熊野寮祭企画「徒然草第52段」紀行文

熊野寮祭企画「徒然草第52段」紀行文

上の企画の企画責任者

 この記事は、Kumano dorm. #2 Advent Calendar 2020の11日目の記事です。


 何事にも、先達はあらまほしきものなり―「徒然草第52段(仁和寺にある法師)」に書かれた教訓を胸に、我々は仁和寺から徒歩(かち)で石清水へと向かった…


 仁和寺の山門前に9時集合ということを告知し、人があらかた集まった9時20分前後に仁和寺を出発した。最初は5人で出発したが、自転車で仁和寺まで来ていた参加者の一人が妙心寺手前で石清水から自転車で帰ってくる大変さを本人の中で考慮した結果離脱。4人で花園駅の横を抜け、右京ふれあい文化会館の横を通って天神川通に出た。


 強い参加表明をしてくれていた一人が、様々な事情で大阪の実家から少し遅れてくるという連絡があった。このため嵐電天神川駅を合流地点とし、9時55分ごろ駅前のサンサ右京にて合流し再び5人の集団で天神川通(国道162号)を南へ下った。


 阪急の西京極駅脇を通り、西京極総合運動公園の大きさに驚いてしばらくすると、天神川沿いの道が舗装されていない道(土手の遊歩道)となった。舗装道路による足の疲れを癒しつつ、また吉祥院公園で行われている少年野球やサッカーの試合を横目に見つつ、一行は天神川と桂川の合流地点を通過した。およそ出発から1時間45分後のことであった。


 しばらく桂川沿いを歩いたのち、久世橋のところで桂川を超えた。一行は桂川を離れ、国道171号を南下することとなる。既に約9kmを歩いた一行の足は、休憩を欲していたため11時半ごろにローソン 久世中久町店にて小休止を行った。因みに企画者は、このストアの前にある中久世のバス停のベンチに座ったところ犬の糞のような正体不明の汚物を踏んでしまいとても落胆した。一生懸命靴の裏についた汚れを落とし、一行と共に国道171号の南下を再開した。皆さんは公共の場所に汚物を置かないようにしよう。


 国道171号の南下を続けると、日本電産のビルがひときわ高く目立つ。このビルの横を通り過ぎると、京都市を出て向日市に入ることとなる。ここまでくると、駐車場を備えた郊外型の大きい店舗が増えてきた。と思ったのもつかの間、左側から名神高速道路が見えてきた。

 このあたりで企画者は参加者から重要なことを指摘される。もう時刻は正午を回っており、仁和寺出発からおよそ3時間が過ぎていたものの一行は一度もお手洗いに行っていないのである。また、一行の足はかなり疲労がたまっていたために限界を迎えていたため、きちんと座れる場所かつお手洗いのある場所を探してまとまった休憩をとることにした。


 文明の利器は素晴らしいもので、すぐにトイレのありそうな大きめのスーパー、マツモト長岡京店を見つけることができたため、そこを目指して歩いた。このスーパーの直前で向日市から長岡京市に入っていたらしいが、休憩を目の前にしていたため気づかなかった。

 0時40分ごろ到着したマツモトには幸運なことに座れる長椅子もあったため、一行はバナナや菓子パン、アイスクリームに団子などおもいおもいにに昼食相当のものをとった。ここでの休憩は一行にとってかなりありがたいものとなった。


 休憩を終えた一行は、名神高速に沿ってひたすら黙々と歩き続け、午後1時20分ごろに大山崎町に突入した。ここまでおよそ出発から15kmを歩いており、全体の行程(19km)の4分の3以上を歩いたことになる。

 目の前にある巨大な大山崎JCTを横目に、しばらく歩くと大きめの川が見えてきた。桂川である。久世橋を渡って桂川と別れてから2時間25分ぶりの再開である。天王山大橋を渡っていると、ついに八幡市という看板が見えた。ついに八幡市に突入したということに喜ぶ一行。ここまでくれば足取りも軽く、こちらも大きな川となる宇治川と木津川を立て続けに超えついに石清水八幡宮のある男山を目に収めることができるようになった。

 しかし、近くまで来たという達成感から足の疲れが再び一行を襲ったため、そして企画記録のためにわざわざこの企画に参加してくれた(「大丈夫ですか」と聞くと「歩くの好きなので大丈夫」と言ってくださったが)1回生の方に申し訳なかった思いもあったためここで寮祭企画全体としては麓の京阪八幡市駅で解散ということに決定。八幡市駅で記録の方が先に帰られることとなった。既に午後2時を回っていた。


