第一幕(みんなの感想編その②)
『さあみんな、写真を撮りますよ!』
教会の前で若いシスターの呼びかけに子供達がわらわらと集まってくる。
その中で彼のトレードマークである“アザラシ柄”の帽子が見当たらないことに一同は首を傾げた。
画面内でも子供達が彼、ローがいないと探している様子。
「キャプテンってばすぐどっか行っちゃうんだもんなぁ」
「そうそう、自由奔放だよなぁ」
「子供の頃からああとかもう筋金入りだなこりゃ」
旗揚げ組の会話に他のクルーもうんうんと同意する。
あわや捜索が始まるかと思われた時、教会の裏から何食わぬ顔で歩いてきたのは探し人のローその人だった。
『もー! どこ行ってたんだよロー!』
『ん? カエル捕まえてた』
そう言ってじゃーん!と掲げられたのは体長30cmはありそうな大きなガマガエルだ。男子からは歓声があがり、女子からは悲鳴があがる。
わちゃわちゃと騒ぐ子供達の注目を集めるようにシスターがパンパンと手を叩いた。
『ローくん! 早くいらっしゃい! さぁみんな並んで』
『はーい!!』
元気よく返事をした子供達が教会の前に並びシスターの号令がかかる。
『じゃあ撮るわよー! はい、チーズ!』
この日撮った集合写真はローの勉強机に置かれ、彼が旅立つその日までずっと飾られることとなる。
「トラ男笑ってねーじゃん。カエル持ったままだし」
「隣のレディがドン引きしてんじゃねぇかよ…」
「変わった子だったのねー」
「うまそーなカエル! 食うのかな」
「いや食わねーだろ。…食わねーよな?」
わいわい言いたい放題で記念撮影を見ていた面々だが、その写真をよく眺めては頬を緩ませているローを見て、彼に友達思いな一面が追加された。
そんな幸せ溢れるフレバンスに近頃ある病が流行り始めた。
それは、体に白い痣が浮かんでくるという病気だ。
「あれ? あの症状って…」
チョッパーが首を傾げる。いつか文献で読んだ気がするのだが、なかなか思い出せない。
フレバンスで流行り出した病気は、見た目の奇異さから罹患者がこぞって病院に押しかけてきたが、国随一の医者であるローの父をもってしても原因は分からない様であった。
ローの父はそれをとても悔しがり、原因と治療法解明のため寝る間も惜しんで調べていた。
その甲斐あってか、原因は特定され、その病は『珀鉛病』と名付けられた。
その病名を聞いてチョッパーはヒュッと息を呑む。まさかこんな所でその名前を聞くとは思わなかったのだ。
「待ってくれ!! 珀鉛病だって!?!?」
叫ぶチョッパーに詳しくを知らない者達の視線が集まる。北の海出身者が顔を顰め、ロビンとセンゴクが目を伏せた。
「何か知ってんのか?」
「珀鉛病は少し前に北の海のある国で流行した感染症だよ! 非常に致死率が高くて治療法も無いから隔離するしかなくて……それで国も滅んだって、」
「違うッッ!!!!」
チョッパーの言葉を遮って叫んだのはペンギンとシャチ、ベポだった。皆が彼等に注目する。
「珀鉛病は感染しない。中毒症だ」
「何言ってんだ!!ちゃんと文献に感染症って載ってたんだぞ!!それに医学書にだって、」
対抗するべくペンギンが口を開くより早く後ろの方から割って入る声があった。
「それはデタラメだ。珀鉛病は絶対に感染しない」
一同がバッと振り返る先、声の主はドフラミンゴだった。何故この男が…? と皆の顔に困惑が浮かぶ。
チョッパーが目を剥いて応戦した。
「お前が何を知ってるって言うんだ!! 何を根拠に『絶対』なんてこと…!!」
「俺たちファミリーがその証拠だ。俺たちは珀鉛病を発症したローと2年程過ごしたが、誰一人として感染はしなかった」
これで満足か? Dr.と侮蔑の篭った眼差しで吐き捨てられ、その威圧感に気圧されたチョッパーはたじろいでしまう。
