甘い■望
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先生がアビドスに一人きりでやってきている。
それを聞いた時、私達全員が耳を疑った。
ありえない。頭がおかしい。だって、今の私達はかつてのような学校じゃない。それなのに、身を守ってくれる生徒一人もつれずに、ただ、来た?
現地からこちらに連絡をよこしてくれたハスミもひどく面食らった様子で、かつての冷静さを取り戻しかけ、それ故に情緒を崩しかけながら話している。
『そ、そうなのです。まるで、何も…私たちが何も変わっていないかのように、すれ違う生徒たちに穏やかに挨拶をして、調子を聞いて、名前を呼んで…そのまま、ホシノさんのいる校舎を聞いて、まっすぐ電車に乗って……止められなくて、だって、まだ、私達を…』
『……今日はもうお休みでいいよ。甘い物でも食べて休みな。』
プツリと電話を切り、思わず天を見上げる。
この情報を聞いた二人の反応はそれぞれだった。
ハナコはひどく面食らって、こちらを不安そうに見ている。
ヒナはぱあっと明るい顔になって、こちらを期待に満ちた目で見ている。
「少し、おじさんと先生、二人きりにして欲しい。」
私がそう静かに二人に言うと、二人は何か覚悟したような顔で頷いて、校舎から人払いをしにいった。
一人きりになり、久しぶりにモモトークを開く。そこには先生からの沢山の通知が溜まっている、今更すべてに目を通せば、どうしようもなく心が軋みそうで、上へと流し飛ばす。ちらちらと目に入る言葉のひとひらでさえ、目に入れていたくなくて、下にたどり着くまで、目を閉じた。
うっすらと目を開くとただ一言、今日の日付でメッセージがあった。
”『会いに来たよ、ホシノ。』”
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”や、久しぶりだね。”
「うん、久しぶりだね~先生。」
人手が増えて掃除が行き届き、随分綺麗になった教室。机と椅子は掃除のときのまま、壁際に寄せられている。モモトークにきたメッセージの通り、先生はそこになんてことないように入ってきて、椅子に座っていた。
最初に口を開いたのは先生で、私に声をかける声色はかつてと何ら変わりのないもので、私はそれに思わずかつてのような返事を返した。
もはやあのころとは何もかも変わってしまったというのに。
”マットレスはもうないんだね。”
「そうだね~、もう教室でサボることもなくなっちゃったからね~。おじさん毎日忙しいよ~。」
ああ、そんなこともあった。確か先生に手伝ってもらったんだっけ。
”元気そうでよかったよ。”
「うん、まあ忙しいけど元気ではあるね~。むしろ有り余ってるくらいかも~?おじさんがこんなに元気なのはレアだよ~?」
どうしよう、どこでやめたらいいんだろう。このぬるま湯のような、かつての残滓を取り繕って縫い合わせただけの薄っぺらい会話を。いつだってやめていいはずなのに、その一歩がどうしても踏み出せない。
先生は元気じゃない。顔を見ればわかる。目元のクマが濃い。座っているのだって、立っているとそれだけで疲れるからだ。きっと、生徒達のために必死で今まで動いてきたんだろう。
「その生徒達には、私たちもきっと入ってるんだろうねぇ。ほんと、先生ってば。」
返事をするな。これは幻覚だ、私は今、目の前の先生と話をしてるんだ。
私が少し言葉に詰まったのを見て、先生は穏やかに答えを諭すように、私に聞いてきた。
”対策委員会の皆は元気?”
「…うん、元気だよ。そっちこそ、シロコちゃんは元気?ここから出て行っちゃってから、先生の所にいるってこと以外わかんなくてさ~。」
イヤだ、やめたい。こんな風に話したくない。皆が元気なわけない、顔だってロクに見てないのにわかるわけない。シロコちゃんのことを私が心配する資格なんてない!
