第一幕〜フレバンス〜(その②)
近頃、フレバンスである病が流行り始めていた。それも、体に白い痣が浮かんでくるという病気だ。
見た目の奇異さから罹患者がこぞって病院に押しかけてきたが、フレバンス一の名医であるローの父をもってしても原因は分からない様であった。
父はそれをとても悔しがり、病が流行り出してから原因究明と治療法発見のために寝る間も惜しんで調べていた。
ロー達家族の前では普段通りにしてるが無理をしているような雰囲気を纏っているのが分かって、ローは心配で仕方なかった。
ローが病院の手伝いをしている時のこと。
肺炎で入院しているじいさんの清拭を手伝っていると、背中に白い痣がくっきりと浮かんでいた。
思わず手を止めてしまうとじいさんは振り返って苦笑した。
「それがな、だんだん大きくなってきているんだ。嫌になっちまうよ」
「……痛く、ない?」
恐る恐る聞くと、じいさんは大丈夫だよと言ってくれた。
「痛くはないよ。ただこうやって少しずつ広がっていってる」
「……」
「でもこの病気もトラファルガー先生がきっと治してくれるさ。何と言ったって、君のお父様はこの国一番の医者だからね」
そう言ってじいさんは頭を撫でてくれたけど、ローの不安は心の隅で燻り続けていた。
「…うん」
だから小さく頷くことしか出来なかった。
未知の病が現れてから1ヶ月が経った。
研究の結果、特徴的な色と成分の酷似性からその病気は「珀鉛病」と呼ばれるようになった。
同時に父は珀鉛病は中毒症であることも突き止め、感染の可能性は限りなく低いと診断を下した。
感染しないと聞いて国民達はひとまずホッとした様子だった。
治療法についてはまだ不明だったが、ローは父が必ず見つけてくれると信じていた。
感染するのではないかという目下の不安がなくなったため、フレバンスに束の間の平穏が戻ってきた。
見た目の不気味さはあるものの、痛みがないことが大きな理由だった。後は、トラファルガー医師が治療法を発見してくれれば大丈夫だと誰もが思っていたのだ。
***
珀鉛病は広まり続けていた。
国民達は不安を感じていたがそれを極力表に出さないよう努めた。何と言ったって、トラファルガー先生がいるから。先生がきっと治す手立てを見つけてくれるから自分達は普段通りに過ごしましょう、こんな時こそフレバンスの栄誉を讃えましょう。と連日祭りが開かれるようになった。
***
患者が徐々に増えてきた。
父も母も働き詰めになり、家族団欒の時間はぐっと減ってしまっていた。
今日もラミと二人だけの朝食をとっていると、父様と母様に会いたいとラミが愚図り始めてしまった。
「ラミ、父様も母様も今お仕事が大変なんだ。わがまま言ったらダメだろ」
「やぁだああ〜〜!お父様に会いたい〜!お母様に会いたい〜〜!!」
「…………」
ローは泣き喚く妹を宥めることしか出来なかった。本当はローも両親に会いたかった。父様に勉強を見てもらって頭を撫でて欲しかったし、母様には甘えて抱きしめてもらいたかった。
でもそんなこと言えば両親の負担になってしまうことは目に見えていたので、何も言えなかった。
我慢するしかなかった。大丈夫、きっと治療法は見つかる。
だって父様はこの国一番の名医だから!!
