ごめんねスレッタ・マーキュリー─硬実種子の迷い(前編)─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─硬実種子の迷い(前編)─


※題名は4号のことですが、スレッタ視点です




 夕飯を食べてしばらくした後。姿見の前にいるスレッタ・マーキュリーの姿はいつもの部屋着とは違っていた。

 久しぶりに外出用の服に着替え、以前に買ったままになっていたカツラを手に持つ。

 鏡を見ながら慎重にカツラを被ると、出来上がったのは少し印象の違うスレッタだ。

 カツラの髪を手櫛で整え、なんとなしに目線を下に向ける。ヒラヒラとしたスカートが目に鮮やかで、見ていて楽しい。

 この辺りでは治安がいいから大丈夫ということで、大胆にも薄手のワンピースを選んでみた。

 具合が悪くならないように暑さ対策が主な理由だが、他の目的も一応、ある。上に軽い上着を羽織っているので、肌の露出自体は少ない。

 カツラは濃いこげ茶色をしていて、スレッタの髪には及ばないがフワフワとカーブを描いている、柔らかい印象のくせ毛仕様のものだった。

 あとはここへ来た初日に買っていた、お気に入りの可愛らしいサンダルを履いたら完成だ。

 スレッタは大きめの鏡で自分の姿を改めて確認した。

 ───うん、大丈夫だよね。変なところはない…はず!

 少し自信はないが、普段はあまりしないおしゃれに心が浮き立つ。

 具合を悪くしてから半月ほど。色々な用心のためにアパートに引きこもっていたが、今日は夜の散歩に行く予定だった。久々のお出かけに胸が躍る。

 しかも、出かける相手は…。

 コンコンコン、とノックの音がする。

「スレッタ・マーキュリー、僕の方の支度は出来た。準備が整ったら出てきて」

「はっはい!もも、もう準備万端ですっ!」

 慌てて返事をして、部屋の外に出る。

 そこには、落ち着いた雰囲気の少年が立っていた。

 肌は褐色で、髪は黒い。それに反して瞳の色は薄い緑の目をしている。

 あまり表情の動かない彼だが、スレッタの姿を見て目元を和らげてくれた。途端に雰囲気が硬質なものから柔らかく優しいものになる。

「その服、ピッタリだね」

「え、えへへ。そうですか?ありがとうございますエランさん」

 さっそく下心の1つが叶ってしまった。この服を着れば、もしかしたらエランに褒めてもらえるかもしれないと思っていたのだ。

 あとは彼がこの姿にときめいてくれれば下心はすべて叶うが、どうだろうか。

 照れながらも喜びつつ、更にほんの少しだけ期待を込めて相手を見る。チラチラと見ていると、彼が優しく声をかけてきた。

「じゃあ、そろそろ行こうか。スレッタ・マーキュリー」

「…はい、エランさんっ!」

 どうやらすべての下心は叶わないようだ。

 それでもスレッタはドキドキしながら返事をする。今日は、彼と一緒に食事とお散歩をする予定なのだ。

 ここひと月以上ずっと一緒にいる存在だが、改めてお出かけするとなると緊張してしまう。

 だって、まるでデートみたいだ。

 お気に入りの可愛らしいサンダルを履き、前に立つ彼に手を差し出しながらスレッタは思う。

 薄手の手袋をした手で自分をエスコートしてくれる彼…エラン・ケレスの姿を見て、スレッタは夢見るように微笑んでしまう。

 その顔は、真実恋する乙女のものだった。


 エランという少年はとても不思議な人だった。

 思えば初めて会った時から、スレッタは彼に惹かれていた。

 大人たちに苛められて、エアリアルとも引き離されて…。家族が恋しくて一人独房で丸くなっていたスレッタに、わざわざ彼が会いに来てくれたのが最初の出会いだ。

 お弁当を届ける、という名目で来てくれたその人に、スレッタは初め警戒していた。

 また何か訳の分からないことを聞かれるんじゃないか、意地悪をされるんじゃないかと怯えていた。

 けれどスレッタの許可を待って独房に入って来たその人は、分かりやすく自己紹介をしながら静かにお弁当を差し出してきた。

 ずっとずっと尋問を受けていたせいで、その時はとてもお腹が空いていた。それでもなかなか手が出せないスレッタを、同じ学生だと言っていたその人はじっと動かず待っていてくれた。

