爪痕

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 拉致してきたコビーを牢へ放り込んだ後、クザンが「コビー大佐とゆっくり話がしたい」と黒ひげに申し出てきた。“ゆっくり話をする”の意味するところを理解した黒ひげは声を上げて笑い、お前なら特別にと許可を出した。海軍の人間を甚振って誠意を見せるというなら、こちらも試してやろうと思ったのだ。




 クザンが立ち去ってからしばらくが経つはずだが、牢の床は未だ薄らと氷の膜が張っている。

 サク、サクと踏みしめながら、黒ひげはクザンによって氷像にされた愚かな部下共を横目に檻をくぐった。きっと言いつけを守らなかった馬鹿がいたのだろう。その氷像に囲まれた中で、コビーは体を丸めて眠っていた。ご丁寧に布団までかけられている。

 黒ひげは白けた顔で屈み込んで、その布団を引っぺがしてやった。強く握られた痕は体の至るところにあるものの、血や白濁の類はまるで残されていない。クザンは一通り綺麗にしてやってからコビーを牢に返したようだ。

 別に追い出す気はないが、試験としては落第点か。とはいえ親しい人間がいるのは悪いことではない。こちらを攻撃する手が緩むからだ。懐柔されてくれるならむしろ好都合。建国の悲願を達成するまでは、ここにいてもらわなくてはならない。


 それはそれとして、黒ひげは英雄のツラが歪むのを拝みにきたのだ。対峙した時のあの反抗的な眼差しを思い出し、口の端が吊り上がる。高潔たらんとする姿勢を揺さぶることの悦は、何にも代え難い。

 黒ひげは愉快な気持ちでコビーの頬を手の甲で軽く叩く。

「おうい。不用心だなァ英雄さんよォ……」

 二、三度はたくと、コビーは身動いで薄く瞼を開いた。ゆるゆると黒ひげの方に視線を向け、そこにいる人物が誰なのか気が付いたらしく大きく目を見開いた。

 黒ひげは抵抗の予感にガッとコビーの体を押さえつけ、両腕を頭上にひとまとめにした。体を脚の間に挟み込ませ、逃げられないように覆い被さる。

 さあ、無力に歯向かって見せろ!

 黒ひげは凶悪な笑みを浮かべた。……のだが。

「ご、ごめ、なさ……ごめんなさい……っ」

 コビーは顔を真っ青にして、みるみるうちに潤んでいく瞳からぽろぽろと大粒の涙を溢し始めた。黒ひげから目を逸らせないまま、ひっくひっくとしゃくり上げて震えている。

「────」

「いだいのは……う、ぅっ……いたいのは、もうやでず……ひぐっ、ぅ、ごめ、なざい、おねがい……」

 コビーは観念するように瞼を下ろし、首を竦めて縮こまってしまった。そこにいるのは怯え切った子どもでしかなく、英雄の姿はどこにも無かった。

 予想外の様子に、黒ひげは呆然としてしまう。

「……ッヒュ、ごえ、なざ……っ、カヒュッ、ゆ、ゆるして、……ッ」

 抑え込んだまま動かない黒ひげに、コビーの体の震えは大きくなり、呼吸も次第に浅くなっていく。様子のおかしい呼吸音が混じり出したのに気がついて、黒ひげはようやく慌てて手を離した。

 コビーは自らを守るように丸まって、苦しいのか口を大きく開いて肩で息をしている。もはや死んでしまうのではないか、とすら思われるその様子に、黒ひげはコビーを抱きかかえて急いでドクQの元へと向かった。

 腕の中で震えている小さな体をさすってやりながら、黒ひげは妙な気持ちになっていた。今この足を急がせているのは、野心ばかりではない気がしたのだ。

「ドクQ!」

「ゲホ……ゴホ……提督?どうしたんだ、そんなに慌てて……ん?」

 横になっていたドクQはのろのろとベッドを降りて、医務室に飛び込んできた黒ひげを出迎えた。黒ひげが抱きかかえているコビーに気が付いて、その顔を覗きこむ。

「……随分顔色が悪くなったな……」

「寝てる間はンなことなかったんだが……。おれの顔を見るなりこうだ。しかも過呼吸になっちまって焦ったぜ」

「ははは……ッゲホ!ゴホ!ハァ……。はは、やりすぎたら本末転倒だろう提督……」

「おれァ何もしてねェぞ。ずっとクザンの奴が────」

 ギュ、と強く服を掴まれ、黒ひげは言葉を切って視線を下にやった。

 一旦は落ち着いていたはずのコビーが、また息を切らして震えていた。縋るように服を掴まれていて、黒ひげは困惑しながらもその背を撫でてやる。

「……提督も一緒に寝てやると良い……。原因は違う奴のようだ……」

 誰とは言わずとも、二人には共通の人物が思い浮かんでいた。名前を出した途端にコビーが怖がりだしたのだ、分からないわけがない。

 黒ひげはドクQに言われた通り、コビーに寄り添うようにして横になった。ドクQも並んで寝るので、念のためコビーを川の字の一番外にしてやる。


 クザンに落第点という結論を出したが、前言撤回。クザンがコビーにとんでもない傷跡を残したことは間違いなかった。案外カッとなる男だということは勧誘した時点で知っていたが、それにしてもコビーの怯え様は異常だ。その癖冷えてしまわないよう布団をかけてやったりと、思考が読めない。

 これは黒ひげ海賊団への誠意というよりは、極めて私的な感情が関与しているだろう。まさかクザンがこんな暴走の仕方をするとは。

「許可……しねェほうが良かったかもなァ……」

 それは反抗的な眼差しが恋しいからか、コビーをあくまで愛でてやりたかったからか。

 黒ひげはようやく聞こえてきた穏やかな寝息に耳を傾けながら、無心に至るように桃色の髪の手触りを楽しんでいた。



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