治療法が見つかって珀鉛病が治ったら目一杯甘えよう。これだけ働き詰めなんだから少しくらい休んでも大丈夫なはずだ。
だから、それまで。
「ラミ、お兄様がついてるからな。
一緒に待ってような」
「うぅ……ぐずッ、おにいさまああ」
「よしよし」
ローは泣きじゃくる妹の小さな体をぎゅっと抱き締めて頭をぽんぽんと撫でた。
「そうだ、ラミ!アイスを買いに行こう!今はお祭りで新しいアイスがたくさん出てるらしいぞ!」
「いいの?勝手に買いに行ったら母様に怒られちゃうよ」
「大丈夫さ、母様達には内緒だぞ?」
「うん!」
すっかり泣き止んだ妹を連れて家を飛び出す。
大丈夫。きっと、大丈夫さ。
父様は国一番の名医だから。
フレバンスは、いつも栄えてる。
数日後、ローは教会で祈りを捧げていた。
その日はちょうど珀鉛病のことが新聞で取り上げられていたため、ローはより一層熱心に祈っていた。
「治療法が早く見つかりますように。珀鉛病が治りますように」
どうか、幸せな時間が帰ってきますように。
「ローくん」
そんなローの元に来たのはシスターだった。熱心に祈りを捧げるローの隣で彼女も膝をつき、手を握り合わせて祈る。
「主よ、どうか我らに救いの手を差し伸べてください…」
彼女の言葉を聞きながらローも再び目を瞑った。
どうか、どうか、どうか…。
「私たちの祈りはきっと神様に届きます。信じる者の元に、神様は救いの手を差し伸べてくださいます」
ね?ローくん。
ローの両手を包み込むように握ったシスターの手首に白い痣が浮かんでいた。
珀鉛病の患者は増え続けた。
働き詰めの両親を見兼ねた病院が二人に休暇を出してくれた。
父はまだ治療法が見つかっていないことを悔やみながらも、久々に家に帰れることを喜んでいる様子であった。
久しぶりに家族みんなで過ごせることに、ローもラミも跳ね回るほど嬉しがった。
「ロー。この手術ではこっちの血管を使うんだ」
「なるほど。さすが父様…」
ローは久しぶりに父に勉強を見てもらっていた。父がいない間、ずっと1人で勉強をしていて、次に見てもらった時に褒めてもらいたくて頑張っていたのだ。
「さすが父様の子だな。お前が息子で誇らしいよ」
頭を撫でる手が、誇らしいと言ったその言葉が、ひたすらに嬉しかった。
わからないところを聞くとすぐに教えてくれて、それがとてもわかりやすくてやっぱり凄いやと思った。
流石は父様だ。
「ふふっそうか。父様ももっと頑張るからな」
そうして勉強していると、パタパタとラミが駆け込んできた。
「お兄様、お祭り行こうよ!」
「ダメだ、勉強中だ」
妹の申し出をバッサリと切り捨てる。お祭りもいいけど、今は父様との時間を楽しみたい。
「え〜!やだやだやだ!行こうよ!!」
「後でな」
ラミがむぅと頬を膨らませた。ローは構わずペンを走らせ続ける。
「ロー。勉強もいいけど、あまり根を詰めすぎると体に毒よ。たまには息抜きでもしてきたら?」
部屋に入ってきた母様にそう諭されるが、それを言うなら母様だって一緒じゃないか。
「そうだ!お母様も一緒に行こうよ!」
「私は…」
妹の誘いに母は困った顔をした。休暇をもらっていても、患者さんに何かあればすぐ呼び出しがかかるのだ。お祭りに行きたくても行けないのだろう。
「うん。三人で行ってくるといい」
父がローの頭をぽんと撫でて、母に頷いてやると母が苦笑した。
「…分かったわ。でも、30分だけよ。ウチには患者さんが大勢いるから」
「やったぁーーー!!!」
