真綿より柔い海

真綿より柔い海




もう何日経っただろう。ぼんやりと天井を見上げながら考える。この部屋には窓も無ければ時計も無いから、とっくの昔に時間の感覚は何処かに行ってしまった。一応日課としているストレッチはもう終えてしまったし、やる事が無くなってしまう。意味も無く寝返りを打つ。目を閉じれば大して眠くも無かった筈なのに簡単に夢の世界へ引き摺り込まれてしまう。もしかしたら毎日出されている食事に薬でも入れられているのかもしれない。命に関わりはしないだろう、という確信だけはあったから、まぁいいか、とコビーは気にしない事にした。


逃げ出そうとする事を、抵抗する事を諦めたのはいつだっただろう。少なくとも最初の頃はそうじゃなかった。無理矢理船に乗せられ、コビーが4、5人は眠れそうな真っ白で大きなベッドに放り投げられ、足枷を嵌められた時、コビーは何度もその足枷を壊そうとしたし、何が目的なのかと黒ひげを睨み付けた。金か、情報か、人質か、軍艦か、もしくはあの「兵器」か。けれど彼はどれでも無いと首を振って、コビーの頬をその大きな手で撫でた。その手付きは、思っていたよりずっと、優しかった。

「おれが欲しいのはお前さ、コビー。お前が想像してる様な、金も情報も人質も軍艦もいらねェ」

自分が欲しい、というのがどういう意味なのか、コビーにはさっぱり分からなかった。拷問でもされるのかと思っていた。痛い目に遭うのだろうと思っていた。例えその果てに死んでしまったとしても絶対に情報は吐かないと決めていたのに、思い返せば、コビーはこの船で痛い目に遭った事は一度も無かった。殴られる事も蹴られる事も、何も。ただ真っ白な海の様な布団の上でじっとしているだけで、毎日の様に船員や幹部、もしくは黒ひげ自らが食事を運んで来る。黒ひげの膝に乗せられて、幼い子供におとぎ話を読み聞かせる親の様に歴史を語られる。ただそれの繰り返し。

強いて言うなら、酷い言い方をするなら、性的暴行、は、何度もあったけれど。あれを暴行というにはあまりにも手付きが優しかったし、腹が突き破られるのでは無いかと思う程苦しかったけれど体格差故仕方ない事では、あったし。何よりコビー自身、身体中を撫でる大きくて皮の厚いあの手を、一方的に食い尽くされる様な深い深い口付けを、疼く最奥を穿たれる事を「気持ちいい」と思ってしまったから。やっぱり、彼らはコビーに一度も酷い事なんてしていないのだ。


誰かが入って来る気配に、コビーは夢の浅瀬から目を覚ます。目を擦りながら見ると、入って来たのは幹部の一人であるオーガーだった。手には真っ白な大きな布を持っている。

「どうしたんですか?」

「……シーツを変えに来た」

「退きましょうか」

「いや、構わない」

オーガーは淡々と答えながら慣れた手付きでシーツを剥いでいく。洗って干すのだろう、とはすぐに分かって。

「お手伝いしましょうか」

コビーは気付けばそう口にしていた。手伝うフリをして逃げ出そうとか、そんな考えは全く無く、本当にただ単に、手伝った方が良いのかなあ、というだけの気持ちで。オーガーはじい、とコビーを見つめていたが首を振った。

「この部屋から出すなと言われている」

「そうですか」

「……とはいえ、ここには何も無いしな。暇なのは暇だろう。後で何か持って来てやろう」

「え、あ、ありがとうございます」

そんなつもりは無かったのだけれど。シーツを変え終えたオーガーは部屋を出て行って、しばらくすると分厚い本を持って来てくれた。一週間は暇を潰せそうなくらいの分厚さだった。




その日、コビーはいつもの様にティーチの片膝に乗せられながら本を読んでいた。以前オーガーが持って来てくれた本だ。長く続いているシリーズものらしく、今は5巻目に入っている。コビーが持つには少し重たいその本を、ティーチが持ってくれていた。肩を抱かれながら、時折意味の分からない箇所があればティーチに尋ねて。この時間が、コビーはいつの間にか好きになっていた。キリのいい所でコビーは欠伸をして、ティーチは「眠いのか」と笑う。そうすると彼は色々な話を聞かせてくれる。まるで子守唄の様に。

その日話してくれたのは、悪魔の話だった。悪魔は強欲で、欲しいと思ったものはなんでも手に入れる。人間も悪魔も、美しい宝石も、貴重な本も、何もかも。けれど強欲過ぎて、手に入れたその瞬間から、悪魔の愛は失せてしまう。そんな話。うとうとしながら、コビーは訪ねる。

「ティーチも、そうなんですか」

「あ? 何がだ」

「あなたも、欲しいものはなんでも手に入れるから、……いつか、その悪魔みたいに、僕への愛も失せますか」

ティーチはコビーの髪を撫でながら言う。

「悪魔は飽きっぽいんだとよ。だから手に入れても興味がすぐに失せちまう。

だがなァ、コビー。おれァ人間で海賊、悪魔よりずっと欲深ェ生き物さ。お前への愛が失せるなんて事は無ェよ」

「……そう、ですか」

もし自分への思いが失せたなら、ここから逃げ出せるかもしれない。そんな希望を込めての質問だった。だからその答えには絶望をして。

けれど、ティーチのその答えに、安心してしまった自分も確かに居た。この人は、いつまでも自分を愛してくれるのだと──その事実が嬉しいコビーが、確かに居てしまったから。

髪を撫でてくれる感触が気持ち良くて、コビーは目を閉じる。耳から脳に響く低い声。帰らなければと思うのに、この場所はひどく心地良い。どうすれば良いのか分からないまま、時間はゆっくりと過ぎて行く。

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