白を満たすは赤

白を満たすは赤



越後の軍神、長尾景虎。

生涯無敗。人は私を恐れ、それでも私の力に縋った。人としてではなく神として縋った。

向かうところ敵は無し。私に敵う者など無し。故に全ての人は弱き者。義によって守り、義によって排する者。そこには私情の一つもない。元より人の心など知る由もない。

私が持つ記憶はそうだった。私が識る記録はそうだった。

ただ、穴があった。記憶の大部分にぽっかりと大きな空白があった。

その空白の中で自分に何かしらの変化があったことは理解できた。知ることなどできないはずなのに人を知りたいと思ってしまっているからだ。

けれど、その気持ちが何故起こったのかが全く分からなかった。大きな空白に飲み込まれて、よすがの一つも見えはしない。確かにそこにあるはずなのに。

その記憶がない私は私であって良いのだろうか。

 

 

 

「記憶の欠如…ううん、どちらかと言うと記憶の封印と言うのかなぁ。生前の人生において一番縁が深い相手との記憶だけが封じられて思い出せない状態だね。人によっては記憶が封じられても問題なかったりするからできればこの異常事態が解決するまで待ってもらいたいんだけど、こうまで精神に影響が出るようなら仕方がない。支柱がボロボロになった家なんていつ倒壊してもおかしくないからね。それに協力者は必要だけど別個で解決方法が無いわけではないんだよ。ただ……その解決方法はちょーっと問題あるんだよね」

カルデアの一部のサーヴァントに発生した霊基異常。調査の結果、聖杯が関係しており、その影響で一番縁が深い相手との記憶が無くなる事象が一部で発生しているとの事だった。

カルデアの技術顧問でもあるレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を聞いて景虎は合点がいった。この大きな記憶の欠如は聖杯の影響だったのかと。

どうやら記憶は生前のものだけでなく、カルデアに来てからの記憶もその相手に関するものは全て封印されているとのことだった。

その相手に対する記憶が全くないせいで、一番縁が深い相手と言われても誰の事なのか景虎にはピンとこない。ただ、記憶の状況を見る限り、相手は一人しかいないとダ・ヴィンチは断定した。

必要な協力者はすでにここに呼んでいるからしばらく待っていてほしいと言われ、景虎はその協力者の名前も分からないまま座して待つことになった。

長尾景虎における一番縁の深い相手。記憶の大部分の空白を一手に担う相手。人だろうか、神仏だろうか。

時を刻む秒針が三周ほどした頃、景虎の背後にある扉が開く音がした。その音にふり返ると、赤いコートを肩にかけたスーツ姿の男が立っていた。

「ご足労いただきありがとう。待っていたよ、武田晴信」

武田晴信。私の、長尾景虎における一番縁の深い相手。

相手の顔を見れば少しは何か思い出すものもあると思ったが、景虎にそのような感覚は一切なかった。ただ、コートの鮮やかな赤はいやに目についた。

 

晴信は促されるまま景虎の横に用意された椅子に腰かける。この異常事態の件はまだ聞かされていないようで、景虎を見る目は、何をやらかしたんだと言いたげな疑心をはらんだ目をしていた。

「さて、今回呼び出したのは今カルデアで起こっている霊基異常の件でね。実は……」

ダ・ヴィンチがカルデアで発生している霊基異常の件を晴信に向け一通り説明する。

二度同じ話を聞くのは退屈で、その間景虎は、うなずくたびに揺れる男の結われた髪を横目で追うことで暇を潰すしかなかった。

 

「で、ここからは長尾景虎、君にも初めて話すことだから聞いてほしいんだけど。件の解決方法の事なんだけどね」

「あ、はい。聞いてますよ」

人らしく、景虎は話を聞くためにダ・ヴィンチの方に向き直る。

景虎と晴信を交互に見、ダ・ヴィンチは少しだけ言葉を濁し、口を開いた。

「その方法っていうが……失った記憶の対象者、つまり一番縁の深い相手セックス、所謂性交をすることなんだよね。肉体を繋げることで直接的になった縁を頼りに記憶を呼び戻すと言うかんじかなぁ。それなら手をつなぐとかハグとかでも問題ないはずなんだけどそれじゃあダメだったんだよね」