妹は飛び上がって喜んでいた。その頭を撫でながら、母が眉を下げて笑いかけてくる。
「ロー、一緒に行こう!お祭り」
「うん!」
久しぶりの家族水入らずの外出に胸を踊らせていた。
「すごい人だかりだ」
外は祭りの賑わいで溢れかえっていた。
色とりどりの紙吹雪がフレバンスの象徴である白と混じって町を彩っている。
中心部で開かれているパレードには、大勢の人が押し寄せていた。
「あっ見て見て!!あそこ!!」
ラミが指差す方向を見ると、屋台のアイスが目に入った。
「アイス屋だ!」
「食べよう!私ストロベリー味がいいな!!」
はしゃぐ妹に手を引かれて、ローも列に並ぶ。祭りの期間限定の味がたくさん並んでいる。
どれも美味しそうで選ぶのにちょっと時間がかかってしまった。
「美味しいね、お兄様」
「ああ、甘くてうまいな」
「お兄様のも食べたい!」
「じゃあ交換な」
「はーい!」
妹のアイスと交換してペロリと舐める。こっちも甘くて美味しいな。
「あ!こっちのメロン味が美味しい!」
キラキラと目を輝かせたラミがおれを見つめてくるからそのままメロン味を譲ってやる。
もう、全く。ラミは甘えたなんだから。
「ありがとうお兄様ー!!」
はしゃいだ妹が母の手を引いて走り出す。
「こっちこっち、早く早く!!」
「ラミ、そんなに急がなくても」
「お祭りが終わっちゃうでしょ?お兄様も早く!」
「終わるわけないだろ」
楽しそうな家族の声を聞きながら、ローもゆっくり着いて行った。
その途中、走っていたラミが急に胸を抑えて苦しみ出した。
「ラミ!!」
駆け寄って呼びかけるも、妹は母の腕の中でぐったりと目を閉じて苦しそうに呻くばかり。
服の袖から覗いている腕に白い痣が浮かんでいるのを見つけて、母が大きく息を呑んだ。
すぐさま家に帰り、妹を父の元へ連れていく。妹の状態を診察した父が頭を抱え、ローの隣で母が涙ぐんでいた。
忍び寄る不安に母の裾をぎゅっと握り締める。
この時点で妹の余命は1年もなかった。
その日を境に国中で倒れる人が増えた。その誰もが体に白い痣が浮かび上がり、激しい痛みを訴えている。
しかし治療法が分からなかった。何をしても治らないのだ。
病院はすぐさま満床になった。
父も、母も、これまで以上に働き詰めになり、ほとんど家に帰れない両親に代わってローが付きっきりで妹の看病をしていた。
「ラミ、大丈夫か?」
「うん……」
弱々しく頷く妹の頭を優しく撫でる。少しでも痛くなくなりますようにと願いを込めながら。そうしているとラミは表情を和らげて薄く微笑んだ。
「お兄様、ありがとう」
「何言ってんだよ。おれはラミのお兄様なんだから、当たり前のことだよ」
妹の頬をそっと包んで、額に自分のそれを合わせる。
「ラミ、大丈夫だよ。父様がきっと治してくれるから。だから、もう少し辛抱してくれ」
「うん。分かった……」
そうして眠りについた妹の寝顔を見ながら、ローは必死に祈った。
神様。神様。どうか妹を助けてください。
お願いします。なんでもします。
ラミが助かるならおれはどんな目に遭ってもいいです。
だから、どうか……。
それから数日間、ずっと付きっきりで看病をするローを見兼ねてか、よく知ってる看護師が訪ねてきて、看病を代わるから少し休みなさいと言ってくれた。ローは妹の傍を離れることを渋ったが妹の勧めもあって、久しぶりに自由の時間が出来たので町の様子を見に行くことにした。
