硝子玉の奥

硝子玉の奥


「こんなところにいたんだね」


都会の喧騒から離れた田舎町で少女は男を見つけた。

現在行方不明とされ、一時期警察も捜索していたが同時期に起きた殺人事件のゴタゴタで捜索が打ち切られた男。

その姿は少女の記憶とは違い、胡桃のような茶髪は金色に染められており、見たくないものを見ないようにとつけられていたサングラスは細く黒くなり、その奥には硝子玉のような瞳が隠されている。肉付きもかなり良い──が、血色は悪く、肌の色だけを見たら栄養失調直前に見える。

警察は知らない。彼が行方不明になった直後に起こった殺人事件は全て、この男が犯人だということを。多くのものが別の犯人と思われ、中には解決したとまで言われた事件もあるが、その全ての犯人は今にも死にそうな肌をした男が引き起こしたこと。

それを知っているのは彼と相対している少女のみ。しかしその少女すら裁判にかけられるような証拠を持っているという訳では無い。ただ、分かる。この男が犯人だという確信がある。


「君は──誰だっけ」


そんな少女と相対した男は決して大きな声では無いが透き通るような声で少女の言葉に応じた。

男は少女のことを知らない。ただ不思議な少女だなと誰でも思いそうな事柄を思いながら空を見上げる。


「記憶は無いのかい?それとも魂も崩れ落ちた抜け殻のような君に、それを言うのは厳しすぎたかな」

「魂?知らないな。別にそんなことどうでもいいんじゃないの?」


少女は男に追求する。しかし男は身体はもちろん、記憶も全て摩耗し少女の言葉には引っかかるものを持たない。


それを理解した少女は男の名前と事実を話す。


「お兄ちゃん───いや、斎藤硝太。君はもう死んだんだ。斎藤ミヤコが死んだ、あの日に」


男の名前は斎藤硝太。苺プロ社長斎藤ミヤコの《《一人息子》》で母を支えるために生きてきた男。


「死んだ?私は生きてますよ?」

「肉体はね。けど君の魂はあの日、確かに死んだんだ。無理もない。記憶を失い、家族どころかマトモに言葉を理解することが出来なかった幼い君にとって、彼女は光だった」


斎藤硝太が首を傾げて言った言葉に少女は頷く。

確かに斎藤硝太の肉体は生きている。母であり、硝太の絶対的な精神的な支えだった斎藤ミヤコが庇ったことで彼は傷一つ受けていない。だが、その魂は間違いなく死んだ。まともに受け答えをしているが彼は亡者の部類に入る。ゾンビとかキョンシーのような蘇った手合いでは無い。彼は生物学的には普通に生きている。精神的なものを除けば病気もなく、当たり前のように地に足をつけて歩くことが出来る普通の人間。だが、彼の魂はもう死んでおり、そこには別の魂が入って取り憑かれたりする訳でもなく、何も無い。──いや、一つだけある。斎藤ミヤコの教えた行き方。それがあるからこそ、彼は生物学的に見ても死なずにすんでいると言える。

だが、それは同時に間違いだった。

魂が死に、肉体とそれに染み付いた記憶だけになった彼は斎藤ミヤコを殺した殺人犯を殺した。それだけならまだ良かった。斎藤ミヤコに対して、精神的、肉体的ダメージを与えた人物を一人残らず惨殺し始めたのだ。

それだけに留まらず苺プロのメンバー達に同様のことをした人を惨殺した。その大半はテレビにでも出てくるような重鎮や芸能記事を書いている記者、そのテレビや記者を動かせるスポンサー。当然彼のような殺人鬼はもちろん、普通の人相手にすら警戒して内側に招き入れないような男たちだ。しかし彼らの全ては、斎藤硝太一人に殺され、警察は硝太がやったという可能性にすら気づいていない。

精神的支柱を失った彼はもう暴走列車と同じ。母や家族を失ったことを飲み込めずにその母や家族を傷つける外敵を滅ぼすモンスター。

少女はそれを許すことは出来なかった。


「...なるほど。僕は殺されるのか」


男は一人称を私から僕へと変えながら現実を飲み込んだ。そもそも魂の死んだ彼に決まった語彙は無い。ただ浮かんだそれをその場で言っているだけ。

そんな壊れたガラス細工を見ること自体少女にとっては殺されるより辛いものだった。


「うん、君はここで死ぬんだ。せめてお母さんと同じところに送ってあげるよ」


──しかし、少女はここで決定的な間違いを犯した。

魂の壊れた彼に何より愛していた母親のことを言った。それが男の全てを吐き出させた。


「───じゃあ、殺さなっちゃ」


機械のような抑揚のない声で彼は右のポケットから折りたたみ式のナイフを出す。探せば何処にでも売っていそうな何の変哲もない折りたたみ式のナイフ。

決して人を殺すのに爆弾のような爆発力もパンチだけで殺せるようなパワーも引きちぎるような超能力も必要ない。ただ殺すのなら一本のナイフで十分。そもそも、一般人である彼にそんな大層なものは手に入らない。だから削ぎ落とせるところは削ぎ通して天才では無い常人のトップスピードのみで戦う。