 あまりに彼が動かないものだから少し警戒がとけて。でもまだ怖くて手は出せなくて。スレッタはお弁当を受け取っていいのかと恐る恐る聞いてみた。

 ───どうぞ。

 まったく威圧感のない返事が返ってくる。

 そのことに少し安心して、そうっとお弁当を受け取った。その間も彼はじっと動かないでいてくれて、お弁当を渡す一瞬だけ指の力を抜いてくれたようだった。

 最初はまだ少し彼の方を気にしながらお弁当の蓋を開けたと思う。けれど中に入っている料理を見た後は、夢中になって食べてしまった。

 ご飯を食べる。あまり水星では食べられなかった、普通に調理された料理を口に運ぶ。噛んで、舌で味わって、胃に落とす。

 消費されるばかりだったエネルギーが久しぶりに補給できて。今この時間は安全なんだ、力を抜いていいんだと理解した途端、涙が溢れてしまった。

 それでも食事を優先したかったスレッタは、嗚咽しながらも食べきった。傍から見たら、とてもみっともなかったと思う。けれど彼は、何も言わずにずっとそばに居てくれた。

 彼は自分が何かを言えば反応をきちんと返してくれる。けれどそれ以外は、とても静かに自分を待っていてくれる。

 スレッタがその事に気づいたのは、夢中でご飯を食べて、途中で喉につっかえた食べ物を流すために、目を瞑ってごくごくと水を飲んだ後の事だった。

 ぷはっと息をついたスレッタは、目を開けて驚いた。目の前の少年とパチリと目が合ってしまったからだ。

 あまりに気配がしないから半ば存在を忘れていた。スレッタは慌てて目尻の涙を拭うと、上目遣いで少年の様子を伺いながらもお礼を言った。

 たどたどしい感謝の言葉に、またもや相手は静かな声音で返事をしてくれた。

 ───どういたしまして。

 この人は、それほど怖い人じゃないのかもしれない。

 更に警戒を解いたスレッタは、どうしてこんなに親切にしてくれるのか聞いてみた。

 自分は彼の事を何も知らない。彼も自分の事をきっと知らない。…そのはずなのに、こんなに優しくしてくれるのはどうしてだろう。そう思ったのだ。

 彼は間髪入れずに答えてくれた。

 ───きみに興味があったから。

 予想もしていなかった答えに、スレッタは思わず顔を上げて真正面から彼を見てしまった。

 彼はじっと、スレッタを見ていた。

 澄んだ色の薄い緑の目で、ひたとスレッタを見つめていた。

 ───スレッタ・マーキュリー。きみのことを、もっと知りたい。

 続けられた言葉に、頬が熱くなるのが分かった。そんな事、言われたことがない。こんな風に一心に見つめられることだって、一度だって経験したことがない。

 スレッタは目を逸らす事すら忘れて、しばらくの間少年と見つめ合った。

 ここへ来てから何もかもが初めての体験で、怖い思いをいっぱいして、心臓がずっと嫌な具合に早鐘を打っていた。

 けれどこの時だけは。

 鼓動の早さは変わらないはずなのに、とくとく、とくとく、どこか甘い余韻をもってスレッタの胸の内を痺れさせていくようだった。

 自分に会いに来てくれた。どこか安心できる空気を纏う、同年代の不思議な男の子。

 それがエランとの最初の出会いだ。


「…暑さはどう?夜だけど、少し蒸していると思う」

「大丈夫です。やっぱりお日様が出ていないと涼しいですね」

「疲れたらすぐに言ってね」

「はい、エランさん」

 スレッタと一緒にいる彼は、学園にいた頃とは違って口が滑らかだ。今も寡黙な方だが、それは彼の性質に寄るところが大きいと思う。

 学園の頃の彼は、あまり自由ではなかったようだ。何かの折に、学園ではペイルに監視されていたと教えてくれたことがあった。

 スレッタはそれを聞いて嫌な気持ちになった。自分に言ってくれたエランの言葉が、ペイルにいる大人に聞かれていたかもしれないと思ったからだ。

 きみに興味がある、というエランの言葉は、スレッタの大事な宝物になっている。誰にも渡したくはなかった。

「そういえば、これから行くナイトマーケットってどんな所なんですか?」

「僕もそこで飲み食いした訳じゃないけれど、一度見学には行ってみた。夜なのに人がいて明るいところだよ。小さな店がひしめき合っていて、外から見るとゴチャゴチャしてる」

「なんだか面白そうなところですね」

「油断してるとスリに合うけどね。きみも気を付けて、スカーレット」

「は、はい、エランさん」

 スリ。犯罪者さんだ、とスレッタは緊張した。体に力が入ったスレッタの様子を見て、エランは更に言葉を重ねた。

「人が多くて、時には大きな流れが出来ることもある。巻き込まれたらはぐれてしまうかもしれない。───下手をすれば、3日以上会えなくなるかも。それも、忘れないで」

 最後の言葉にはっとする。

 一時的にはぐれた時の為に、一応はスレッタも端末の中にお金をチャージしている。本当に少しだが現金も持っている。万が一の時は自力でアパートに戻る事も可能だろう。

 でも、今のスレッタはひと時だってエランと離れたくはなかった。だって、今の言葉のトーンは普段の優しい彼とは違う。あの船の中でスレッタに首を絞めさせた怖いエランの言葉だった。