絶句。口の笑みはいつも通りそのままに、景虎は目を見開き言葉を失くすしかなかった。

性交。人の営みにおいて必要はあるもの。魔術、儀式においても一部で必要になる場合もあるもの。聞いたことはあるが、聞いたことしかなかった。

生前において、それは景虎とは無縁のものだった。

「……つまり、成功例がいると?」

「誰かは言えないけどね」

絶句している景虎に代わり、晴信がダ・ヴィンチに詳細を問う。

その返答に、早期解決に至った誰とも知れない者達を思う。ありがたいような、今後のカルデアの生活を見直したくなるような、複雑な思いが晴信の心を掠めた。

これを聞いた景虎の反応はどうかと見れば、パチリと二人の目が合った。困惑か、混迷か、口元には笑みは貼り付けたまま、惑う瞳と目が合った。

武田晴信に関する記憶が無い今、景虎にとって自分はどこの誰かも分からない初めて会った相手も同然だろう。さすがに景虎と言えども人の女、そんな相手と寝所を共にするなんて事は嫌に決まっている。

「他に方法は本当に無いのか?」

晴信が追及すれば、ダ・ヴィンチは眉をひそめ少し逡巡する様子を見せた。この様子は何かあると、二人はダ・ヴィンチの言葉を待つ。

それを見て、しぶしぶと言った様子でダ・ヴィンチは口を開いた。

「生前、君たちが夫婦だったわけでも、密かに恋仲だったわけでもないのは承知の上で、これは一番手っ取り早く、かつ解決が確立された唯一の方法だから提案したものだ。一応もう一つ策はあるが、これは事件解決するまでの対策でしかない。それは、この異常が解決するまで思考を停止させる術をかけさせてもらう」

「思考を停止……ですか」

「そこまでする必要があるのか」

「停止と言ったら外聞が悪いが、ようは思考が霞みがかった状態になってもらう、ということだ。人の思考と言うのは、矛盾を突き詰め、論理の穴に気が付くほど不安定になっていくものさ。生活に支障が出ない部分なら本当に問題はないんだけど……彼女の場合、もともとの性格の主軸の一つは戦で成り立っているし、そして長尾景虎の戦の記憶に武田晴信は欠かせない。欠かせないならその空白を見て見ぬふりはできないだろう。できないなら異常は進み続け、いずれは暴走、最悪……なんてことにも繋がりかねない。だから一時的に思考を停止させる必要があるのさ。ただ、これはあまり長期間の使用を想定されているものではないからね。今日明日で改善できるかもわからない状況で、いくらサーヴァントの身とは言えど技術顧問としてはできれば推奨はしたくないなー」

軽やかな声で締められた言葉とは反対に、景虎と晴信の口は重く閉ざされることとなった。

天秤にかけるにはどちらも酷い内容で、なんならつまるところ選択肢は一つしかないと言っているようなものではないか。

景虎はちらりと自分の隣に座す男を見る。自分はこれまで一度も経験はないが、一応縁深いと言われる者だとしても初めての相手がこの男でいいのだろうか。

景虎の視線に気付いてか、晴信が景虎に目を向ける。

しばしの見つめ合いで意を察したのか、「決断はおまえに任せる」と言ってきた。

結局のところ、この男にとっては他人事でしかないのだろう。景虎は晴信から目を背け、しばし考えることにした。

 

思考を曇らせてしまってはいざという時に対応できない上、その後の戦いに支障が出るかもしれないとあっては選択の内に入れるわけにはいかない。けれどこんなことで霊基に影響してしまうのもとても困る。

自分はここにいなければならない。弱き人の身でありながら世界の為に戦うマスターを支えるためにも。

……何か他の目的もあった気がしたけれど、それが何かは思い出せない。それも空白の虚に飲み込まれたのだろうか。

というか、そもそも生涯不犯であったのも、生前自分を人の女として見る人間がいなかったからだ。幾度か話が来なかったわけではないが、その全ては塵と消え、次第に持ち掛けられる話も潰えていった。人に伴侶は必要あれど、軍神には必要非ず、とは誰の言葉だったか。

最終的に、上杉は自分と縁ある子を後継にして事なきを得た。多少の問題があったとしても、名分は守られた。 

結局はこれも同じことだろう。個の心情と身は大局の為に多少は削られるもの。この男が自分に一番縁深い相手で、私に決断を任せると言うのなら手を貸してもらいましょう。

今はサーヴァントである身。性交したところで子ができるわけでもなく、他家との関係や家臣を気にする必要もない。なるほど、迷うことなど何もない。

 