画面内でもトラファルガー医師が感染の危険性は無いと発表するのを見て、ふとある事に気付いてしまった。
「あ、え…? 待ってくれ、いや、待って……じゃあ何で『感染症』として伝わってるんだ!? あの文献や医学書は政府公認のものだったぞ!?!?」
その問にドフラミンゴが答えることはなかった。億劫そうに息を吐き、外された視線に詰め寄ろうとするチョッパーを引き留めたのはロビンだ。
「答える気は無さそうね。落ち着いて、チョッパー。答えはきっとあの中にあるはずよ」
そう言って彼女が見やるスクリーンに、チョッパーも唇を噛み締めて向き直った。
珀鉛病は広まり続けていた。
国民達は不安を感じていたがそれを極力表に出さないよう努めているようであった。
ローの父であるトラファルガー医師がきっと治療法を見つけてくれる。だから普段通りに過ごしフレバンスの栄誉を讃えましょう、と連日祭りが開かれるようになった。
その行動が一同にはどこか痛ましいものに見えたが、それを口に出す者は居なかった。
患者は増え続けているようで、ローの両親は働き詰めになり、トラファルガー家の家族団欒の時間はぐっと減ってしまっていた。
ローが妹と二人だけの朝食をとっているのを見て、ふとある事に気付いた。
「あれ? トラ男パン食ってるぞ?」
ルフィの呟きに一味とハートのクルーが騒然となる。
「パン食えたんかいっ」
「なんでだよ! 子どもの頃食えて大人になったら食えないって逆じゃねーのか普通!?」
「ローの野郎、故郷のパンは良くて俺のパンは食えねぇとか舐めたマネしやがって…」
怒りに煙草をへし折ったサンジが今度彼と会ったら必ずパンを食べさせようと決意していた。
そんな彼らの反応も露知らず、静かに食事をしていた画面内の二人だが、その途中、両親に会いたいとラミが愚図り始めてしまった。
『ラミ、父様も母様も今お仕事が大変なんだ。わがまま言ったらダメだろ』
『やぁだああ〜〜! お父様に会いたい〜!お母様に会いたい〜〜!!』
涙を零す妹にローもぐっと唇を噛み締めている。その顔は泣くのを我慢しているように見えた。きっとローも寂しいのだろう。けれどそれを前面に出せば妹がもっと寂しがることが分かっているから、ああして我慢しているのだ。
同じ兄だからこそ、下の兄妹のために堪えるローの気持ちが手に取るように分かって、サボはぐっと口を引き結んだ。
『ラミ、お兄様がついてるからな。一緒に待ってような』
『うぅ……ぐずッ、おにいさまああ』
『よしよし』
ローが泣きじゃくるラミの小さな体をぎゅっと抱き締めて頭をぽんぽんと撫でている。妹を見つめるその眼差しはとても優しくて、温かかった。
「…キャプテンがおれを撫でてくれる時とおんなじ目をしてる」
自分にも兄がいるから、同じ目をするローのことを兄ちゃんみたいだと感じることが幾度もあった。
もう会えないベポの兄。妹を見つめる優しい目。ベポを撫でるローの眼差し。全てが重なって、一緒くたになってベポの心を掻き乱す。
「キャプテン…早く会いたいよ…」
淋しそうなベポの声がぽつりと館内に響いた。
数日後、ローは教会に訪れていた。
『治療法が早く見つかりますように。珀鉛病が治りますように。どうか、幸せな時間が帰ってきますように』
祭壇の前で跪き、ローが熱心に祈っている。
神さま。神さま。神さま。
何度も囁きながら紡がれる祈りの言葉は、どこまでも純粋で、切実な響きを纏っていた。
「……」
何とも皮肉なものだ。
ステンドグラスから差し込まれる光に照らされた少年の姿はまるで聖画のよう。
どこまでも、どこまでも、その願いは清廉だというのに。
天敵に祈られた神は果たしてその願いを聞き届けてくれるのだろうか?