 彼は時折、こうしてスレッタに思い出させようとする。これはただの旅行じゃなく、命を懸けた逃避行なのだと。

 スレッタは繋がっている手をぎゅっと握って、離れないように精一杯の対策をするしかなかった。

 眉根を寄せて一生懸命手を握るスレッタを見て、逆にエランの方は満足そうに口角を上げている。

 いつも優しい彼が、最近たまに見せるようになったイジワルな態度だ。スレッタは悲しくなって、それ以上になんだか腹が立ってきた。

 自分が怖がっているのに、慰めるどころか嬉しそうにするなんて、裏切られたような気分だ。

 スレッタの頭の中には、初めて会ったときの…お弁当をくれた優しいばかりのエランの姿があった。

 だからつい口に出した。

「ひ、酷いです!イジワルするエランさんなんか……ゆ、許しません!」

 言った途端、エランの足がピタリと止まった。思いのほか強い言葉が出てきて、スレッタは自分でもびっくりしてしまう。

 半ば勢いだったので、この後どうするかは考えていなかった。

 言いすぎたかとエランの方を見ると、彼は笑顔を止めていつもの静かな表情に戻っていた。…いや、ほんの少しだけ眉根が下がっているように見える。

 もしかして、落ち込んでいるのだろうか。

 何だか可哀そうになって、すぐに許してあげたくなってしまう。けれどイジワルするエランのことを思うと、同じくらい躊躇もしてしまい、交換条件を出すことにした。

「わ、わたしのお願いを1つ聞いてくれたら、許してあげます」

「…分かった。なぁに?」

 エランがすぐに食いついてきた。けれど、これも勢い余って言ったことなのですぐには答えが出てこない。

「えっと、えぇっと…」

 何かないだろうか、と焦るスレッタの脳内に、あの船の中での出来事が浮かんできた。…こんなことになったのは、あの怖いエランのせいだ。

 ───いっそ、こんな怖い事はもう言わないで、とお願いしたらどうだろう。

 いいアイデアだと一瞬思いかけたが、それで約束が反故になるわけではないと気づいて、スレッタは慌てて開きかけた口を閉じた。

 もし約束の事を忘れて3日以上離れてしまったら……。その時のことなど考えたくもない。

 代わりに何か、お願いしても大丈夫なもので、できれば自分が嬉しいものはないだろうか。欲張りな条件に、考えれば考えるほど何も浮かんでこなくなる。

 うんうんと唸るスレッタの言葉を、エランは相変わらず待っていてくれる。こんな風に、普段はとても優しくしてくれるのに…。

 現に、いまも彼は気もそぞろになっているスレッタの手を引いて、慎重に歩き出してくれている。

 本来の彼は足が速いのに、とても歩幅を小さくして、ゆっくりと進んでくれているのだ。

 …彼は優しい。

 例えば先ほどのように力いっぱい手を握っても、文句を言われたこともない。

「───あ」

 思いついた。

「…あの、エランさん」

「……ん、お願い事は決まった?」

「はい、あの…。手袋を、外してくれませんか」

「手袋?」