「わかりました。性交で解決する策で手を打ちましょう」

そこに気持ちは一切なく、手っ取り早く事態を解決できる方法がそれしかないというのならその方法とるというだけだった。

景虎は、すくりと立ち上がり晴信を見る。

「それではお願いしますね。えっと――――」

先ほどダ・ヴィンチが名前を呼んでいたはずだが、とっさにその名を思い出せず景虎は言葉に詰まる。この男は本当に自分と縁が深い相手なのだろうか。

そんな口ごもった景虎の様子を見て、晴信は察する。この女は自分に対する記憶を思い出せない上、興味関心すら失っていると。ああ、まったくもって――――ふざけるな。

「武田晴信だ」

「たけだはるのぶ」

苛立ちげに教えられた名前を景虎は口の中で反芻する。味のしない霞を転がしているようだった。

「カルデアとして貴重な戦力を失うわけにもいかないというのなら助力もやむをえまい。…………だがその前に一つやるべきことがある」

「はぁ、やるべきことですか。一体何でしょう」

景虎の問いには答えず、椅子から立ち上がった晴信はダ・ヴィンチに向かって言葉を発した。

「シミュレーター室を使わせてもらうぞ」

「えっ!?やるならちゃんと防音魔術とかかけた部屋を用意するからそこでやってほしいんだけど!」

「私も初めてが変な場所ではちょっと心情的に複雑なんですが」

「そういうんじゃない!」

向けられた非難の声を一喝し、晴信は改めて景虎の方に顔を向ける。

「何も知らない相手と寝ろと言われてそのまま寝るやつがあるか。……どうせおまえは口で教えたところで右から左へ素通りさせるだけだろうしな」

そう言うと、晴信は自らの腰に下げていた軍配を手に持った。見せつけるように晴信がそれを肩に構えるも、やはり景虎に見覚えなど感じさせることはなかった。

「武器を持て、景虎。武田が、俺がどんな相手か教えてやる」

鋭い眼光が景虎の身を貫く。

知らぬようで身に覚えがある感覚が背を走った。これと似たような感覚を知っている。強者と言われる者と初めて対する時の期待だ。

「さすが一番縁が深いと言われるだけあって分かってますね。いいでしょう。その提案、受けて立ちましょう」

「零基に異常をきたしてるって言ったよね!?本当に崩壊でも始まったらどうするつもりだい!」

焦るダ・ヴィンチの言葉も、すでに二人の意には介されない。

それで崩壊するならそれまでのこと。そもそも多少の異常が降りかかっていたとしても、多少戦いに出たところで崩れるほど軟弱な身ではない。景虎自身はもちろん、晴信もそれは承知の事だった。

「心配ありません。ちょっとだけ、ちょっとだけですから」

「部屋は後で使わせてもらう。置手紙でもしておいてくれ」

「えー……」

呆れ、言葉を失ったダ・ヴィンチを置いて、二人は連れ立ってシミュレーター室へと向かって行った。

 

 

 

鈍色の空の下、湿気の蒸せる戦場の地。それが晴信が指定した空間だった。

「ここは……?」

景虎が問えば、それすら分からなくなっているのかと呆れられた。

その後、「川中島だ」と晴信は短く答える。

川中島、確か信濃国にそんな名前の地があったはずだと思い出す。けれどそれがここで持つ意味が分からなかった。

「では、ここは思い出の地か何かですか?」

その問いに返答はされず、晴信は景虎と距離をとって相対した。

「服はこのままでいいな」

互いに当世の衣装のまま、武器を構える。仔細に場を整え、覇気すら戦の場に相応しいものだけに、互いの恰好だけがこの場に不釣り合いの様に思えた。

どこか滑稽に見えるそのさまを、笑える者はどこにもいない。

「始めるぞ」

晴信の言葉と同時に、二人は地を蹴った。

 

一時間、二時間、刃を交えた。

三時間、四時間、覇を競った。

五時間、六時間、血が沸いた。

 

決着の見えない戦闘に、勝敗のつかない事への高揚感に、景虎は既視感を覚えていた。

 

私は、この感覚を忘れていたというのですか。

誰も敵わなかった自分に、ここまで食らいついてくる者がいるだなんて。

楽しい。し合いたい。楽しい。戦いたい。楽しい。もっと交えたい。楽しい。もっと知りたい。

この男が私の空白の相手ならば、思い出さなければいけない。

忘れたままでいるなんて、この感覚を知って耐えられるわけがない。

 

景虎の心の中にぐわりと瞬きが湧き出た。

それが何時かの日に覚えた執着のそれだとは景虎自身が知る由もなかった。

 

「終いだ」

景虎の一閃の突きによる槍を軍配で捌き、晴信が言った。

連続でくり出された剣を魔術の補助に身体強化で回避し、景虎の斬撃の射程外へと出る。

「なんの、まだまだやれますよ」

「知っている。だが今はお前の異常を直すのが先だ」

「……それもそうでしたね」

この高揚感を逃しはしまいとなおも追撃しようと構えた景虎を晴信は言葉で制す。自分の状況を思い出したのか、しぶしぶと言った様子で景虎は武器を収めた。

当初は一時間足らずで終えるつもりが、すでに六時間以上経っていた。本来なら時間など気にせず力尽きるまで戦う二人だったが、今はそうも言っていられない。けれど、そうは言っても一度この相手と戦いを始めれば、簡単に終えられないのが癖となってしまっていた。

