。

これまで珀鉛病に冒された箇所は体温の変動で色が変わることは無かったのだ。正に陶器のような白、無機物のような人らしさの欠けた肌が余計に珀鉛病患者を不気味に見せる一因だった。

それが、色が変化するということは珀鉛は除去出来ていたのだろう。だとしたら、何故肌の色が元に戻らないんだ?

「これって…白斑か?」

白斑とは、表皮の基底層にあるメラニン細胞から産生されるメラニン色素が様々な要因で産生を阻害されることによって生じる皮膚疾患だ。

珀鉛病を発症してからは珀鉛が邪魔をしてメラニン色素が産生されていなかったため、原因を取り除いた後も皮膚の色は白っぽくなっているのだろう。これもメラニン細胞の機能が生きていれば肌の色も徐々に元の色を取り戻していけるが……。

そこまで考えてローは頭を振った。恐らく大丈夫だ。肌には一定の周期で新しい皮膚が生まれ変わるターンオーバーがある。正常なら少しずつだが確実に色は戻っていくはずだ。

「……よし」

気持ちを切り替えて湯船に浸かる。温かいお湯に全身を包まれてほうっと息を吐くと、何となく肩の荷が下りたような気がした。熱い湯船に浸かっていると、くて、と全身から力が抜けていく感覚に襲われる。

そうか、おれ能力者だから。

これから致命的な弱点を負うことになったが、今はそれも気にならなかった。

ただ久しぶりの湯のあたたかさをたっぷりと堪能した。


***


用意されていた服に手を通し、老人と話した。

老人がローを助けてくれたのは純粋な人助けからだった。

ドフラミンゴの手先や賞金稼ぎなんかじゃなかったと知って、疑ったことが申し訳なくなってしまった。

「なら坊主。この世はギブ&テイクじゃ、何があったか話せ。……何か事情があるんじゃろう」

その言葉に促されるようにポツリポツリとこれまでのことを話していた。

故郷のことや病気のこと、海賊団に身を寄せていたこと、そこから恩人が救い出してくれたが、その恩人は殺されてしまったこと。

話している内に心がすっと軽くなっていくのを感じた。もしかしたらずっとこうやって誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。

オペオペの実のことだけは話したらどんな反応をされるか未知数で、態度を変えられてしまうことが怖かったので話せなかった。珀鉛病のことは腕の良い医者に治してもらったとだけ伝えておいた。

そして、風呂に入っていた時から感じていた疑問を老人にぶつけた。

「…アンタは何故おれを助けてくれたんだ? こんな見た目のおれを…。もう治ったとは言え、珀鉛病だと疑わなかったのか?アンタも珀鉛病の常識は知ってんだろう?」

「まぁな。白い町の結末は北の海の者なら知らん者はおらん。……だが、ワシは別に構わんかった。目の前でお前のようなガキを見殺しにすることに比べたらそんなこと些細な問題じゃわい。結果として、珀鉛病は感染らない病気で、お前さんはもう治っとるんならそれでいいじゃろう?」

あっけらかんとした口調で言う老人の言葉には裏表のない優しさが滲んでいた。

それにローは再び目頭が熱くなってきて、必死で涙を堪えた。

老人は手元のコップの中身を啜って、ほうと息をつく。

「つまるところ、お前さんは天涯孤独で行く宛も目的もないということじゃな?」

老人の言葉に考え込む。確かに目的はない。珀鉛病を治して生き延びることはほぼ達成しているし、コラさんを殺したドフラミンゴへの怒りはあるが、だからといっておれに出来ることなど無いも同然だろう。

答えに窮していると老人は目的が見つかるまでここに置いてやると言ってくれて、目を見開いた。

正直有難かった。見知らぬ土地で寝床も食事の確保も難しい中、その提案は心底助かる。

「ただし! 人生は常にギブ&テイク! お前にはワシの労働力となってもらう!!……ワシは安全な暮らしを与え、お前はワシに労働力を提供する! それでかまわんな!!」

なんだこのじいさん。こんな理屈をつけないと好意を表せないのか。

吹き出してしまうローに、老人も表情を和らげた。

そう言えば、このじいさんは何を仕事にしてるんだ? というか、おれはこのじいさんのこと何も知らねぇな。

「耳をかっぽじってよぉく聞けい!! ワシの名はヴォルフ!! 稀代の天才発明家じゃ!!」

ドヤァと胸を張るヴォルフに胡乱な目を向けてしまう。こんな胡散臭い出で立ちでよくそんな肩書きを名乗れたもんだな。詐欺師の間違いじゃねぇのか?

