真夜中の春
世界のありとあらゆるものが崩れ、ひっくり返された。
人々が解放された新たな世界に、自分の居場所などないだろうと思っていたのに。
一度は敵対し古巣に戻るなど許されなかったはずの自分が、師匠や弟弟子の口添えで教官となり若者を育てるなんて、まるで夢みたいな日々。
こんな平和な結末を迎えられるなんて誰が想像できた?
先生と呼ばれるのにはまだ、慣れなくてこそばゆい。
けれど、ガープやゼファーがどんな気持ちで自分たちを見ていたのか、自分も同じ立場になって分かり始めてきたことに、時々泣きそうになる。
まだ目を通してなかった新聞を広げれば、一面を飾るのは幾分凛々しさが増した横顔。
海軍の若き英雄、コビー。
自分を光へと導いてくれた弟弟子。
教え子達の多くは彼に憧れ、彼のような海兵を志して、日々成長していっている。
自分が兄弟弟子だと知った途端に、教え子達から質問攻めにあったのを思い出して苦笑した。
それなりの立場となっても現場へと足取り軽く飛んでいくコビーはまるで師匠のようで、元気であるならそれでいいと新聞をめくった。
ランプの明かりに照らされる文字を目で追っていると、来訪者を知らせるベルが鳴った。
新聞を広げたまま暫し考えてから、それを畳んでベッドサイドに置いて、真夜中の客人を迎え入れた。
「こんばんわ、クザンさん」
ドアを開けば、ついさっきまで見ていた顔がそこにあった。
その手に重たげな酒瓶を持って。
「会いたくて、来ちゃいました…」
えへへ…と照れ笑いする顔は凛々しさを潜め、幼げだ。
「…いらっしゃい」
これを見ると何も言えなくなる自分は、きっと情けない顔をしている。
コビーはなかなかに忙しいはずなのだが、自分を教官へと推した手前、何かと気にかけているのかこうしてふらりと夜に現れる。
忙しいんだからしっかり寝て休みなさいよと言いながら、冷蔵庫に彼の好きなツマミを常備しているのは矛盾している。
それに気づいていても、コビーは何も言わない。
杯を傾けながら自分が他愛もない世間話をぽつぽつと語れば、コビーはそれに耳を傾け、今度は海で見たものや訪れた街の話を愉快に話す。
今日で何度めかだったか、二人だけの静かな晩酌はいつもこうだ。
何もない。
ランプの火が揺らめく優しい夜。
ふいに、会話が途切れて静まりかえる。
互いに言葉が出てこないまま、明かりに照らされたコビーを見つめる。
テーブルの傷を指先でなぞっていたコビーが、視線に気づいて照れたように瞳を伏せた。
生娘みたいな反応に、ずっと自分の中で燻っていた部分に火が着く。
唐突に、しかしできるだけ優しくベッドに座っていたコビーの体を押して、横たわらせた。
コビーの顔の横に手をつけば、きょとんとした表情でこちらを見上げる。
あの頃、散々見た光景だ。
一つ今と違うとすれば、コビーの表情に恐れや不安が一切ないこと。
体は繋がっても心は繋がるはずもなかったあの頃が、随分と遠い。
「本当に、穏やかになられましたね」
こちらの思考を読んだのか、同じことを思い出していたのか、コビーの手が伸びてきて頬に触れてくる。
「お前のおかげでね」
「それはよかったです」
ニコニコと笑うコビーに、愛おしさを感じる。
でもそれと同時に、この子をおれなんかの腕に囲っておくなんていいのか?と。
自分はもう彼に対するどす黒い感情をもっていない。
だから、抱く理由なんてないし、コビーも大人しくしている理由もないはずだ。
海軍の若き英雄なんて引く手あまたで、自分みたいなおじさんの相手なんてしなくてもいい。
そのはずだ。そうあるべきだ。
抵抗しないコビーに思わずため息が出た。
「おれがどんな気持ちで耐えてると思ってんのよ…」
「あれ、我慢してたんですか?」
「そりゃあそう……って、おい、なんで目ェそらした?」
「いえ、別に…」
お、おつかれなのかなぁ、とか思ってただけです…。
歯切れの悪い言葉に、恐らくおれがもう枯れてるとか考えたに違いない。
完全に否定はできないのが悲しいが老いは必然だ。
目上には礼儀正しいのに、良くも悪くも素直な部分が時々こうして顔をのぞかせる。
「我慢しなくていいのに」
「もう男に抱かれなくてよくなっただろ。なんで逃げねェの」
コビーの両腕がおれの首に回り、ぐいっと引き寄せられた。
「責任取るって言ったじゃないですか。僕、決めたことはやり遂げる男ですよ」
知っている。知っているけど、そういうことではない。
おれを生かしたのはお前なんだから責任取れ、なんて10代のガキに言うことじゃない。
そんな言いがかりじみたことは突っぱねたっていいのに、それをしない。
しないのがコビーらしい、けれど。
「逆にクザンさんはいいんですか?」
「なにが?」
「せっかく平和になったのに、抱くのがキレイなお姉さんじゃなくて」
…それは愚問だ。
自分はとっくに溶かされている。
この柔らかな春のような男に。
「…お前がいいんだよ」
その温かさを知って、今更他の体温を求めやしない。
本物がそこにあるのに、別のものでごまかす気分にはなれないだろう。
「そうですか…あの、僕も…」
「ん?」
「こういうことは、その、クザンさんにしか…、お願い、できそうもなくて…」
恥じらいながらもむずがるような仕草をしだして、察した。
若いからこうなるのは、普通なことか。
にしても。
「うら若き英雄の性癖を歪ませちまったなァ……ティーチが」
「3、4割ぐらいはクザンさんのせいだと思いますけど」
「おいおい、おれ一人の割合多くねェか。それ」
「えへへへ」
くすくすと笑う唇を塞いで、裾から手を潜りこませた。
ピクリと跳ねる敏感な体を愛でていれば、清廉で幼げな雰囲気はあっという間に、蠱惑的で艷やかな色気に変わってしまう。
「…クザンさん、泣いてます?」
「泣いてねェよ。…泣きそうなだけだ」
ああ。
生きていたから知れたんだ。
こんなに満たされる夜があるなんて。