「それで、もう一度名前を教える必要はあるか?」

「馬鹿にしてるんですか?覚えましたよ。武田晴信、でしょう?」

景虎の返答に晴信は得意げに笑う。その子供のような笑みの真意をはかりかね、景虎はただ首をひねった。

 

 

 

シミュレーターを終了すると、すぐ目に付く場所にダ・ヴィンチからの手紙が置かれていた。

封を切れば、通常の居住区から少し離れた空き室の一つを整えたので使用してほしいと書かれていた。

示された場所へ向かえば、最初に用意される簡素なマイルームと同じ造りの部屋だった。元々は空き部屋だったためか、最低限の寝具の用意がなされているだけで調度品の類も何もない。唯一シャワールームの傍にタオルは用意されていた。

「湯は出るな。景虎、一度身を整えろ」

景虎が部屋の内装を眺めている内に晴信はシャワー室を確認していたようで、温度を確認しながら声をかけてきた。

「サーヴァントなのにそういうの必要なのですか?」

「シミュレーターと言っても戦闘の後だろ。それにこれは最低限の相手への礼儀だ」

礼儀と言われたら景虎は従うしかない。閨の作法なんて知識のみでは知っているが、その知識に無い礼節の類ももちろんあるのだろう。

「随分と詳しいのですね」

「一国の将としての経験だ。おまえは知らなくても仕方ない」

武田晴信、どこの国の将だったのか。今はそれも思い出せないが、自分とこれほど対等に戦えるのだ、名の知れた国のはずだ。

いいから早く入れと晴信に急かされるまま景虎はシャワー室へと入る。扉を閉めれば、すぐに晴信の気配が扉から遠くなったことが景虎には分かった。もう少し話を聞きたかったが仕方がない。

身体に纏っていた服を消し、上部から五月雨の様に降ってくる湯をその身で受ける。これはどのくらい清めればいいのだろうか。少し思案したがどうせ分からないのだと諦める。日頃の湯浴みと同じでいいだろう。

そうして、景虎はシャワーを浴びながら頭に地図を思い浮かべる。

越後の下、信濃を始めとした南の領域に霞がかかっているのが分かる。だからこそ、はっきりとしている上野、武蔵、相模、駿河、地形に沿って大まかな輪郭を思い描く。きっとそこがあの男の国だ。ただ、その国の名前はどうしても思い出せない。

分からない事も苦しいものだったが、思い出せない事もこうもやるせないものか。

「国……一国の将としての経験ですか。……私も越後の将なのですけどね」

けれど確かに自分は知らない。知りたいと思ったこともなかった。この先もそう思うことすらないだろう。

湯を浴び過ぎたのか、じくりと身体が熱を持ってきているのを感じる。

考えながら湯を浴び過ぎたのだろうかとシャワーと止めれば、肌に滴る水の流れを無意識ながらに感じ取る。

つうっと内股を流れた雫の感触に、景虎は思わず肩をビクリと跳ねさせた。

「んん?何でしょう……今の感覚?」

自分の思いがけない反応に景虎は首をひねる。正直なところ、もう分からないことが多すぎて全ては思い出せた後でもいいかと思い始めていた。

景虎は足早にシャワー室の扉を開けてタオルを纏い、水気を取るのもそこそこに晴信が待つ方へと向かって行った。

 

ベッドの方へ向かえば、晴信が腰かけて待っていた。

まだ水を滴らせている景虎を見れば、呆れたようにため息をつく。

「俺も準備をしてくる。その間に髪と身体をちゃんと拭いておけ」

そう言って景虎の横を通り過ぎ、先ほど景虎が開け放ったままの湯気が残るシャワー室の中へ入っていった。

その背中を見送り、景虎は今一度自分の状態を見る。ざんばらの髪から落ちた雫が床を濡らしていた。

景虎は纏っていたタオルを頭からかぶり水気を一切取るように激しく拭く。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、自分とあの男は生前は夫婦でも恋仲でもなかったと言った。それなら何故あの男は今ここまで冷静なのか。一国の将ともなる男ともなればどんな相手でも女となれば抱けるのだろうか。

あの男がどんな男か、記憶を封されている景虎にはまだ僅かばかりしか分からない。それなのに。

「……なんだかどうにもすわりが悪いですね」

それなのに、どうにも息が苦しくなるのだと、溺れた人間が空気を求めるように天を向く。

照明が照らす天井よりも、シミュレーターで見た鈍色の空の方が明るかったように思えた。

 