町はいつもと同じ幻想的な景色を見せてくれている。純白に染まる町並みは何物にも汚されない美しさだった。
けれど、今はそれが翳りを帯びているように見えるのだ。
町を歩いていると、不穏な会話が聞こえてくる。
「珀鉛病は感染症で周辺国に出ることもできないって噂になってる…」
「トラファルガー先生は感染しないって言ってたぞ!?国境は封鎖されてしまっている様だし……どうして国は助けてくれないんだ!?隣のじいさんは全身が真っ白になって苦しみながら死んだって聞いたぞ!?」
「先生のとこも患者が多すぎててんやわんやしてるみたいだ…せめて他の国に協力を仰げれば…」
「先生が政府にも連絡したらしいがまだ返事が帰ってこないって……まさか俺たちは見捨てられたのか!?」
「せめて、せめて治療法が見つかれば…」
それ以上聞いていられなくて、ローは駆け出した。
ふつふつと湧き上がる不安がローを呑み込もうとしている。それから逃げるように走り続けた。
目的地もなく走り続けたローが辿り着いたのは教会だった。中に入ると大勢の住民たちが神様へ祈りを捧げていた。
「ロー!!」
友人達がローへ駆け寄ってくる。みんな、暗い顔をしていた。
「ラミが倒れたって聞いたんだけど、大丈夫?」
「うん、なんとか…」
「なあ、ロー!治療法はまだ見つかんねぇのか!?ウチの父様も母様も倒れたんだ!」
「ローの父様は国一番の名医なんだろ!?早く見つけてくれって頼んでくれよ!!」
ローの両肩を掴みながら叫ぶ友人たち。その目に浮かぶ焦燥と縋るような期待を見ていられなくて、目を逸らしてしまった。
「ロー!!!」
「頼むよ!!」
「なんとか言えよロー!!」
声を荒げる彼らにぎゅっと唇を噛み締めることしか出来ない。
悔しかった。父様なら絶対治療法を見つけてくれると、そう自信をもって言いたかった。でも。
父がどれだけ頭を悩ませ、苦悩しているのかをローは見ていた。父が一番苦しくてもどかしく思っているのだ。それを知ってるから、何も言えなかった。
「みんな、ローくんを責めてはいけません。ローくんのお父様が一番頑張っているのよ。私たちは信じましょう」
騒ぎを聞きつけたシスターが友人たちを諌めてくれた。屈んでおれの手をそっと包み込む、シスターの温かい手。
「ローくん。きっと、きっと大丈夫よ。信じていれば必ず救いの手は差し伸べられます」
「うん……」
優しい笑顔にローもようやく笑って返すことができた。
その日の夜、父が帰ってきた。疲れ切った様子の父はローの顔を見ると安心したように息を吐いた。
「父様、おかえりなさい……」
「ただいま、ロー。ラミはどうだい?」
「今寝てる……」
本当は治療法は見つけられたのかを訊きたかった。でも、父の疲労困憊の様子に喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「さて、ロー。検査をするからそこに座りなさい」
言われた通り椅子に腰掛ける。父は手早く道具を準備して、ローの腕から血液を採取し、目の前に膝を着いた。
「ロー。体に白い痣は出てないかい?」
「……」
父が家に帰ってきた時に必ずする質問だった。今まではこれ以上迷惑をかけないために黙っていたが、これ以上嘘をつくのは難しいだろう。
「…お腹のとこ、少し前から出始めた」
「……そう、か」
ローの答えに父は大きく目を揺らして、伏せると苦しそうに声を絞り出した。
「見せてみなさい」