まァ…その結果がああなのだが。
「…フン」
ドフラミンゴは祈り続けるローに低く鼻を鳴らした。
珀鉛病が流行してから働き詰めの両親を見兼ねて病院が二人に休暇を出してくれた。
ローの父はまだ治療法が見つからないことを悔やみながらも、久々に家に帰れることを喜んでいる様子であった。
久しぶりに家族みんなで過ごせることに、ローもラミも跳ね回るほど嬉しがった。
久しぶりの父との勉強を楽しむローの下に妹が駆け寄ってきて一緒に祭りに行こうと誘っている。最初は断っていたローも、父と母に言われ、最後には折れて母と妹と三人で祭りに行くことになった。
町は祭りの賑わいで溢れかえっていた。
色とりどりの紙吹雪がフレバンスの象徴である白と混じって町を彩っている。
中心部で開かれているパレードには、大勢の人が押し寄せていた。
『こっちこっち、早く早く!!』
『ラミ、そんなに急がなくても』
『お祭りが終わっちゃうでしょ? お兄様も早く!』
『終わるわけないだろ』
ラミが楽しそうにはしゃいでパレードに向かう。その途中、彼女が急に胸を抑えて苦しみ出した。
『ラミ!!』
駆け寄って呼びかけるも、妹は母の腕の中でぐったりと目を閉じて苦しそうに呻くばかり。
服の袖から覗いている腕に白い痣が浮かんでいるのを見つけて、ローの母が大きく息を呑んだ。
「珀鉛病が…!」
「ラミちゃん…」
ベポ達が心配そうに呟く。
ロー達はすぐさま家に帰り、妹を父の元へ連れて行った。診察した父が頭を抱え、母が涙ぐんでいた。ローが母の裾をぎゅっと握る。
治療法はまだ見つかっていない。
嫌な予感が止まらなくて、一同の胸中に不安が膨らんでいく。
崩壊はもう、そこまで迫っていた。
その日を境に国中で倒れる人が増えた。その誰もが体に白い痣が浮かび上がり、激しい痛みを訴えている。
しかし治療法が分からなかった。何をしても治らないのだ。
病院はすぐさま満床になった。
ローの両親はこれまで以上に働き詰めになりほとんど家に帰れない二人に代わって、彼が付きっきりで妹の看病をしていた。
『ラミ、大丈夫?』
ローが苦しそうな妹の頭を優しく撫でる。そうしていると妹は表情を和らげて薄く微笑んだ。
『お兄様、ありがとう』
『何言ってんだよ。おれはラミのお兄様なんだから、当たり前のことだよ』
『…うん』
ラミの頬をそっと包んで、額に自分のそれを合わせる。
『ラミ、大丈夫だよ。父様がきっと治してくれるから。だから、もう少し辛抱してくれ』
『うん。分かった……』
眠りについた妹の手を両手で握りしめて必死に祈っているローを一同は見つめることしかできない。
『神様。神様。どうか妹を助けてください。
お願いします。なんでもします。
ラミが助かるならおれはどんな目に遭ってもいいです。だから、どうか…』
ただひたすらに妹を想う兄の姿は痛々しいほどに健気だった。
それから数日後、ローは町へと出かけていた。町はいつもと同じ幻想的な景色を見せてくれている。純白に染まる町並みは何物にも汚されない美しさだ。
しかし、今はそれが翳りを帯びているように一同の目に映った。
町中で不穏な会話が聞こえてくる。
『珀鉛病は感染症で周辺国に出ることもできないって噂になってる…』
『トラファルガー先生は感染しないって言ってたぞ!? 国境は封鎖されてしまっている様だし……どうして国は助けてくれないんだ!? 隣のじいさんは全身が真っ白になって苦しみながら死んだって聞いたぞ!?』
『先生のとこも患者が多すぎててんやわんやしてるみたいだし…せめて他の国に協力を仰げればなあ』
『先生が政府にも連絡したらしいがまだ返事が帰ってこないって……まさか俺たちは見捨てられたのか!?』
『せめて、せめて治療法が見つかれば…』
それ以上聞いていられなくて、ローは駆け出してしまう。
「どういう事だよ…何で国は、政府は苦しんでる人を救ってくれないんだよッ!!」
チョッパーが苛立たしげに叫ぶもそれに答える声はない。