 それはあの船の中の、怖いエランの事を思い出して気が付いた事だ。あの時の彼は、手袋をしていない手でスレッタに触っていた。

 大きくて、節の目立つ手だったと思う。その手でスレッタの手をしっかりと握り締めていた。

 エランは綺麗好きではあるけれど、病的なほどの潔癖さじゃない事は旅の間に分かっている。

 なら、少しくらいは素手で触れ合っても大丈夫じゃないかと思ったのだ。

「………」

 エランは考え込んでいるようだった。断られたりしないかとドキドキしていると、彼はおもむろに足を止めて、スレッタの顔を覗き込んできた。

「僕が素手で触れても、きみはいやじゃないの…?」

 スレッタの方がお願いしているのに、どうして嫌がると思っているんだろう。首を傾げながら、いつものように返事をする。

「いやじゃないです。嬉しいです」

「………そう」

 長い沈黙のあとにそう言うと、エランは手を繋いでいない方の手袋を自らの口を使って取り去った。

 意外と乱暴な仕草にびっくりしていると、エランは手袋を脱いだ手を差し出してくる。

 思わず空いている方の手で握ると、さっきまで手袋をしていたからか少ししっとりとした感触が返って来る。でも、まったく嫌な気持ちはしない。

 手袋をしている手は相変わらず繋がったままなので、向かい合わせで両手を握り合う変な格好になってしまった。

 変な格好のはずなのに、何だかコミックで見た舞踏会のダンスを連想させて、少しドギマギしてしまう。

「………」

 しばらくの間、見つめ合う。まるで初めて会った時のように。

「スカーレット、手を」

「はっはい」

 エランに言われ、ハッとする。

 ずっと握っていた方の手を慌てて離すと、エランはそちらの手袋も口を使って取り去った。

 改めて元の手で繋ぎ直して、ナイトマーケットへの道行きを再開する。なんとなく、仲直りが出来た空気が漂っていた。

「…本当に、いやじゃない?」

 しばらく歩くと、闇夜に紛れるようにエランがぽつりと呟いた。

 普段の彼はとても優しいけれど、時々とても怖いことを言ってくる。たまにイジワルな顔をするようにもなった。

 けれど、彼の手はあの船の中以外、ずっと自分を守ってくれている。

 エランの手は節の目立つ大きい手だ。繋げていると、スレッタの手などすっぽり覆い隠してしまう。

 温かくて、滑らかで。…安心できる、大きな手だった。

「…いやじゃないです。嬉しいんです」

 スレッタは答えて、彼の手をぎゅっと強く握った。決して離れる事の無いように。

 自分を安心させたり、自分を怖がらせたり、そんな風にスレッタを不思議な気持ちにさせる人の手を。

 大好きな人の手を、強く握り締める。

「…エランさんは、どうですか?」

 珍しく聞き返したスレッタの言葉に、エランは何も言わなかった。


 ただ繋がっている手をぎゅうと握り返して、返事をくれたようだった。






硬実種子の迷い 後編


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