ローはシャツを脱いで、肌を晒した。父には何度も見せたことのある体なのに、どうしてこんなにも緊張してしまうのだろうか。
「ああ……」
父が絶望したような声で呟く。そんなに悪い状態なのかと心配になるほど、青ざめた顔だった。
「父様…」
心配になって声をかけると、父はハッとした表情を浮かべた後、無理矢理笑顔を作った。
「大丈夫。父様が必ず治すから」
あまりに悲痛な声にローは何も言えなかった。
「それまで、ラミを頼んだぞ」
父の、大きくて大好きな手が頭を撫でてきても不安は晴れない。それでも、ローは頷いていた。今の自分には妹を看病することしか出来ないのだから。
おれが、ラミを守らなければならないのだから。
***
フレバンス中で不安と不満が渦巻き、際限なく膨らんでいく。
それは何も対応してくれないどころか、自分だけ逃亡した王族に対してであり、沈黙を続ける政府に対してであり、いくら経っても治療法を見つけられない医者たちに対してでもあった。
しびれを切らした一部の住民が国外への逃亡を図った。
しかしそれを待ち構えていたかのように周辺国は彼らを射殺。その一件がフレバンスの民の不満を爆発させた。
国民たちは銃を手に取り立ち上がった。皮肉なことに鉛玉なら腐るほどあるのだ。
反撃の大義名分を得た周辺国も一切の容赦はしない。防護服で身を包み、完全武装をした兵士達がフレバンスになだれ込んできた。
ついには、戦争が始まった。
いくら鉛玉があろうとも、訓練された完全武装の兵士に敵うはずもない。瞬く間に銃弾の嵐に倒れていくフレバンスの国民たち。
一方的な蹂躙だった。
国中のあちこちで、悲鳴と断末魔と爆発音が響き渡る。
幻想的な美しさと讃えられ、みんなの憧れだった白い町は、あっという間に血に染まった地獄と化した。
家路を急ぐ。その途中、広場でシスターと友人達を見かけた。
「ローくん!!」
こちらに気付いたシスターが駆け寄ってくる。
「さぁ、いらっしゃい!子供達だけは逃がしてくれるという優しい兵士さん達が現れたの!」
手を広げるシスターの後ろで友人達が口々に一緒に行こうと言ってくれていた。本当は、逃げたかった。ここで一緒に逃げれば助かるんだという希望に縋りたかった。でも。
「シスター!妹が死にそうなんだ…!今いけねぇよ!」
「ラミちゃんが…!?」
おれにはラミがいるんだ。おれはお兄様だから、妹を守らなきゃいけねぇんだ。
「じゃあ、次の避難船に乗せてもらいましょう。また迎えに来るわ」
「ロー!来ねぇのか!?一緒に行こう!」
「ラミだって、後で助けてもらえるよ!」
「ウチ、父様も母様も死んじゃった…!!でも、おれに生きろっつったから…!おれ絶対生きるんだよぉ…!!」
涙ながらにおれを呼ぶ友人達に泣きそうになってしまう。ごめんな、みんな……。でも、おれは行けないんだ。ラミを置いてはいけないんだ。
「ね?ローくん。この世に絶望などないのです。このように、慈悲深い救いの手は必ず差し伸べられます」
膝を着いて視線を合わせてきたシスターが頬に触れて微笑んだ。温かい手だった。
「…うん!」
シスターの言葉に希望をもらって笑顔で応える。そうだよな。きっと、誰かが必ず、救ってくれるはずだ。
「ロー、待ってるからなー!!」
「絶対来てねー!!」
「ラミと一緒に来いよー!!」
背後から聞こえてくる友人達の声に手を振って駆け出した。
遠くで聞こえていた悲鳴と爆発音がすぐ近くまで迫っていた。早く家に行かなければ、早く妹を連れて逃げなければ。
おれがラミを守るんだ!