不穏になっていく空気に海兵達の表情が曇る。センゴクが痛みを耐える様に顔を歪めていた。
『なあ、ロー! 治療法はまだ見つかんねぇのか!? ウチの父様も母様も倒れたんだ!』
『ローの父様は国一番の名医なんだろ!? 早く見つけてくれって頼んでくれよ!!』
教会へ訪れたローに詰め寄る友人達。彼等の袖から覗く手や首に白い痣が浮かんでいるのを見つけて館内で息を詰める音があがった。
『ロー!!!』
『頼むよ!!』
『なんとか言えよロー!!』
声を荒げる彼らに一同もぎゅっと唇を噛み締める。辛そうなローの表情に胸が引き裂かれそうになった。
その夜、久しぶりに帰宅した父と話すローの表情は以前と見違えるほど暗い。
『ロー。体に白い痣は出てないかい?』
『…お腹のとこ、少し前から出始めた』
『……そう、か』
彼の答えに父は大きく目を揺らして、伏せると苦しそうに声を絞り出した。
『見せてみなさい』
ローはシャツを脱いで、肌を晒した。健康的な肌色の中に一部、白がくっきりと浮かんでいる。ペンギン達の喉がヒュ、と鳴った。
「そんな…」
『ああ……』
ローの父が絶望したような声で呟く。その表情はこちらが心配になってしまうくらい青ざめていた。
『大丈夫。父様が必ず治すから』
あまりに悲痛な声に誰も何も言えなかった。現在でも珀鉛病の治療法は発見されていない。それが、彼等への残酷な答えだった。
フレバンス中で不安と不満が渦巻き、際限なく膨らんでいく。
ある日、フレバンスの王族が政府の手を借りて逃亡した。それを有刺鉄線越しに見た国民達は怒り狂い非難する声が飛び交っている。
しびれを切らした一部の住民が国外への逃亡を図るもそれを待ち構えていたかのように周辺国は彼らを射殺。
「なんてことを…」
呆然とたしぎが呟いた。
「檻からモンスターを出さないためさ」
嘲るように言うドフラミンゴの言葉に一同の顔が強ばる。
「珀鉛病の患者が何と呼ばれていたか知っているか?」
フレバンスの国民の不満が爆発し彼等は銃を手に取り立ち上がった。
反撃の大義名分を得た周辺国はこの時を待っていたかのようにフレバンスに攻め込んでいく。
「『ホワイトモンスター』だとよ。政府が付けた名前だ。見た目もそうだが、何でも、珀鉛病に感染するとモンスターのように凶暴化するから、だったか?」
なぁ?センゴク。
話を振られた彼は苦虫を潰した様な顔で沈黙している。
画面内で反抗する『ホワイトモンスター』達を次々に射殺していく防護服を着た兵士達が映される。
それは一方的な蹂躙だった。戦争とすら呼ぶに烏滸がましい殺戮だ。
『感染者は例外なく駆除しろッ!!』
血に塗れ倒れていく住民たちに一同の顔は凍り付いている。
幻想的な美しさと讃えられ、人々の憧れだったフレバンスは、あっという間に血に染まった地獄と化した。
国中のあちこちで、悲鳴と断末魔と爆発音が響き渡っている。
その戦火の中を、駆け抜ける小さな影があった。ローだ。広場に来た彼に走り寄って来たのはシスターと友人達だった。
『さぁ、いらっしゃい! 子供達だけは逃がしてくれるという優しい兵士さん達が現れたの!』
手を広げるシスターの後ろで友人達が口々に一緒に行こうと叫んでいる。
チョッパー達はホッと息をついた。子供だけでも助かるなら良かったと。
『シスター! 妹が死にそうなんだ…! 今いけねぇよ!』
『ラミちゃんが…!?』
『じゃあ、次の避難船に乗せてもらいましょう。また迎えに来るわ』
『ロー! 来ねぇのか!? 一緒に行こう!』
『ラミだって、後で助けてもらえるよ!』
『ウチ、父様も母様も死んじゃった…!! でも、おれに生きろっつってたから…! おれ、絶対生きるんだよぉ…!!』
涙ながらに彼を呼ぶ友人達に泣きそうに顔を歪めるロー。シスターが膝を着いて、彼の頬にそっと手を伸ばした。
『ね? ローくん。この世に絶望などないのです。このように、慈悲深い救いの手は必ず差し伸べられます』
