相棒も知らない彼のこと

相棒も知らない彼のこと



 

 コビーは意外と物を語らない。


 そう言ってしまうと語弊があるか。ヘルメッポは報告書を白けた目で見ながら、ブラックコーヒーを啜った。報告書には、コビー大佐の番は四皇・黒ひげで確定したと仰々しく書かれている。


 理論武装は得意じゃないにしても、雑用係になりたての頃はキャンキャンとうるせえガキだと思っていた。ちょっと揶揄うと、声変わり前の子ども特有の甲高い声でなんのかんのと怒り出す。このよく回る口は“そういう環境”にいたんだろうと薄々思っていた。コビーには、喋る相手がたくさんいたのだと。

 変声期にどれだけ声が低くなるかは、その人間がどれだけお喋りかによるところがあるらしい。喉をよく使う奴は比較的高く、あまり使わない奴は比較的低くなる。 16歳の半ば頃からコビーも変声期を迎え、今はもう安定したとはいえ男性の中では高めの声をしている。それを踏まえてみても、コビーには話をする相手がいたはずなのに、そんな話は一切聞いたことがなかった。こうも隣にいながら、ヘルメッポは思い出話のひとつも聞いたことがないのだ。


 つまるところ、彼はあまり自分のことを話さない。自身のバース性についてもそうだ。

 コビーへの伝言を頼まれたものの、中々捕まらない日があった。やっと廊下を歩く彼を見つけ、少しだけ恨みがましく「どこ行ってたんだよ」と声をかけた。すると、「医務室に抑制剤をもらいに行ってました。すみません、探しました?」となんでもないように返された。そこで初めて、コビーがΩだと知ったのだ。当人も隠している様子は無かったが、当たり前のように自分と同じβだと思っていたヘルメッポはかなり驚いた。Ω性が発露して以降首輪をつけていることも、入浴時には抑制剤を使っていることも全く知らなかったのだ。

 その時、少し不安になった。もしコビーの身に何かあったとして、Ωだと知らない自分が対処できただろうか。彼が困った時に、頼ってもらえる自分であるのだろうかと。


 そんなこともあって、ヘルメッポは何となくコビーには好みの女はどんなだとかそういう話を振ったことがなかった。下ネタにしても、下世話な話にしても、何となく振って良い人間いけない人間というのは嗅ぎ分けられるだろう。それに似たものだ。内心過保護かもしれないとは思いつつも、その手の話が好きな者からはコビーを遠ざけるよう、あるいは盾になるよう立ち振る舞っていた。彼にとっての安全地帯でありたかった。

 だから首に巻かれたままの首輪を見ては、きっといつか突然この人が番の方ですと紹介されることになるんだろうなァと、漠然と思っていた。


 それなのに。





 黒ひげによるコビー大佐拉致事件の数ヶ月後。

 コビーはとある田舎の島の洞窟の中で発見された。地方の海兵からの報告を受け、病院船を伴ってヘルメッポ達は現場へと急行した。

 あの時の惨状は、今も瞼の裏に焼きついて離れない。

 血や体液で汚れた海軍コート、何も身につけていないコビーの体中に残る鬱血痕、縄の擦れた痕、傷跡。頸にくっきりとつけられた歯型。下ろされた瞼はほのかに赤く腫れていて、頬を伝った涙の跡を見ても、合意じゃないことは明らかだった。

 世界から音が消えて、怒りで目の前が真っ赤になる。


「ッ、コビー!!!」


 気付けばコビーのもとへと駆け出していた。

 部下達が引き止めるのも振り払って、今回の長たるヤマカジ中将の下、第二系統の指揮官は今自分しかいないというのも忘れて、自らコビーを抱き起こした。


「……っ、ぅ、んん……」


 コビーは瞼を閉じたまま、くぐもった声を漏らした。ヘルメッポの腕の中で体を震わせ、縮こまるような動きをしている。

 不意に、ぐちゅ、と粘り気のある水音がして、続いてパタ、タ、と液体が床を叩く音がした。嫌な予感がして下を見下ろしてみれば、コビーの脚の間から白濁したものが滴り落ちていた。意識のないコビーが、ガッとヘルメッポの胸元あたりの服を掴んだ。