病院の前の門に国民たちが群がって先生、先生と叫んでいた。今この人たちの前に行ったら捕まって妹のところに行けなくなる。正面から入るのは諦めて、裏口に回った。
廊下を駆け抜け、妹の部屋を目指す。その途中、聞こえてきた父の声にローは立ち止まった。
「無理だ…とてもそちらには…」
「医者が足りないんだよ!!血液も何もかも!!珀鉛を体から取り除く方法は必ずある…!!感染もしない!!!政府は何故これを報じない!?」
父が電伝虫に向かって見た事もない様子で怒鳴っていた。相手から通信を切られて父が悔しげに机を叩く。
「父様…」
恐る恐る呼びかけるとハッと振り返った父が慌てていつものように笑みを浮かべようとして失敗し、引き攣った顔になってしまっていた。
「ロー、シスターの所には行かなかったのかい?」
「でもおれ、ラミが心配だから…!ラミを置いて逃げるなんて出来ねぇよ!!」
「ロー…」
父が困ったように眉を下げた。でも譲れなかった。おれはラミを守るって誓ったんだ。たとえ、その命がもう1年も保たないものだとしても。
父がまとめた医療データを見て、理解してしまった。妹の命はもう、長くない。そして、ローの命にも、限りがあった。
それでも、最後まで守らないといけないんだ。
「なぁ父様!父様も一緒に逃げようよ!!子供だけ逃がしてくれるって話だけど、国一番の名医の父様ならきっと逃がしてくれるよ!!母様も連れてさ!!」
父の手を握って必死に訴えかける。けれど父は目を閉じて首を横に振った。
「私はここに残るよ」
「何でだよ!?」
「ここの患者さんを見捨てる事ができないからだ。私の力を必要としている人がいる限り、私は決して逃げたりしない。それが父様の、医者としての誇りなんだ。ごめんな、ロー」
優しく頭を撫でて語りかける父にローは泣きそうな顔で何度も首を振った。
「やだ!やだやだやだ!!父様!!一緒に逃げようよ!!一緒に生きようよ!!一緒に…ッ!!」
聞き分けのない子供のように首を振る。
そうして駄々を捏ねていれば、なんだかんだローに甘い父は折れてくれるだろうという打算もあった。
しかし、本当は分かっていた。いくら我儘を言っても、どうにもならない事を。父の真っ直ぐな眼差しを見ていれば、否が応にもそれが分かってしまう。
ぎゅっと唇を噛み締めて涙を堪えるローを、そっと父が抱き寄せた。
「ロー。お前は、私の誇りだよ。私の愛しい、愛しい、宝物。…どうか、生き延びてくれ」
「父様…?」
優しい声音で紡がれた言葉は最後の方が掠れて震えていた。心配になって見上げると、普段と変わらぬ笑顔で父がそこにいた。
「さあ、行きなさい。ラミを連れて逃げなさい。…ラミのこと、頼んだよ」
「うん…!」
父は最後にもう一度強く抱きしめてからローを解放して背を押した。
駆け出したローの背中が見えなくなるまで、父は笑顔で手を振っていた。
妹の部屋へと急ぐ。ドアを開けると家を出る前と同じく、ベッドの上で苦しそうに呻く妹の姿があった。
「お兄様…体が痛いよ。体がどんどん白くなる…」
痛みに呻きながら弱々しく訴える妹の手をそっと握り締める。
「もう少し辛抱しろ。父様は国一番の名医だ。きっと治してくれる」
妹を不安にさせないために、明るい声を出すよう努めた。こんなに弱ってるんだ。少しでも安心させたかった。
病院の外が騒がしい。
「お外はどうしてうるさいの…?」
「祭りだよ。フレバンスはいつも栄えてるから。…早く元気になって、また一緒に祭りに行こう!」
「…うん!」
妹が嬉しそうに笑ってくれたのが、ただ、救いだった。
入口の方から大勢の足音が聞こえてきた。もうここにも兵士達が乗り込んできたのだ。ここにいたらきっと見つかってしまう。でも、妹を連れて走っても、見つかったらすぐ追いつかれてしまうだろう。だから、隠さねえと。
「ラミ。お兄様の言うこと聞けるか?」
「え?うん……」
不思議そうな顔をする妹の体を起こして、抱え上げた。そのまま部屋を見渡して、目に付いたクローゼットに近付く。
「ラミ、ちょっとの間我慢してくれ」
「うん……」
妹をクローゼットの奥に入れて隠した。見つからなければ、きっと助かるはずだ。
「いいか、おれが来るまで絶対扉を開けちゃダメだからな。誰が来ても、静かにしてるんだぞ」