目に涙を浮かべ、優しく微笑むシスター。彼女達に救いの手が差し伸べられることをひたすらに祈るばかりだ。
『ロー、待ってるからなー!!』
『絶対迎えに行くからねー!!』
『ラミと一緒に来いよー!!』
友人たちの声にローは何度も手を振って駆け出した。
白い石畳の上を息を切らしながらローが走る。病院の正門には国民達がローの父に助けを求めて群がっていた。尋常ではない彼等の様子にローは裏口から病院内に入った。
妹の部屋へと急ぐ中、聞こえてきた父の話し声に足を止める。
『無理だ…とてもそちらには…』
『医者が足りないんだよ!! 血液も何もかも!! 珀鉛を体から取り除く方法は必ずある…!! 感染もしない!!! 政府は何故これを報じない!?』
ローの父が電伝虫に向かって声を荒らげていた。相手は取り合う気もないのか通信を切られてしまい、彼は悔しげに机を叩く。
この時はっきりとフレバンスは世界から見捨てられたのだと、一同は理解した。
そして、フレバンスの国民達の運命も。
『父様……』
ローの呼びかけにハッとして振り返った父は笑顔を作ろうとして失敗し引き攣った顔になっていた。
彼の顔に珀鉛病の痣が浮かんでいるのを見て皆は言葉を詰まらせてしまう。
『なぁ父様! 父様も一緒に逃げようよ!!子供だけ逃がしてくれるって話だけど、国一番の名医の父様ならきっと逃がしてくれるよ!! 母様も連れてさ!!』
ローが父の手を握って必死に訴えかけるが、彼は目を閉じて首を横に振った。
『私はここに残るよ』
『何でだよ!?』
『ここの患者さんを見捨てる事ができないからだ。私の力を必要としている人がいる限り、私は決して逃げたりしない。それが父様の、医者としての誇りなんだ。ごめんな、ロー』
それは医療従事者としては尊ぶべき姿なのだろう。その姿勢は立派なものであるが、子供にとっては、あまりに残酷な答えだった。
『やだ! やだやだやだ!! 父様!! 一緒に逃げようよ!! 一緒に生きようよ!! 一緒に…ッ!!』
聞き分けのない子供のように首を振る。
ローは涙目になりながら、縋り付くようにして叫んでいた。
父が困った様に眉を下げる。
それに父の意思は変えられないことを悟ったのか、ローはくしゃりと顔を歪めて唇を噛んだ。
その小さな体が引き寄せられ、抱き締められる。
『ロー。お前は、私の誇りだよ。私の愛しい、愛しい、宝物。…どうか、生き延びてくれ』
『父様…?』
優しい声音で紡がれた言葉は最後の方が掠れて震えていた。心配になって見上げると、普段と変わらぬ笑顔で父がそこにいる。しかし、一同には見えていた。
彼の目に浮かぶ涙を。
サンジとドレークがそれを眩しいものを見るかのように目を細めて見つめていた。
『さあ、行きなさい。ラミを連れて逃げなさい。…ラミのこと、頼んだよ』
『…うん!』
父は最後にもう一度強く抱きしめてからローを解放して背を押した。
駆け出したローの背中が見えなくなるまで、父は笑顔で手を振っていた。
『……』
息子の姿が見えなくなり、ローの父は振っていた手を下ろすと膝の上で固く握り締めた。
悲鳴と爆発音が先程より大きくなっている。直に、ここにも兵士がなだれ込んでくるのだろう。
彼は窓の向こう、遥か先の空を見上げて跪き、両手を組んだ。
『神様。神様。どうか、どうか。あの子を…私の子を……お守りください』
子の無事を願う親の姿は、ひどく眩しいもののように映る。
祈りを終え、静かに立ち上がった彼の表情は凪いでいた。きっと、ローの父は自分の死をとっくに悟っていたのだろう。それでも患者のために、誰かのために動く姿は誉れ高き医者の鑑であった。
チョッパーは一人の立派な医者の姿を、その目に焼き付けていた。
部屋へ入るとベッドの上で苦しそうに呻くラミの姿があった。
『お兄様…体が痛いよ。体がどんどん白くなる…』
痛みに呻きながら弱々しく訴える妹の手をローがそっと握り締める。
『もう少し辛抱しろ。父様は国一番の名医だ。きっと治してくれる』