「……てぃ、いち、」


 祈るようなか細い声で、それでも確かに、コビーは「ティーチ」と呼んだ。

 ────黒ひげが、こいつを。名前まで呼ばせて。

 あまりのショックに、ヘルメッポは呆然としてしまう。服を掴むコビーの手に自らの手を重ね、やんわりと下ろしてやる。コビーは眠りながらも、苦悶の表情でヘルメッポに身を寄せている。嘆き、怒り、悲しみ、あらゆる感情が駆け巡り、ヘルメッポの息が浅くなっていく。


「ヘルメッポ少佐殿」


 労しげなその声に顔をあげてみれば、医務班の面々が待っていた。綺麗な大きいシーツを広げ、さあこちらへと言わんばかりだ。


「……頼んだ」

「はい」


 テキパキとコビーの身体がシーツに包まれ、担架に乗せられていく。下敷きになっていたコートも回収され、残された体液を採取しに白づくめの隊員がザッと洞窟内に侵入してくる。

 その光景を白昼夢のように眺めながら、ヘルメッポは撤退命令を指示したのである。



 そんなことがあったのが、二週間前。

 あれから検査の結果、コビーの頸を噛んだのは黒ひげだと断定された。その報告がヘルメッポの方にも回ってきたのである。

 ため息をついて、ヘルメッポはささくれた心持ちで報告書にサインをする。こんな報告書、見たくも無かった。


 保護されたコビーはというと丁度ヒートの真っ只中だったらしく、しばらくは極端に幼い様子で黒ひげを探し回っていた。ベッドを抜け出し、止めにきた看護師に黒ひげの行方を尋ねるのである。ここにはいないと言われて暴れるということはしなかったものの、散々聞き回った挙句「ぼく、おいていかれちゃったんだ……」と溢したきり塞ぎ込んでしまい、ご飯も食べてくれないんですとヘルメッポはSOSを食らった。

 その後ヘルメッポのケアの甲斐もあってか以前のような彼が戻ってはきたものの、セカンドレイプの危険性から番った経緯については触れられないままだった。

 ヘルメッポもつきっきりというわけにはいかないものの、時折病室を訪ねては看護師に代わってコビーの包帯を取り替えてやった。全身の傷は治りが早いものの、唯一頸に残されたものだけはいまだに鮮やかな赤の膜を張っている。


「うへェ、痛そうだ」


 うっかり、包帯を外しながらそんなことを溢してしまった。ヘルメッポの中で傷に触れる話題はしないと決めていたので、しまったと顔を青ざめさせる。


「痛くないよ。痛いことなんて、何もされてない」

「は……」


 嘘つけ、とでも言えたら良かったのだろうか。

 でも、頸をさするコビーの手つきがあまりにも愛おしげに見えてしまって。


「あ、そういえば、リカちゃんのおにぎりの具、また変わりましたね」


 毎季節楽しみなんですよね〜、なんてのんきな声が遠ざかる。


 またお前はそうやって、なんでもないように。

 本当に番が黒ひげで良かったのか?

 痛くなかったのは、ヒート中だからであって、わけのわからないまま番にされたんじゃないのか。お前の心はどうなる。あんなに泣いた跡があったのに。

 好きな人の一人も、本当にいなかったのか?


「……ヘルメッポさん!」


 いつの間にかコビーがこちらを振り返って、眉尻を下げてヘルメッポを見上げていた。


「ありがとう。大丈夫だよ」


 その言葉はいつの間にかぐるぐると巻きすぎていた首元の包帯のことなのか、ヘルメッポが今し方悶々と考えていたことなのか、どちらに対してなのかは聞けず仕舞いだ。

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