【私は気にしない】
寒空の下に、自動二輪の排気音が響く。微睡みの中にいた私はそれをきっかけに目を覚ました。枕元のデジタル時計が指す時刻は午前4時。まだ日も昇らない、真っ暗な時間帯だ。カーテンの隙間から外を覗けば、お隣のエンドウさんが走り去る後ろ姿が見えた。会って話したこともないのになぜ名前を知っているかと言えば、この時代にしては珍しく表札というものを飾っていたからで、なぜエンドウさんだとわかったかと言えば隣の生活音と鉄製の階段を降りる足音が同じだったからだ。それに、同じフラットに住んでいるのだから、姿を見かけたことぐらいはある。あの真っ赤なライダースジャケットはさぞ目立つことだろう。
二度寝という習慣はないため、薄い布団を剥いで隅に畳む。洗面器に溜めた水で顔を洗うと、それはもう冷たかった。ボイラーを焚いていないため当然とも言える。それでも故郷の触れるだけで皮膚が裂けてしまいそうな冷水よりはよほどマシなのだから、改めて街に住んでいることを自覚する。
山奥の故郷。村とすら言えない集落を出てから三か月。私にとっては奇怪なことの連続が街での生活だが、滑り出しは順調と言えた。これも母方の親族だというサクラギさんのお陰であり、彼には感謝してもし足りない。私一人では三日でどこぞで野垂れ死にしていただろう。
濡れた顔を目の粗いタオルで拭い、薬缶を火にかけ寝巻から着替える。衣類のセンスというものが自分に備わっているとは思わないが、とりあえずジーンズ生地のボトムスと無地のシャツを組み合わせれば極端におかしなことにはならないと学んだ。アカネの根で染めたもののように派手な色が故郷にないわけではないが、あの赤は特別だ。慣れているわけではない。派手な色は下手に刺激してしまってよくないし。
お湯が沸く前にドリッパーにフィルターをセットして、掬った豆をゴリゴリと挽く。一杯分挽いた豆をそのままフィルターに入れたところで、甲高い音をたてて薬缶が沸騰したことを知らせてくれた。マグカップを温めて、お湯を捨てる。改めてフィルターに注ぎ入れれば、たちまち豊潤なかおりが漂った。
コーヒーは文明の象徴だ、というのが私の持論だった。ああ、断じて歴史的な話ではない。街に降りた私が初めて飲んだのがこれだったから、それ以来定着してしまったというインプリンティングのようなものでしかないとも。状況も違えば豆も違う。なんなら淹れ方だって違うのだから、けして同じ味ではないのだけれど、それでもコーヒーを飲むとあの日の味が思い浮かぶし、味は異なれどこれもまた、と思うのだった。
舌を覆う苦味も、すぐに転じて喉を滑り落ち鼻腔から抜けていった爽やかな香気も。記憶の再生ではなく再認だろうが、それでも、あの日の私の衝撃は確かに思い出せる。
日はまだ昇らない。カレンダーを確認すると今日は日曜日らしい。サービス業はその限りではないが、世間的には休み。ついでに不定休の私も本日に限っては休みだった。もう少ししたら、歩いて30分ほどの近場にあるパン屋に行って朝食を調達しようと考えて、私は飲み干したマグカップを流しに置いた。水で洗ってタオルで拭いて、古びたジャケットを羽織る。財布と鍵だけポケットに突っ込んで、数時間ほど散歩でもしようと外に出た。