生きるということ

生きるということ



「雪は嫌いか」

 眩い月の光が白い大地を照らしていた。その上で顔馴染みたちとマスターが子供のように駆け回っている。

 その様子を見守るように眺めていた謙信は、ゆっくりと隣に視線を移す。

「なぜ、そう思うのですか?」

 問いに問いで返した謙信に男は、武田信玄は片眉を吊り上げた。

「お前ならばマスターと雪遊びに興じるかと思っていたのだが、」

 ぐっと盃を傾けて信玄は温まった酒を飲み干す。

 謙信は空になった盃に注ぐため徳利に手を伸ばした。しかし信玄に手を取られ、先ほどの問いに答えろと暗に迫られる。

 握られた温かい手に何かが溶かされたのか。謙信ははぐらかすのを止め、静かに口を開いた。

「……嫌いではありませんよ。ただ、そうですね……雪は、全てを覆い尽くすでしょう?」

 雪に覆われた山は、木々は、大地は、全てが白く塗り潰されている。

 それを美しいと感じる心を、生前から謙信は持ち合わせていなかった。

「耳が痛くなるほどの静けさに飽き、早く春が訪れて欲しいと思ったこともございます」

 宿敵との度重なる戦いも、冬の間は互いに消耗するばかりで利がない。だから春と晩秋の間だけが、謙信にとって生きていると強く感じられる季節であり。

 終わりを告げる冬の到来は、謙信にとってただ酒を浴びるように飲み、時が過ぎるのを耐え忍ぶだけの季節だった。

 そう、ただ生命が途絶えていないだけで、あの時の謙信は死んでいるも同然だった。

 それを宿敵に教えることは、今後もないだろうが。

「それに童たちが雪玉を投げ合うだけの遊びに、あの頃の私は楽しみを見いだせなかった」

 もう一度、謙信はマスターたちに視線を移す。

 ここからも賑やかな喧噪が聞こえてくる。それは幼かった頃の自分が聞いたものと一緒なのに、今はこんなにも楽しそうだと思える。

 どうして? あの童たちとマスターたちに、何の違いが?

「今なら理解できます。あの時の童たちは、雪玉を投げ合うこと自体に楽しさを感じていたのではなく……誰かと遊ぶことに楽しさを見いだしていたのだと」

 一人で雪玉を作っても楽しくはない。だけど相手がいれば、ただ雪玉を投げ合うことさえも楽しい。とても単純なことなのに謙信は理解できなかった。

 あの戦場で、男と相対する楽しさを誰よりも理解していたはずなのに。

「ならば我と勝負するか?」

「……貴方と? 雪遊びで?」

 突然何を言い出すのかと謙信が目を丸くする。対して壮年であるはずの信玄は、それこそ童のように口端を上げた。

「なんだ、負けるのが恐ろしいのか?」

「いえ、それはあり得ませんが」

 雪遊びといえど勝負事。武田信玄と勝負をするのならば勝利以外の余地はない。

 胸を張って即座に否定する謙信に、なぜか信玄は声を上げて笑った。

「揶揄っているのですか」

 謙信はふんっと鼻を鳴らして信玄に背を向ける。謙信自身に自覚はないのだろうが、その姿は拗ねた童そのものだ。

 信玄はそれ以上謙信が機嫌を損ねないように笑いを引っ込めるが、依然と声は愉快だと言わんばかりに上機嫌である。

「謙信、そう拗ねるな」

「拗ねてなどいません」

 攻防の末。これは埒が明かないなと信玄は観念し、絹のようになめらかな髪に隠れた謙信の首筋をそっと指先でなぞる。

 すると、何事かと雪中から跳び出した子兎のように謙信が振り返った。雪のような白い頬に、ほんのりと朱が差している。

 きれいだ、と心中で信玄は想った。

「すまん。お前のそういう所がいじらしいと思うてな」

「い、意味がわかりません」

 ぶつぶつと謙信が小声で詰るが、未だに赤い頬を見れば悪い気がしていないことは一目瞭然だった。

 信玄はそれを指摘して藪蛇を突くことはしない。「それで、どうするのだ」と話を戻す。

「そう、ですね……」

 ほんの少し、謙信は月を仰ぎ見てから「折角のお誘いですが、今日は遠慮しておきます」と断った。

「そうか、」

「その代わり」

 しかし信玄に有無を言わせないかのように謙信が言葉を重ねる。

 どうしたと信玄が謙信を見遣れば、ちょうど謙信も月から信玄へと目を向けた。女の瞳が、熱を持ったように揺らめいている。

「……こんなにも静かな夜ですから、貴方の心の音を聞いていてもいいですか?」

 謙信は冷たい床に手を付き、信玄にゆっくりと身を寄せた。そして心臓が位置するたくましい胸に耳を傾ける。一定の間隔で脈打つ音に、謙信は満足そうに吐息を漏らし頬を緩めた。

「……あぁ。今夜は、お前の熱がよくわかる」

 信玄は応えるように謙信の背に腕を回し、互いの隙間を埋め、真白い額に唇を落とす。擽ったいのか女がくすくすと笑みを零す。

 英霊は死した人間だ。だからこの心臓の音も、触れた肌の温もりも偽りなのだろう。

 しかしそれでも、この身で感じる全てが愛おしい。その心を否定できる者など、誰もいやしない。

 だからたった今、この瞬間だけは。


 二人は確かに生きている。



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