水気を吸ったタオルを肩にはおり景虎はベッドに腰かける。

しばらくすると、晴信がタオルを腰に巻いてシャワー室から出てきた。

湿り気が少し残るその髪頭部上半分だけまとめ、結い上げる。

その際の上がった腕の逞しさに、伏された目のまつ毛の長さに、顔にかかる前髪の乱れに、景虎の心臓が少しどくりと脈打った。

武田晴信の準備が終わる。

何故だか今さらながらに自分の身にこれから起こることに対して焦りを覚えている気がして、景虎は戸惑う。もしかして、一番他人事に思っていたのは自分自身だったのだろうか。

自分の胸に手を当て戸惑う景虎に、髪を結び終えた晴信が近付く。

「景虎」

名前を呼ばれて顔を上げたその頬に、晴信の手が添えられた。大きな手が景虎の頬を、耳を撫でると、ぞくりいと腰が浮き立つような感覚に襲われた。

「今から抱くが、本当にいいんだな?」

期待?不安?怒り?ないまぜになったような感情が晴信の声に感じられた。けれど、今の景虎にはそれが自分の戸惑いによるもののせいでそう聞こえるのか、武田晴信がそのような声を出したのか判別がつかない。

けれど、ここまで来て止めることはできなかった。おそらくこれも記憶が思い出せなくなっている所以の不安定さだろう。記憶が戻ればこの戸惑いも消えるはずだ。それに何より……。

景虎が晴信の目を見る。自分が見つめても真っすぐと見返すこの男を少しでも早く思い出したかった。

シミュレーターでの戦闘の高揚感を思い出す。きっと、明日もこのままだなんて耐え切れない。

景虎は、一つ呼吸をおき、晴信に言葉を返す。

「ええ、お願いします」

 

 

 

ベッドに横たわった景虎の身体を晴信が撫でる。

固くて筋肉質な手が、景虎の脇から腰を滑るように撫でれば、追従する親指が景虎の腹筋の端を沿うように這う。それを二、三と繰り返せば、くすぐったいような、物足りないような感覚が景虎の身を走る。

その様子を確認すると、景虎の乳房に手を移し、晴信の手に収まるほど良い大きさのそれを下から寄せ上げるように優しく揉みしだく。

「っん……あっ……」

胸を揉まれているだけなのに、晴信の手の熱が、動きが景虎の乳房を奥から刺激してくるようで、気付けば胸の先端は固く盛り上がっていた。

晴信の指がその先端の周囲を焦らすようになぞり、側面を沿うよう指の腹で撫でる。胸全体の刺激とは違う弱い微弱な愛撫に、もっと強く、と言いかけ景虎は慌てて口を紡ぐ。

今、自分は何を言いかけたのか。初めてのはずなのに胸を触られただけでこんなにも感じてしまっているのか。

そんな景虎の様子を見て、晴信は景虎の右胸の乳首を口に含んだ。唇に挟まれ、舌で転がされる指とは異なる生暖かい感触に、景虎の肩が大きく跳ねた。

その反応を楽しむかのように、さらに右胸は口の中で弄ばれ、左胸は晴信の手によって揉まれ、その先端も先ほどの弱い撫で方とは異なり、程よい刺激を与えてくる。

触られているのは胸のはずなのに、なぜか下腹がきゅうっと伸縮するような痛みを景虎は覚える。けれど、それさえも胸の刺激の波に押しのけられ、身体の奥に掻き消えた。

「っ、あっ……なに、ですか…これ……」

胸なんて、ただの盛り上がった肉だったのに。どうしてこの男の手と舌でこんなにも弄ばれているのか。

自分の体が自分のものではないようで、景虎の頭は混乱で何の思考もまとまらなくなっていた。

一通り景虎の胸の突起をいじった後、晴信は右胸から口を離すと、景虎の首筋へとその舌を這わせた。晴信の舌が通った跡が細い筋となって空気の冷えを体に思い出させる。それもすぐさま身体の火照りで感じなくなるのだが、なんとも意地の悪さを感じさせた。

首筋を、肩を、跡が残らない強さで軽くかむ。まるで急所を探り狙われているようでたまらない。

 

先ほどまでの胸への刺激の余韻が少し引いた頃、景虎の左胸に納まっていた晴信の右手が体の線に沿って下に移された。

腰を通り、景虎の太ももを撫でる。その手の動きに身体が軽く反応すれば、首筋に晴信の暖かい吐息がかかる。触れている口の形から笑っているように思えた。

そのまま滑るように手が太ももの間に入れば、ぐちゅりとした水音が景虎の耳に入った。

「……えっ!」

その音に驚いて自分の下腹部を見ようと顔を上げるも、晴信の逞しい身体に視界を阻まれ確認することは敵わなかった。

そんな景虎の反応を気にもせず、晴信の指は景虎の秘部を開き、濡れそぼった入り口と上部の蕾を二本の指の腹で擦る。

「まっ、……ぁあっ!」

静止の言葉を発しようとした口から嬌声が漏れる。

擦られるたびに下から寄せあがってくる感覚が、耳に届く水音が景虎の思考を覆う。

自分の体が知らない間にこんな反応を示すようになっている。何故、どうして。おぼつかない頭で、未知の感覚への疑問を呈する。答えなど分かるはずがないのに思わずにはいられなかった。