そう諭すと妹がこくんと頷いた。可愛い妹をぎゅうっと抱き締めて、クローゼットの扉を閉める。
部屋を出て、兵士達と鉢合わせにならないよう、慎重に走った。
父様と母様に兵士が来たと知らせないと。それで、隠れてやり過ごすんだ。
「感染者、2名駆除…!!」
廊下を駆けていく兵士に見つからないように物陰に身を潜め、足音が完全に曲がり角の向こう側に行ってしまってから、移動した。
早く、早く父様たちのところに行かなくちゃ。早く、早く、早く…
ぽた、ぽた、ぴちゃん……
水滴の落ちる音が部屋に響く。
「あ……ぁ……」
部屋の中は酷い有り様だった。至る所に銃弾の跡があり、壁中が穴だらけになっていた。患者さんの病状をまとめたカルテが床に散乱し、漏れた点滴に水没してしまっている。きっとあのカルテはもう使えないだろう。
「ぁぁ……ぁ…、」
床に水溜りを作っている点滴の液に赤が混じり込んでいた。おかしいな、あれはただの栄養剤のはずなのに。
「…ぐ、ぅ……っ、…、」
赤い水溜りの中心で、男女が折り重なるように倒れていた。男の人が女の人を庇うように腕を伸ばしているが、そんなのお構いなしに諸共に銃弾の礫は貫いていた。
「……、」
見るからに絶命していた。人の死にほとんど触れたことのないローから見ても、明らかに、どうしようもなく、その人たちは死んでいた。
死んでいた。見覚えがある人が、死んでいた。見覚えが、ありすぎる人だった。何故なら、ローが生まれてから最も長く時間を共に過ごしてきた人だったからだ。
『ロー!』
『ロー、一緒に行こう!お祭り』
父様と、母様が、死んでいた。
「母様ァ〜〜〜〜〜!!!父様ァ〜〜〜〜〜!!!」
その事実を脳が理解した瞬間、ローは泣きながら二人に飛び付いていた。二人を必死で起こそうとするも、どんなに揺すっても、再び目を開けることは決してなかった。
「まだ中にいるぞ!!」
声と同時に銃弾が雨のように降り注ぐ。迫る死の恐怖に思わず駆け出していて、窓を突き破って外に飛び出した。ローの小さな体を弾丸が執拗に追いかけてくる。それが怖くて恐くて、必死に走り続けた。
がむしゃらに、ただひたすらに走った。銃声が聞こえない場所を目指して、そんなところ、あるかも分からないが。
そうして走って、橋まで来ていた。相変わらず後ろの足音は消えてくれないが、恐ろしいことに前方からも足音が聞こえてきて、ローは立ち止まってしまう。
どうしよう、見つかったら殺される…ッ
父様と母様みたいに殺される…ッ
浮かぶのは穴だらけになって絶命している両親の姿だ。恐ろしい姿だ。
必死に隠れ場所を探すがどこに隠れても見つかってしまうという悪い予感が脳にこびり付いてしまっている。そうして見つかって、両親のようにローも穴だらけにされるのだ。
「感染者はどこだ!!!」
「こっちに逃げたぞ!!」
「追え、追えーー!!」
足音はすぐそこまで迫っていた。もう猶予はない。
一か八か、橋の下に飛び降りた。支柱を支える土台に体を滑り込ませて、小さく身を縮こませる。
「…!」
たった今、頭上を兵士達が通過していった。見つかるかもしれない恐怖に悲鳴をあげそうになる口を必死に両手で塞ぐ。
見つかりませんように。どうか、どうか、見つかりませんように…!
どれだけ時間が経ったのだろう。気が付けば、兵士達の足音は聞こえなくなっていた。それどころか、さっきまで耳に届いていた悲鳴も断末魔も聞こえなくなっていた。嫌な、静けさだった。まるで、この世に自分しか存在していないような錯覚さえしてしまうほどに。
怖くなって、橋の下からそっと頭を覗かせた。顔を出してもあの恐ろしい足音は聞こえてこない。何度も確認してから、ローは慎重に橋の下から出てきた。
誰もいない。見渡す限り、ロー以外に生きている人は、誰もいない。
「……」
橋の傍で転がっているナニカには目もくれず、ローは歩き出した。
ごうごう、ごうごうと町が燃えている。その炎の勢いはとても強く、このままではきっと町全体が焼け野原になってしまうだろう。
ふらふらと、宛てもなくローは彷徨う。
道端で、燃える民家のそばで、壁に寄りかかってごうごうと燃えているモノは何だろう?至る所に転がっているモノは何だろう?