”うん、元気になってきたよ。…ホシノのこと、心配してた。”
「………。」
沈黙が教室を支配する。今日はやけに空が晴れ渡っている。窓から差し込んでくる日差しは明るくて、日に照らされる教室は、美しい水中を描いた絵画のように透き通っていて。…とても、とても、息苦しい。
ポケットに手が伸びる。そこには飴が入っている。きっと、私の呼吸を楽にしてくれる。
”………。”
先生はただ、黙って私を見ている。前と変わらない穏やかな微笑で。
私を責めていない。苛んでいない。
前と変わらず。私をただ『生徒』として、何をするのかを見守ろうとしている。
「ね、ねえ先生。今度さ、砂祭りができるんだよ。」
ポケットに伸びる片腕をもう片方の手で強く握り止めた。震える声で、先生に言葉を告げる。
「アビドスに、いっぱい生徒が集まってきてさ。教室も綺麗になったし、新校舎も建て替えて…色んな企画を頑張って考えたんだよ。」
あぁ、なんて欺瞞。全部全部砂糖で浸して犯したような最悪の物なのに。
「だからさ、先生、砂祭りまで、待ってよ。」
おかしいな。なんで泣きそうになってるんだろうな。私。泣く資格なんてないのにな。
「お願いだよ。そしたら全部元通りにするからさ…」
なるわけないだろ。バカじゃないのか。
きっと私は、笑っているような、焦っているような、縋るような。もう何がなんだかわからない顔をして、先生に話していたと思う。
先生は黙って私のいう事を聞いていた。疲れた目の奥にある光は真剣そのもので、私の憐れみを乞う声を、確かに受け止めてくれていた。
先生の乾いた唇が、そっと動きだした。
”……ホシノ。”
”…君を、君たちを助けたい。”
”今なら。まだ間に合う。”
”その手だてを、私は持ってる。”
そう言って、先生はふらふらと立ち上がり、私に手を差し出した。
”責任は、私がとるよ。”
最低最悪の生徒でも。この人は助けようとしてくれる。私達なんかを助けることによって起きる怒りも、憎しみも、全て受け止めるつもりでいる。
私の甘えた、逃げの命乞いじゃなくて、正面から責任を全て背負って私達を連れて行こうと思っている。
ポケットに入れまいと強く握りしめていた手がほどけて、少しずつ先生の手に近づいていく目が泳ぐ、指先が震える。先生はただじっと優しく、私を見ている。
「それはダメでしょ。」
伸びていた手が止められた。
私の手を、黒い手袋が絡めとっている。
耳元で囁き声がする。
全身に生暖かい体温が絡みつく。
「ダメだよ~。ホシノちゃん。ここでドロップアウトなんて。」
「今更希望を選んでいいと思ってるの~?」
「違う…違う……」
「何人泣かしたっけ。何人壊したっけ。途中から数えるのやめちゃったもんね。」
「先生が、先生がいる…!だから!!」
「先生が、とかじゃないよホシノちゃん。」
「ここで止まったら、みーんな皆、間違ってたことになっちゃうよ?」
「そうだよ!それでいいんだよっ!それが正しいんだ!!」
「あは〜。じゃあなんでやめなかったのホシノちゃん?間違ってるって思ってたのにやめなかったよねホシノちゃん。」
「間違っててもいいかって思ったからだよね?」
「私は、私は…!」
「砂糖はとっても…きもちよかったもんね?」
「違う!違う違う違う!!私はっ私は負けてなんかッ!!」
「ホシノちゃんが最初に選んだのは…先生(きぼう)じゃないよね?」
「コッチ、だよね?」
私のポケットに伸ばしていた手。片腕から解放された手の中に。
飴玉が一つ、握りしめられている。
ドンッ!!
”う”ッ!!……ホシノ…!”
立ち上がっていた先生を、伸ばしていた手で突き飛ばす。軽い先生の身体はそれだけで尻もちをついた。それでも、まだ先生は私に絶望も失望もせず、ただ、私を心配して、全身を震わせて今にも息が荒くなっていく私に声をかけつづけようとして、駆け寄ろうとしている。
「んあ”~…。」
だから、わざとらしく大きく口を開けて、飴玉を口の中に入れた。
あぁ、甘い。とってもとっても甘くって、溶けてしまいそう。全身がポカポカして、とっても気持ちいい。
「ごめんね~先生。」
にっこりと心の底から笑わされながら、先生に言ってあげる。
「おじさん、もう救われる気はないんだ~。」
先生の顔に、初めて、絶望の色が浮かんだ気がした。
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「うい~。ハナコちゃん。ヒナちゃん。お話終わったよ~。」
「先生には…スペシャルコースを受けてって貰うことにしたよ~。これから忙しくなると思うから…二人とも、アビドスに居てね?」
「…そう、いいわ。私はあなたがそれでいいならそうする。先生がいっしょにいてくれるようになるかもしれないのは嬉しいしね。」
「本当によかったのですか、ホシノさん。先生に手を出すのは…つまり…」
「…うん、もういいんだ。」
「戦争、はじめよっか。」