まるで景虎の頭の中が疑問で埋め尽くされたのを見計らったかのように、秘部の外側を撫でていた晴信の指が突如中に侵入してきた。

入り口を広げるようにゆっくりと撫で広げ、中へ進められていく。

その時、自分の中を進む指の感覚から、ある事実に気付いた景虎の目が大きく見開かれた。

「…に、ほん……?」

「ほう、よく気付いたな」

気付かないわけがない。自分の身体だ。侵入してきたものの数くらいは分かる。

そう言葉にしたかったが、叶わなかった。

景虎の最奥に届いた指が突き当りの壁を指で軽く突けば、腰全体に何かが走る。そのせいで、景虎の口からは意味ある言葉を出せなかった。

初めてなのに、初めてのはずなのに。

景虎は、今まさに自分の中をまさぐっている武田晴信の手を思い出す。あの指が二本、自分の中に入っている。

ありえない。ふつうはこんなことはありえないはず。

中を広げられ、いきなり二本も指を入れられ、痛みもなく、苦しくもなく、ただ身体の内側を渦巻く衝動が景虎の脳を焼く。

側壁を撫でられ、上部を擦られ、指を出し入れされるたびに景虎の腰が浮く。わざとらしく水音をたてられているようで、外を擦られている時よりも大きく聞こえるそれに、頬に熱が集まってくるのを感じていた。

未知の感覚に息ができなくなりそうで、景虎は思わず晴信の体に縋りつく。

すると晴信は動きを止め、景虎の顔を見た。

「待って…ください……ずっと、分からない感覚が…体に、あって……」

息も絶え絶えに言葉を口にする。これも初めて行動のはずだが、なぜかやけに既視感を覚えた。

「安心しろ。お前が今感じているのは快楽というやつだ。知らん……というか忘れているだけだ」

その晴信の言葉に、景虎は晴信の顔を見返した。

ずいぶんと手慣れているとは感じていた。自分への与える刺激も経験の差故かと思っていた。けれど、もしや。

「……武田晴信、貴方は私の何なのですか」

ようやくそれを聞いたかと、晴信の目が、口が笑う。

「おまえの生涯の宿敵、武田晴信であり、武田信玄だ。そして……生前は夫婦でも恋仲でもなかったが、ここでは違う。それだけだ」

 

宿敵、というのはシミュレーターでの戦闘を思い出せばなんとなく理解はできた。けれど、その後に続けられた言葉に景虎は驚愕した。

その様子を見て、晴信は景虎の中に収めていた指をゆっくり引き抜く。異物がずるりと抜け出る感触に、景虎の喉からは意図せず声が漏れ出た。

「っん……私は……武田晴信、貴方の……?深い仲とはそういう……?」

「違う。いや、深い仲であることは違わないが……もともと俺たちは宿敵というやつだ。武田と長尾、おまえは後に上杉になるが、俺達は信濃の川中島で五度、戦を起こしお前と戦った。そしてその後も代理戦争という形でお前とぶつかった。そのおかげで俺を無くしてお前の人生は語れず、お前無くして俺の人生は語れない。ここでの関係がなくとも結局は俺に関する記憶が無くなっていただろう」

「川中島……」

シミュレーターで設定された場所の名前を思い出す。ぶっきらぼうに短い言葉で返された地と同じ名前。

「……やっぱり思い出の地じゃないですか」

「因縁の地だ!」

「あー、はいはい。そういうことにしておきましょう」

今まで感じた既視感に、身を走っていた衝動、分からぬと思っていた未知の感情全てに合点がいった。

まあ結局はまだ思い出せていないせいで分からぬままなのだけれど、それでも納得はいった。

私は今、この男と積み上げたものを何一つ持たず、知らないままなのに目が、身体が、感覚がそれを覚えているのだと。

「先に言ってくれれば良かったじゃないですか……」

そうすれば、こうも心が惑うことはなかったのに。

景虎のその言葉に、晴信は苛立たしげに言葉を放つ。

「先んじて言ったところでおまえ自身に聞く耳がなければ意味がないだろ。顔を合わせた時は興味も持っていなかったくせに」

「うぬぬ……それは、確かに」

どうしてそこで肯定するのかと、晴信はため息をつく。けれど、そのどうしようもなさが長尾景虎なのだと思えてしまっていた。

「はぁ……それで、どうする」

「どうするとは?」

「このまま続けるのか、続けないかだ」

「ああ、もちろん続けますよ」

晴信の問いに、先ほどまでの困惑した姿は何だったのか、あまりにもさらりと返してくる景虎の言葉に思わず面食らう。

「先ほどは自分の体の異変の理由が分からないから少し、ほんの少しだけ困惑していただけですから。理由が分かれば何も怖くありません。いえ、最初から怖がってなどはいませんでしたけど」

