神の詩
兄が、あの人が生きてる。
手配書の名と写真を見て、おれが胸に抱いたのは希望だった。
北の非加盟国を中心に活動している海賊団の船長で、それ故詳細な活動内容は不明だが懸賞金は人間屋や悪魔の実の取引を狙った襲撃でついたものらしい。お世辞にも治安が良いとは言えないあの辺りで、子供が何の悪事にも手を染めずに生きていけると信じられるほどおれもお気楽ではない。生きているならカタギではないだろうなんてのは、初めから分かっていたことだ。
溜まりに溜まった休暇を使って、おれは丁寧に折りたたんだ手配書をバックパックに詰めてマリンフォードを飛び出した。北の加盟国まで船を乗り継ぎ、幼いあの日に降り立ったあの街まで、借りた小船を操り向かった。
はたしてそこに残されていたのは、壊れきった街の残骸だった。
打ち壊され焼かれた建物の中に、巨大な刃で切断されたようなものが混じっている。
兄だ。
本部で知れた情報の中には、兄の能力に関するものも含まれていた。鋼鉄の硬度を持つイトを操る能力は、あの日父の首を切り落とし、おれたちを焼いたにんげんたちを滅ぼした。
ここ最近の話じゃない。長く風雨に晒された建物の多くは劣化して崩れている。停止した思考を引きずるように、足はおれを街だった場所のあちこちへ連れて行った。
どこもかしこも、ひどい有様だ。完膚なきまでに叩き潰された希望の中に、それでもおれは救いを探していた。
ああ、でも。
壊れた街の広場、山と積まれまとめて焼かれた死体の中で、ちいさな手が白い骨に変わっている。
知らぬ間に、口から聞くに堪えない笑い声が漏れていた。
なんて、なんて甘っちょろいことを考えていたんだ。
ウン千万と賞金の懸った男の下にかつて何の役にも立たないお荷物だっただけのおれが今更のこのこ現れて、それで一体何を、何を為せると思っていたのか。
崩れ落ちた脚をそのままに、ただただ奪い尽くされた命に両手を合わせ祈る。
今のおれを海兵たらしめている養父の教えは、誰にも赦されずとも、そうすべきであるのだと告げていた。
これは兄の罪で、そして疑いようもなくこのおれの罪だ。
兄が父を殺したあの日、おれがすべきことはうずくまって兄を待つことなんかじゃなかった。だってあの時おれだけが、離れゆく兄の手を掴むことができたはずなのだ。これ以上は駄目だと、力いっぱい踏ん張って、ぶん殴ってでも止めるべきだった。
たとえそれで父の隣に骸を並べることになろうとも、聡明で器用で気高かった兄を、どこでも、どうやってでも生きていけただろうあの人をバケモノに変えてしまうくらいなら、戦うことを選ばなければならなかったのだ。
おれたちを焼いたにんげんたちと同じように、狂気という名の地獄に繋がれ囚われたままにしてしまうくらいなら。
センゴクさんは、おれを息子と呼んでくれたあの人は、ただ無為に息をしているだけだったおれに教えてくれた。
為すべきことを、為すのだと。
それは天上で生まれたおれが、初めて触れた"ひとらしさ"だった。
ひとりの男を殺したあの日に慈悲の祈りを教わるまでは、それが全てですらあった。
沈みゆく夕日が赤く染める世界で、地についていた膝に力を込めて立ち上がる。
兄を、止めにいかなければ。
「北の海の潜入任務、おれに行かせてください」
センゴクさん直属の新設部隊、剣の名を持つそこに在るこのおれに、いのちの全てを賭けてでも為すべきことがあるとしたら。
「珍しいな、お前が潜入先を自分で選ぶなど」
「……」
机の向こうで、養父その人がおれの言葉を待っている。
努めて長く息を吸い、細く細く吐き出した。
もう逃げることは許されない。為すべき時に、為すべきことを為せなかったあの日の罪から。おれが受け取ったこの14年の使い道を、選択する時がついに来たのだ。
「…何か事情があるのか」
センゴクさんは、ドンキホーテの名を知っているだろうか。正しさを背負うこの人が、バケモノを宿すおそろしい血の"おれたち"を好いていないことなどとうの昔に分かっている。
それでも、為すべきことを為すために。
「兄なんです」