「行って」


少女はその姿を確認して近くに止まっていた何十羽という数になる烏を一斉に男の元へと飛ばした。一羽一羽の爪や嘴が当たれば堅牢な装甲を持っている訳では無い男の柔肌など豆腐のように引き裂ける。だからこそこの場合正しい戦い方は一羽一羽確実に処理していくものだろう。

だが、目の前の男には常識というものがない。まるでなんの障害物も存在しないように走り始めた。


──早い。


それが少女が最初に思った事だった。男の走るスピードは確かに早いが人間離れしているかと言うと決してそうでは無い。世の中の陸上選手を集めれば彼より最高速度が速い人などいくらでもいる。しかし、それに至るまでに必要な準備は多い。急に戦いを開始して即座にトップスピードに移り、こちらの攻撃に合わせようと言うのは走る速度はもちろんのこと、判断力にも長けていることを感じさせる。



「捕まえた。」


しかし、所詮はその程度。烏の群れに突っ込めばそのままバードストライクで攻撃に当たるか減速して迂回するしかない。そうなれば烏が男を肉薄するのにそう時間はかからないし勢いよく下がったとしても伏兵を噛ませてある。始まった瞬間から彼は罠に嵌っている。彼がその肌を引き裂かれ動きが止まるまでそこまで時間はかからない。


男を向かい打つ烏と男の距離が目と鼻の先程の距離になる。少女はその様子をじっと眺める。この戦いに少女の愉悦は無い。あるのは失望、後悔のみ。

少女は男のことを気にかけていた。人の悪意と善意が混ざった混沌の環境で唯一真っ直ぐに突き抜けた彼の事を少女は気に入っていた。滅多に人前に姿を表さない少女が男の前に出て他愛のない会話をするぐらいには。

そんな男が全てを失い、心が伽藍堂になって魂が崩れ、粉々に壊れる様を少女は見続けることしか出来なかった。その結果がこれだ。少女は自らの罪を恥じながら罰として男を殺める。その覚悟でこの場に来た。無論、気にかけた男の断末魔や末路に目を背けはしない。それを全て見て、自らの罰とする。そう思い烏を操作する。


だから見逃した。男がなぜここにいるのか。なぜこれまで殺人をしてきて、反撃をされないどころか警察に一度も怪しまれなかったのか。

それを考えていたら少女は奇襲を選んだだろう。最後の会話なんて、何も考えずただ男を殺すことだけに集中していただろう。


男の姿勢が急に下がる。腰をかがめた、なんて動きじゃない。身体を蛇のようにくねらせながら地面スレスレを這うように走る。


それでいながら加速を殺すことなく真っ直ぐ少女を狙って走る。


「──っ!」


少女は急いで狙いを姿勢を落とした男に変える───がもう遅い。

烏が男に近付くより先に男は少女の目の前に立っていた。

突き出される右腕。右手に握られたナイフは少女の喉を狙っている。男の膂力なら少女の喉を切り裂くことなど造作もない。


阻まれるものもない状態で力任せに振るわれる一撃。

少女の知る斎藤硝太であれば躊躇って出せなかっただろうものをその男は迷いなく出した。男の顔は仮面をしたように無表情なのに、その顔は少女から見たら泣いているように見えた。


「ごめんね」


少女がそうつぶやくのが早いか、男の右腕に烏が飛びついた。集団で男を包囲していた烏とは違う、少女の影に隠れていた不可視の一撃。

男は反射神経だけでその烏の攻撃をナイフで受け止める。ただの烏ならそのまま押し切れただろうが少女の元にいる烏はただの烏では無い。男の体は風船のように浮き、引き戻される。