そう焦るように言葉を続ける景虎に、晴信は呆れつつも自然と口角が上がるのを感じた。

武田晴信の事を忘れていた景虎が、自分の知る長尾景虎に近づいていく。

記憶がなくとも、記録がなくとも、その体に、感覚に刻み付けたものが晴信に繋がった長尾景虎を呼び覚ます。

きっとこのままじっくりと時間をかけて記憶の空白を埋めていけば、これ以上の性交などしなくとも景虎の思考の不安定さはなくなるだろうと予測できた。けれど、それをあえて提示してやるほど、晴信は景虎に甘くは無かった。

「それなら、もう十分解したし、挿れるぞ」

「え、ええ。お任せします」

先ほど怖くはないと言った声はまだ少し緊張をはらんでいたが、今はあえて無視をする。手酷くするつもりは毛頭ないが、最初に方法を聞いた時点で多少の荒療治は承知の上だろう。

――いい加減俺の景虎(宿敵)を返してもらう。

景虎を愛撫している最中に、とっくに固くなっていたそれを、景虎の秘部に当てる。

一瞬びくりと景虎の肩が跳ねるも、問題はないようで抵抗の様子はなさそうであった。

そのままゆっくりと腰を落とし、景虎の穴へ自身を深く挿入していく。

既に過去、幾度となく晴信の男根を受け入れたそこは、景虎自身に記憶がなくとも膣全体が晴信の形を覚えていた。

熱く、とろけるように包み込んで脈打つ穴は、いまだ晴信にしか侵入を許していない。そしてこれから先も他の誰にも許しはしない。

自分のマラを根元まで加え込んだ景虎の腹を撫で、晴信は確固たる優越感を覚える。そして、同時にどうしようもない苛立ちも思い出された。

今、自分の下で、己の腹が晴信の全てを飲み込んだことに驚愕する景虎を見る。追い打ちをかけるようになってしまうが、言うべきか、言わざるべきか。

晴信は少しの間逡巡し、結局は口を開いた。きっとこれは言わなければ景虎には伝わらない。

「景虎」

自分の名を呼ばれ、景虎は顔を上げる。えらく真剣な晴信の顔がそこには見えた。

「俺を忘れるのはいい、どうせ忘れたままではいられなくなる。興味をなくすのもいい、おまえがおまえである限り俺を切り離せ続けるわけがない。でもな、知りもしない、興味もない……名前すら覚えられない男と寝るのに合意するのだけは、心底気に食わん」

静かに、低く、けれど確かに怒気をはらんだ声が景虎の心に刺さる。晴信の言葉が続けられるたび、杭を打ち込まれているかのように深く押し込められる。

何のことだろうかと景虎が記憶を掘り返せば、最初の名前を思い出せなかった時の話かと思い出す。もしや、ずっと根に持っていたのだろうか。

怒りか嫉妬か、はたまた別の何かも混ざっているか、自分の身に入っている男根以上の熱をその目から感じる。ギラつくように燃える目を。

晴信の手が、景虎の胴体を撫でる。肺を、心臓を、膣を、皮膚の上から熱を送るように。いや、実際に送っているのだろう、晴信の手が通った後の臓腑は激しく伸縮を繰り返して景虎の身体に熱を広げ続けた。

その熱に思わず目をつむり、身をよじった景虎の耳に晴信の声が届く。

「思い出せなくなっても忘れるな。おまえを満たすのは俺だ」

 

景虎の胴を撫でていた晴信の手が移動し、景虎の腰を掴む。

「動くぞ」

その言葉にこくりと景虎が頷けば、晴信の腰が勢いよく引かれ、その勢いのまま再度奥へと打ち付けられた。「ッ……ぁあっ!」

ごりっと臓腑が押し上げられる感覚に景虎の視界が弾け、顔をのけ反らせる。

その景虎の様子を気にすることなく、速度を緩めぬまま晴信は腰を動かし続けた。

中を擦られ、奥を突かれるたびに景虎は背筋に電流を走るような感覚を覚え、その感覚を少しでも逃がそうと背筋を反らす。ただでさえ肺の動きが思うようにいかなくなっていたところに気道を閉めるような体勢になってしまい、呼吸すらままならない。それでも下腹部から伝わる熱を、中をかき乱される感触を、止めてはほしくなかった。