彼女を不安にさせないために、彼は明るい声を出すよう努めていた。大好きな兄の言葉に妹の表情が僅かに和らぐ。
悲鳴と銃声が漏れ聞こえてくる。
『お外はどうしてうるさいの…?』
『祭りだよ。フレバンスはいつも栄えてるから…早く元気になって、また一緒に祭りに行こう!』
それは優しい嘘だった。少しでも妹を安心させたいと思う兄の優しさが滲み出ていた。
大勢の足音が聞こえてきて、ローは表情を引き締めた。
不思議そうな顔をする妹の体を起こして、抱え上げた。そのまま部屋を見渡し目に入ったクローゼットに近付く。
『ラミ、ちょっとの間我慢してくれ』
『うん……』
ラミをクローゼットの奥に入れて隠した。見つからなければ、きっと助かるはずだ。
『いいか、おれが来るまで絶対扉を開けちゃダメだからな。誰が来ても静かにしてるんだぞ』
そう諭すと妹がこくんと頷いた。可愛い妹をぎゅうっと抱き締めて、クローゼットの扉を閉める。
「ラミちゃん…」
「どうか見つかりませんように…」
皆は彼女が見つからないよう祈っていた。
部屋を出たローは両親を探して廊下を慎重に移動していた。近くを曲がり角の向こう側へと兵士達が走っていく。
『感染者、2名駆除!!』
彼等はそのまま角を曲がって見えなくなったが、聞こえてきた単語に一同は息を呑んだ。
悪い予感があった。どうかそれが思い過ごしであることを願うばかりだ。
「どうか、どうか、どうか……」
両手を組んで祈るハートのクルー達。固唾を飲んで見守る他の者達。
ヒュッ、と誰かが喉を引き攣らせた音が響いた。
ぽた、ぽた、ぴちゃん……
水滴の落ちる音が聞こえてくる。
『あ……ぁ……』
部屋の入り口でローが茫然と佇んでいる。
部屋の中は酷い有り様だった。至る所に銃弾の跡があり、壁中が穴だらけになっていた。患者の病状をまとめたカルテが床に散乱し、漏れた点滴に水没してしまっている。
『ぁぁ……ぁ…、』
床に水溜りを作っている点滴の液に赤が混じり込んでいた。
赤い水溜まりの中に、折り重なるように倒れている男女が、二人。
「そんな……」
誰かの絶望に満ちた呟きが零れた。
二人は、ローの父と母だった。
『母様ァ〜〜〜〜〜!!! 父様ァ〜〜〜〜〜!!!』
ローが泣きながら二人に飛び付き、必死で起こそうとするも、どんなに揺すっても彼等が再び目を開けることは決してなかった。
ローの両親が、殺されていた。
『まだ中にいるぞ!!』
聞こえてきた声と同時に銃弾が雨のように降り注ぐ。
「キャプテンッッッ!!!!」
ベポが叫ぶ。
迫る死の恐怖に弾かれるようにローは駆け出し、窓を突き破って外に飛び出した。少年の小さな体に弾丸が執拗に追い縋る。それらから逃れるために必死に、必死に走り続けた。
銃声が聞こえない場所を目指して、ローはがむしゃらに走った。
そうして走って、橋に来ていた。兵士を振り切ることは出来ず足音はすぐそこまで迫っている。更に恐ろしいことに前方からも足音が聞こえてきて、ローは立ち止まってしまった。
「キャプテン逃げてーーーー!!!!!」
「トラ男ーーーー!!!!」
ベポ達が叫んでも動けず、橋の手前に立ち尽くしてしまう。
背後から追っ手が姿を現しかけたその瞬間、ローは橋の下に飛び降りた。
支柱を支える土台に体を滑り込ませて、小さく身を縮こませる。
間一髪、頭上を兵士達が通過していった。ローは見つかるかもしれない恐怖に悲鳴をあげそうになる口を必死に両手で塞いだ。
その目は瞳孔が開き、涙が溢れていた。鼓動は激しく脈打ち、呼吸が浅く、速くなる。全身はガタガタと震えていた。
橋の上から、絶叫と断末魔が何度も何度も響いてくる。痛みにのたうち回る絶叫、命乞いの悲鳴、助けを求める声、銃声、尾を引く断末魔、そして、『駆除』の言葉。
「……目を閉じて良かったなんて、思いたくありやせんが…」
こいつァ、よう堪えます。藤虎が顔を伏せた。
幾人かは耐えきれず耳を塞いでいた。
ローは耳を両手で押さえて、目を固く閉じている。
