砂漠のキルケー 序

砂漠のキルケー 序


 噂によれば、その砂漠のオアシスに建つ城に近づくと忽ち砂嵐や流砂に巻き込まれて捕らえられ、城に棲む獰猛な獣たちの餌にされてしまうという。

 猛獣の飼い主である城の主の姿を見た者は誰もおらず、その正体は分からない。空中を自在に移動して遠く離れた場所でもあっという間に行き来することができるだとか、何ヶ月も飲まず食わずでいても餓死しない特殊な体を持っているだとか、途方もない噂ばかりが飛び交っている。

 そんな噂が立つのも実際に行方不明になる者が後を絶たないからだ。ある貴族がその付近で行方知れずとなったのを始まりに、依頼を受けて捜しに向かった政府の関係者が次々と姿を消し、今では二〇名ほどが消息不明となっている。これ以上人員を割くわけにはゆかぬということで、おれに白羽の矢が立った。

 噂の真相は定かではないが、本当に猛獣がいるのであれば猛獣の姿で紛れ込めば相手の隙をつけるかもしれない。また「特殊な体」という城の主は悪魔の実の能力者である可能性が高い。城の主の正体や行方不明者の生死はともかく、この厄介な問題を一刻も早く解決することが最優先だ。この人選の意図はそういうことだろう。

 

 見つからないまま砂漠を彷徨うことになりはしないかと警戒したにもかかわらず、城に辿り着くのはあっけないほど簡単だった。そのオアシスに近づくと確かに砂嵐が起きたのだが、それは寧ろ城の中へ誘い込むためのもののようだった。入るのは簡単なのだ、二度と出ることができないだけで。童話の「年老いたライオン」と同じだ。

 美しい白亜の城は開放的なつくりで、易々と門を抜け建物内部へ入ることができた。広い通路は薄暗いが、不思議と砂にまみれることもなく静謐な空気が流れている。毛織りの絨毯が敷かれ、高い天井には豪奢な絵画が描かれ、窓にはレースと天鵞絨のカーテンがかかっている。前方に目をやると、ゆっくりと近づいてくる背の低い影が見えた。雄のライオンだった。

 しかし、噂の猛獣は襲ってくるどころか猫のようにその身をすり寄せ、ぐるりとおれの周りを一巡すると、もと来た方へ体を向けてこちらを見上げている。主に代わって案内にきたとでも言いたげだ。ライオンを案内に寄越すというのは普通ではないが、なるほどここで逃げ帰ろうとすれば襲われて餌にされるのかもしれない。おれが歩きだすとライオンは傍らについてくる。そのまま並んで廊下を先に進んだ。


 明るく開けたところに出た。中庭のような場所で、オアシスの植物が緑鮮やかに生い茂り、赤い実をつけているものもある。白い石造りの四阿があり、その中に寝そべっているのは巨大なバナナワニだった。見ればオアシスの泉の周りでは何頭ものバナナワニが我が物顔で歩いたり、砂地で休んだりしている。

「ようこそ。この館に何か御用かな?」

 四阿のワニが喋ったと思ったら、その大きな顔の後ろから人の姿が現れた。厚手の斑模様──あれは豹柄だ──の毛皮に身を包んだ長身の男が立ち上がってこちらを向く。その顔には見覚えがあった。

「ここはおれの別宅でね。見ての通り、彼らを自由に住まわせる場所として使っている」

 男が話しながら四阿を出てこちらに歩いてくると、先のライオンが軽快な足取りで傍に近寄っていった。男は膝を折って屈み、ライオンの鬣や背を優しく撫でている。ライオンはうっとりと愛撫を受け入れ、媚びるように身を寄せている。その様子に何故か激しい興奮を覚えた。体の奥がカッカして思わず睨みつけるように見てしまう。

「そう怖い顔をしないでくれ。せっかくお越しいただいたんだ。少しゆっくりしていってもいいだろう? 大したものは出せないが、冷えたワインだけでもいかがかな?」

 クロコダイルは品定めでもするかのように目を細めてこちらを見ている。

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