あついな。とてもあつい。喉が渇いた。そうだ、広場には噴水があったよな。そこに行けば水がある。そこに行こう。
ふらりと、ローは広場に訪れていた。水を求めて、渇いた喉を潤してくれる癒しを求めて、歩いて、足のつま先に何かがぶつかった。
「あ…ああぁ〜〜〜!」
それを見下ろして、それが何であるのか理解して、現実に引き戻された。
『ね、ローくん。慈悲深い救いの手は必ず差し伸べられます』
力が抜けて座り込んでしまったローの眼前に、冷たくなったシスターが、転がっていた。
「シスターァアアア〜〜〜〜〜!!!」
『一緒に行こう!!』
『おれ絶対生きるんだよぉ〜〜〜!!!』
その後ろにはまた会おうと約束して、避難船に乗り込んだはずの友人達が、転がっていた。
「みんなぁぁあああ〜〜〜〜!!!」
込み上げてくる感情を地面に叩きつける。何度も何度も叩きつける。そうしていないと狂ってしまいそうだった。
地を叩き続けて、ひとしきり叫んで、ローは立ち上がった。
そうだ。まだ残ってる。
おれには、ラミが、残ってる。
「ラミ…ラミ。……おれが、お兄様が…守ってやるからな…お兄様が守って…守らないと……」
うわ言のように呟きながら、病院を目指して歩き出した。道中、沢山の死体を見かけたが、それに構わずに、ただ家路を急いだ。
大丈夫。ラミはちゃんと見つからないように隠した。きっと見つかってない。大丈夫、大丈夫。
ラミはずっとおれの帰りを待ってるんだ。早く迎えに行って、二人で逃げよう。
もう兵士もいない様だし、国境を越えて珀鉛病を治してもらおう。
周辺国がダメなら、もっと、もっと、遠い場所で、珀鉛病の噂が届いてないところまで逃げて、治してもらおう。
大丈夫。世界は広いからきっと治せる医者は必ずいるさ。
生きていればきっと大丈夫だから。
だから………
そんな希望は、燃え上がる病院と一緒に灰になって、消えていった。
病院に辿り着いた時には、既に建物は火に包まれていた。全てが真っ赤な劫火に包まれて、もう手遅れだと分かってしまった。
「…あ……あ……、あ……」
声にならない悲鳴をあげる。全身から力が抜けて、その場に崩れ落ちる。
帽子のつばをぎゅっと握りしめて、込み上げる絶望を、大きく開けた口から溢れさせた。
「病院がァ〜〜〜〜!!!!ラミ〜〜〜〜〜!!!!」
ラミが、死んでしまった。
死んでしまった。
死んでしまった……ッッッ!!!
守れなかった。
あれだけ守ると誓ったのに。
おれはお兄様だから絶対守るんだと誓ったのに。
守れなかった。何も出来なかった。
間に合わなかった。
「ああああぁぁぁぁああああああああああああああぁぁぁぁ!!!!!」
膝を抱えて、顔を伏せて、大声で泣いた。泣いて泣いて泣き続けて、声が枯れても、叫び続けた。
『こうして俺の故郷、フレバンスは滅亡した…』
台本を読み上げるかのような声音で大人のローの声が静かに告げる。
燃え盛る病院を前に喉を潰さん勢いで泣き叫ぶ少年の後ろ姿が徐々に暗くなっていき、やがて暗転した。
フレバンスは、滅亡した。