それでも、どうしても苦しくて、景虎は晴信の方へ手を伸ばす。

その手を掴まれる事は無かったが、代わりに片腕を背中に手を回され抱きしめられた。そのまま後頭部に手を添えられ、胴体と一緒に上を向くように起される。

閉じられていた気道が確保され、肺に空気が流れ込む。けれど、それもすぐさま晴信に下から突かれて声と共に押し上げられる。

「にゃ、っあ…!あっ、んぁ」

前戯の時とは異なる激しい攻め方に、視界が揺れ、思考が白く染められる。押し付けられるように奥を突かれ、抉られるように引き出されるその動きからも、景虎の身体は勝手に刺激を拾っていく。

きっとこれが、体が覚えているという事なのだろう。そして、今もさらに刻み付けられている。

晴信の動きのスピードがさらに増した。景虎の腰を掴む手にも力が入ったのを感じた。

幾度目かの突きが景虎の奥壁を叩いた瞬間、必死に堪えていた衝動の塊が弾け、ひと際熱い渦が腹の奥底から巻き上がった。

「あッ――――っ!」

四肢に走る電流にも似た何かに、とっさに景虎は晴信の背中に縋りつく。

それと同時に晴信が一段と深く腰を落し、奥壁のその奥へと精を吐き出した。

濁流のごとく自分の腹の内を満たしていくそれに、景虎は先刻の晴信の言葉の意味を実感した。

 

一度達すれば、熱に浮かされた頭も少しは冷える。晴信は景虎のイった後特有の中の動きを堪能しながら、抱えたままであった景虎の頭を撫でる。

いつも最初は前戯で溜めた快楽を激しいピンストで発散するのを好む景虎に合わせていたため、記憶がないまま同じようにしたが問題なかっただろうか、と今さらながらに思う。

少し思い返してみたが、嫌がった素振りは微塵も無かったので大丈夫だろうと流すことにした。記憶が無くなったところで身体が覚えた好いところが無くなるわけでもない。

「……っはるのぶ」

武田の姓が無い。

晴信は自分の名前を呼んだ景虎の方を見、背中に縋りついていた手を緩めて晴信の腕一本に身をゆだねる景虎の身体をベッドの上におろす。こちらの方が顔が見えやすい。

「少しだけ、思い出せました。……けれど、まだまだ空白が埋まりません。もっと、満たしてください」

そう言って、景虎が晴信の身体に指先で触れる。胸板から腹筋までを沿って撫で、弧を描くようにその指をおろす。

きゅぅっと景虎の中が締め付け、晴信を誘う。

「っ、……分かったから先に教えろ。何を思い出した」

「晴信が、私を始めて……睨みつけてきた時のことを」

景虎の目が細められ、微笑みが漏れ出す。

「兵を薙ぎ払い戦場を駆ける私を恐れ、それでもこの目を見返してきたことを。人でない何かの私を、それでも人として挑んできたことを」

大切な思い出を紐解くかのように景虎は語った。

当然と言えば当然なのだが、思い出すのが自分にとっての最初の敗退の記録だとは。正直恰好がつかないので、晴信は途端にきまりが悪くなったように感じる。

「忘れろ」

「忘れても晴信が思い出させるんじゃないですか」

景虎が可笑しそうに笑う。その言葉に逃げ場が無くなった晴信は、わざとらしくため息をつくくらいしか抵抗を見せることができなかった。

「全部、全部思い出させてください。そうしたら……シミュレーターでの続きもやりましょう」

「おまえ結局それなんだな」

まあそれも構わないと晴信は思う。中途半端に終わらして、物足りないと思っているのは晴信の方も同じだった。日を改めてなら、平和な時にでも気のすむまで付き合うのもやぶさかではないと、そう思っている。

けれど、今は景虎を、景虎の記憶を全て満たすのが先だ。今は景虎の中にある空白を、隙間なく満たさなければ気が済まない。それに、交わった分だけ思い出すと言うのなら、景虎の中で自分の存在がどのくらい大きいのかを推し量れるいい機会だと晴信は思った。

どちらからともなく手を握る。

そのまま再び体を重ね、晴信と景虎は体力の続く限り求め合った。

 

 

 

後日、異常の回復を確認するためメディカルルームへ行った景虎が「仲が良いのは結構ですが傷痕を残すのはほどほどに。所有痕は歯型や内出血ではなく別の方法を検討なさい」というナイチンゲールからの言づてをもらってきたため、消えたくなった晴信がいたと言う。

 

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