『いやだ、いやだいやだいやだ……』
ただただ怯えることしか出来なかった。
やがて叫びは止み、静寂が訪れた。
嫌な、静けさだった。
まるで、この世にローを残してみんな消えてしまったような錯覚をしてしまうほどに。
怖くなって、橋の下からそっと頭を覗かせた。顔を出してもあの恐ろしい足音は聞こえてこない。何度も確認してから、ローは慎重に橋の下から出てきた。
誰もいない。見渡す限り、ロー以外に生きている人は、誰もいない。
ただ、体中から血を流した死体がそこら中に転がっているのみだ。
あまりに凄惨な光景に、一同の表情は凍り付いてしまっている。海軍も、海賊も、その他も例外なく絶句していた。
ごうごう、ぱちぱち。
ごうごう、ぱちぱち。
町は火の手に包まれていた。幻想的な白に染まる、人々の憧れの町フレバンスは、どす黒い赤と紅で塗り潰されてしまっていた。
「…っ」
滅びの炎に包まれる町に、ロビンは手が震えてしまうのを止められない。
『……』
ローが歩き出した。焦点の合っていない目には下に転がる死体は映っていない。彼は生存者を探すためだけに歩いていた。
ふらふらと歩き続け、広場に辿り着いたローのつま先に何かがぶつかった。
『…………、……ぁ、……ぇ……?』
彼の口から小さな音が漏れた。
呆然とした表情で、ゆっくりと視線を下に遣り、蹴ってしまったモノが何かを認識して、座り込んでしまう。
『シスターァアアア〜〜〜〜〜!!!』
シスターが、殺されていた。
彼女の顔の周りには涙の池が出来ており、苦悶の表情で地に五本線を引いていた。
『みんなぁぁあああ〜〜〜〜!!!』
その後ろにはまた会おうと約束して、避難船に乗り込んだはずの友人達が、殺されていた。
虚ろに目を開く者、絶叫の形相のまま事切れた者、顔面を血で染めあげている者。様々な死に顔の友人達に共通するのは、誰一人として安らかな表情の者はいなかった。
「……ッッッ!!!」
ナミが喉の奥で絶叫を迸しらせた。
ローは泣きじゃくりながら込み上げてくる感情を地面に叩きつけた。何度も何度も叩きつけて、叫んでいた。
『ぁ……ラミ…』
ぽつりと呟いてローが立ち上がる。
『ラミ…ラミ、……おれが、お兄様が…守ってやるからな…お兄様が守って…守らないと……』
うわ言のように呟きながら、病院を目指して歩き出す。
道中、沢山の死体がローに向かって手を伸ばしていたが、彼の目にはそれらは映っていなかった。
もうローには妹しか残されていなかった。隠した妹を迎えに行って、二人で逃げて、病気を治して、……と、そのようなことを考えていないと彼の心は現実に耐えられそうになかった。
そんな、安易な希望に縋りついた結果、
『……あ……ぁ、…ぁ』
病院に辿り着いた時、既に建物は火に包まれていた。全てが真っ赤な劫火に包まれていて、もう手遅れだと皆は理解してしまった。
「あ……ぁ…、そんな、そんな、キャプテン…」
「うそ、だろ……、ラミちゃん…」
「なんで…こんなこと……」
ベポとペンギン、シャチが膝をつく。他の者も絶望の表情で涙を流している。
崩れ落ちたローは帽子のつばをぎゅっと握りしめて、込み上げる絶望を、大きく開けた口から溢れさせた。
『病院がァ〜〜〜〜!!!!ラミ〜〜〜〜〜!!!!』
間に合わなかった。
守れなかった。守れなかった。
おれは兄様なのに。兄様が、守らないといけないのに。
ローの全身を絶望と後悔が何度も駆け巡る。
病院は焼けてしまった。全部燃えてしまった。中にいる人はもう、助からない。
クローゼットに隠した妹は、助からない。
ラミが、殺されていた。
『ああああぁぁぁぁああああああああああああああ!!!!!』
膝を抱えて、顔を伏せて、大声で泣いた。泣いて泣いて泣き続けて、叫び続けた。
その絶叫はいつまでもいつまでも続き、ローの喉が枯れ果てるまで止まなかった。
その声が、嘆きが、皆の心を滅茶苦茶に掻き乱し、絶望へと叩き付けていく。
フレバンスは、滅亡した。