その先に男の身体を傷つけようと後ろから追っていた烏が加速して飛びついていく。一羽でさえも捌ききれない男が集団で対処出来るわけが無い。


少女は驚きながらも姿勢を崩さずに男を見る。そこに一羽の烏が追いついた。



──と思った瞬間、少女の肩から腰にかけて一本の線が入った。


「───え」


少女の上半身を狙った一撃は深くくい込んだようで噴水のように血が流れる。血が吹き出したことで力を失った少女がたじろぐ。


「なん──で──?」


少女が力を失ったことで減速した烏の首を男は空いた腕でへし折り、その烏にナイフを突き刺したと思ったら追ってきた烏にその烏を叩きつけ、それと同時に再び少女の元へ肉薄した。


そこまでして少女は男が仕掛けた罠に気づいた。


──左足に隠しナイフ...暗器か。


男が烏に突撃されて身体を崩した瞬間、烏と烏が当たった右腕に視線を集中させて残っていた左足で少女を袈裟斬りにしたのだ。


不可視のはずの烏が見切られていたか。

それは違う。少女が隠していた切り札の烏は確かに男に飛びつき身体を引き離すことに成功した。最初から読んでいるのならかわすなり迎撃する手段を選んだはず。わざわざリスクの高い体勢を崩した状態での左足で迎撃を選ぶはずがない。


読まれていた訳では無い。だがそうなってもいいように考えられていた。少女が何か仕掛けてくるということだけを読んでそれに対応できる策を幾つか用意していたのだろう。今回はたまたま左足の暗器が当たっただけだ。

殺人も全てが一方的という訳では無い。抵抗される危険も、誰かに見られる可能性もある。その中で彼が何故一度もバレるどころか怪しまれもせずに行動出来たか。判断力もそうだが対応力も普段──というより魂が死ぬ前の彼とは比べ物にならないほど上がっていたということになる。



「これ──は死ぬ──ね」


男の袈裟斬りが致命傷になることを少女は他人事で考えていた。そもそも彼女にとって肉体はただの入れ物。魂さえ無事ならまた赤子からとなってしまうがいくらでも再戦することができる。だから、まだ終わりでは無い。

死ぬ前に彼に致命傷を与えられれば、最悪自爆でもいい。男に致命傷さえ与えられれば男を止めることが出来る。男がまた人殺しをしなくて済む。男が生きている間に殺人鬼と言われなくて済む。


接近戦では男の方が圧倒的に有利だと判断した少女は距離をとるために袈裟斬りにされた場所を押えながら一歩後退りをする。


その時、少女の世界が勢いよくひっくり返った。

足を滑らせて身体が沈んだのだろう。そう思った時、足を滑らせた原因が視界の端に映った。



「──ああ、なんだ。まだ、持っていたんだ」


それは何の変哲もない、ただのビー玉だった。

恐らく烏の攻撃を捌いた時に仕掛けた簡易的なトラップ。

だがそのビー玉は少女にとってはかけがえのないものだった。



少女と男が初めて会った時、男の持っていたラムネをもらった少女が、お礼にラムネの瓶から取り出したビー玉。透明でまん丸な姿はまるで男を表しているようだと少女は思った何年も前の思い出の品をこんなに擦り切れて壊れてもまだ持っていたのだ。

あの日の記憶は無いのだろう。男からすればただ重くもないし使えそうだからと取っていただけのものに過ぎない。だが、そんな思いであっても、それを持っていてくれたことが少女は何より嬉しかった。


最後に。ダン──っと、強く土を踏みしめる音が聞こえた。



─世界が裂ける。

─世界が割れる。

─世界が壊れる。

─世界が終わる。


男の必要最低限まですり減らした命を絶つ為だけの一撃は、確かに少女の肉体に死を与えた。普通に殺すだけなら、それで済む。だが、少女は転がるビー玉を見た瞬間、感じたことない感情が魂から湧き出てきた。

──それ故に男が与えた一撃は少女の肉体のみならず魂にさえも死を与えた。


「──」


男は自らが先程殺した少女を眺める。その少女は殺されたというのに、笑っていた。痛かっただろうに、苦しかったろうに、怖かったろうに。少女は優しい笑みを浮かべたまま死んでいた。

その顔を見て男は地面にころがったビー玉をつまみあげる。


「ああ──君だったのか。このガラス玉をくれたのは」


少女の掌にそれを握らせる。本来なら証拠となるものを現場に残すべきでは無い。だが、そうするべきだと、男は思った。例え、それが自分を内側から切り裂く傷となったとしても。


「これは、返すよ。君の思い出と一緒に」


男はそう言うとサングラスをかけ直してその場を去った。


そこに残ったのはガラス玉を握って亡くなった少女とその亡骸を啄む烏だけとなった。

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