 残りの4人に関しては、せっかくなので文中に出てきた「極楽寺・高良」を見たいということだったので少し足を延ばして極楽寺跡と高良神社に行くことにした。一の鳥居を過ぎ、極楽寺跡と高良神社に行くと、案内板があり徒然草第52段の舞台となっていることが書いてあった。

 まさか、この令和の時代に仁和寺から徒歩でここまで来た人はなかなかいないだろう、と思いながら参拝をした。

 高良神社は、山沿いにあるこじんまりとした社であったが自然の中に囲まれていたこともあって、とても神聖な雰囲気を感じることができた。

 昔の法師のように、ここで満足して帰ってもよかったが、中には上まで登りたいという参加者もいたので、私を含めた希望者3名で男山を登ることにした(あとの1人の参加者の方はこの後周辺を散策したのち帰られた)。

 麓の高良神社あたりの標高はおよそ15m前後、対して山上にある石清水八幡宮本殿の標高はおよそ120mである。普通にそれまで5時間歩いてきた我々の足はとうに悲鳴をあげていたが、法師のできなかったことをやるんだ、という強い意志のもとおよそ20分で山上の本殿に到着することができた。

 本殿は、麓の高良神社にもまして神聖で荘厳な雰囲気のある建物であった。ついに、ついに神へ参る本義が達成できたという嬉しさの残るまま、参拝をすませた(よく考えると、当時の法師も徒歩の末やっとたどり着いた極楽寺・高良で同じことを思ったのかもしれない)。筆者は御朱印集めもしているため、そのあと御朱印を頂いたが、徒歩5時間半の末最後に山登りをした疲労も相まってこれまでで一番ありがたみと神聖さを感じる御朱印であった。


 参拝を済ませ、少し八幡宮を下ったところの展望台に立ち寄ってみた。展望台からは、桂川や宇治川、木津川の流域からその向こうの京都盆地や比叡山までを一望することができる。今日5時間かけて歩いてきたところが視界に収まってしまうすごさに、ただただ感動をした。

 一通り景色を堪能した我々は、日も傾いてきたので帰路につくことにした。もちろん我々は令和の時代を生きているので、法師の追体験はここまでにして男山ケーブルという文明の利器で山を下りた。よくよく考えれば、足に負担がかからず瞬時に山を登り降りできるケーブルカーというものは、とてもすごい発明である。そのようなものを作った先人に感謝の念を抱いていると、すぐに麓の八幡市駅に着いてしまった。

 ここからは京阪本線を利用して寮の最寄、神宮丸太町駅に帰るわけだが、八幡市駅も神宮丸太町駅も特急が止まらないため準急電車で帰ることとなる。普段大阪と京都を行き来するときには遅いと感じる準急電車だが、今日に限っては歩いてきた道のりをあっという間に戻ってしまうその姿を見て、とても速い乗り物なのだという感情が沸き上がってきた。

 3つの大きい川を渡り、淀の競馬場を過ぎ、伏見の中心地(中書島、伏見桃山)をあっという間に過ぎ……電車は瞬く間に神宮丸太町駅に到着した。途中丹波橋と三条で乗り継ぎをすればより早く帰ることができたが、準急電車の(徒歩に比べた)速さで十分と思ってしまった上、一旦座ってしまうと立ち上がる気が起きずに結局1本の電車を神宮丸太町駅まで乗り通すこととなった。


 考えてみれば、徒然草当時の法師は、この帰路も歩いて帰ったのである。なかなかハードだ。実際に追体験してみて、山上に本殿があることを知らなかった法師が麓で満足して帰ったのは自然な流れであると痛感した。徒歩はとても疲れる。

 因みに、当時も桂川沿いの船という交通手段があったらしく、京の人が石清水詣でに行く際普通はそれを使ったそうだという話を小耳にはさんだことがある。交通手段があるのに、それを使わず徒歩で参拝に行ったのがそもそもの間違いだったのかもしれない。


 何にせよ、このような企画ができたのも、当時に思いを馳せながら旅を楽しめたのも、色々な考察ができたのも、そして帰り文明の利器に頼って快適に帰ってこられたのも、様々な分野の大いなる先達がいたおかげである。やはり、様々な便利なものがあふれる令和の時代であるからこそ、もう一度徒然草52段最後の一文に込められたこの教訓を思い出しておくべきだろう。


「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。」


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