そんなローにヴォルフは目を剥いて怒鳴ってきた。そして次々に紹介される発明品だが、一見凄そうでも致命的な欠点だらけのものばかりだった。

よし、アンタはガラクタ屋だな。

そう呼んでやればヴォルフは「じいさんより酷くなっとる!!」と嘆いていた。

何でだ。ピッタリだろうが。

「とりあえず、改めて助けてくれたことには礼を言う。…正直ここに置いてもらえるのはありがてぇ。これから、よろしく頼む」

そう言って右手を差し出せばヴォルフは鼻を鳴らして笑い、その手を握り返してくれた。


***


それから、ヴォルフとの生活が始まった。

朝は日が昇る頃に起きてヴォルフの発明や畑の手伝いをして、色んな本を読み漁り、温かい飯を食い、夜は笑いあったりした。肌の色も少しずつではあるが色が戻り始めている。

そんな生活が始まって1週間が経とうとした頃。

「ん? ロー。お前さん肌が…」

ヴォルフの言葉に心臓がギュッと絞られたかのような心地になって、急いで姿見がある部屋に走った。

まさか、珀鉛病が再発したのか…!?

コラさんとの旅で何度も味わった迫害の記憶が蘇って、不安と恐怖が体の中で暴れ狂う。

「はぁ…はっ…」

息を切らして鏡の前に立つが、なかなか顔を上げられない。もし本当に再発していたら? という恐れが、恐怖が頭から離れなかった。

「…っ」

意を決して顔を上げた。そして鏡の中の自分と対面して間の抜けたような声を漏らしてしまった。

「……黄色い……?」

思わずペタペタと顔に触れて確認する。肌はあの忌まわしい白ではなく、檸檬のような黄色に染まっていた。色の抜けた箇所と相まって醜いまだら模様を描いている。

待てよ、この症状は黄疸か?

鏡を覗き込めば、顔の皮膚だけでなく白眼の部分も薄く黄色に色付いていた。典型的な黄疸の症状だろう。

珀鉛病の再発じゃないと分かったおれは脱力して座り込んでいた。

良かった…。全身を包むのは途方もない安堵だ。

「どうしたんじゃ?いきなり走り出して」

「あ、ああ。なんでもねぇ。ちょっと、その、気になったことがあって……」

慌てて取り繕うが、じっと見つめるヴォルフに誤魔化しは出来ないと観念して説明する。

「…珀鉛病の治療で、肝臓を切ったからそれでこんな色になったんだと思う」

ついでに肝臓は再生するから問題ないこともしっかり話せば、ひたりと向けられていた視線から圧が和らいだような気がした。

「具合は大丈夫なんじゃな?」

念を押すような言葉にしっかりと首肯すれば、ヴォルフはふぅーっと長い溜息を吐いた。

「心配させるでないわ、まったく…」

心底安心したというように言うヴォルフの言葉がじんわりと心に染み渡った。

「……ありがとう」

「ふん、ワシの大事な労働力を失う訳にはいかんからの。当然のことじゃわい」

そう言いながらぷいとそっぽ向いたヴォルフの耳が僅かに赤くなっていて、それがおかしくて笑ってしまった。


***


黄疸が現れて数日後には手足に浮腫みが出始めた。これも肝臓を切除した影響によるものだろう。今は1/3ほどしか残っていないため肝臓の機能が低下してしまっているのだ。

この浮腫みから引き起こされる痒みがどうしようもなかった。寝ても起きてもずっと痒みが続くため、ヴォルフに頼んで痒みに効く薬を調達してもらったり、自分で薬草を採りに行ったりして対応した。

ついでに利尿作用のある薬草も採っておいた。体に溜まった水分を排出しないと浮腫みは改善しない。

そして便秘にならないように生活を整えることに一番気を付けた。

肝機能低下で引き起こされる症状の中で、怖いのは肝性脳症だ。これを発症すると最悪、昏睡状態になる場合もある。

そんなことになればヴォルフに迷惑をかけるだけでなくコラさんの恩に報いることが出来なくなる。

それだけは避けたかった。

そうしてヴォルフの手伝いをしながら規則正しい生活を続けて1ヶ月が経つ頃には、おれの体は元の健康な状態に、肌の色も珀鉛病発症前の色に戻っていった。

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