無題

無題


静かな船長室で、ローは以前に手に入れた医学書を読み進めていた。最近は忙しいのもあって、折角手に入れてからも中々読めずにいたのだ。今日は久々に時間が出来たので、漸くそれを開くことが出来た。

内容は大変興味深く、今までに得た知識が次々に更新されていく。中には新しい医療技術も載っており、それだけでも満足いく内容が書かれている。さて次は、とページを動かしていると、背後から甘えた声が聞こえてくる。


「ローくん」

「なんだ」

「ローーーくん」

「だからなんだ」


後ろを振り向かず、呼ばれてから返事をするだけ。何かあればそれ以上の事を口にするだろうと思って放っているのだが、声の主は繰り返し、ただ延々とローを呼ぶ以外の事を話してはこない。


「ロ~~~く~~~ん」

「……さっきから何なんだ……おいウタ。用がないなら部屋に戻れ」

「ん~」


いい加減、このまま放っておいても煩くなるだけと判断したのか。ローは一旦医学書から目を離すと、後ろのベッドで寝転がっているウタへと顔を向けた。ウタはローのベッドにあった枕を抱きかかえながら、ジィっとローを見つめている。

目と目が合っても、ウタの反応は鈍い。と言うよりも、ローが此処にいるかを確かめる様な視線を向けている。普段ならローの近くではしゃぐ事が多いだけに、寝ていない時にもこんなに静かになるウタは珍しい。


「ローくん」

「だから、さっきからなん、」


漸く口を開いたかと思えば、またローの名前を呼ぶ。それにほぼ反射的に応えると、ウタは表情を変えないまま、淡々と言葉を紡いだ。


「ローくんは、私を置いて行ったりしないでね」


告げられた言葉に、ローは口を閉ざした。ウタは枕を抱きしめる腕に力を籠め、何かから身を守る様に体を丸める。


「私、さみしいのはもう嫌だから」


長い前髪がウタの目を隠してしまい、どんな表情を浮かべているのか、ローからは見る術がなかった。しかし声に滲んだ感情から、想像する事は可能だった。

何か、恐ろしい想像をしてしまったのか。それとも、十数年前のトラウマを思い出してしまったのか。何にせよ、ウタの心が不安定なのだろう事は容易に察せられた。普段はそうでもないが、ふとした瞬間に表に出てしまう。それは仕方のない事だ。それ自体は、誰にでもある事なのだから。


「……置いてかねぇよ。この船にいる以上、お前もうちの船員の一人だ」

「うん」


ローの言葉に、ウタは肯いた。真実、ローとしてはこうして同じ船にいるウタも、大事な船員の一人と数えている。彼女の持つ能力故に、前線で共に戦う事はほぼ叶わないが、それ以外の部分でウタに助けられている事は十分にある。だから、あえてウタを置いて行くような真似を、ローはしようとは思っていない。少なくとも、自らの命がある限りは、出来る限りウタを守る様に努めるつもりだ。

だから不安になるなと、言う事は憚られてしまったが。


「もう少ししたら相手してやる。それまで寝ておけ」

「うん」


そうだけ言って、ウタが頷いたのを見てから、ローは視線をウタから外す。今読んでいる医学書の、切りの良い所まで読んでしまおう。その後は、何故か気持ちが沈んでいるウタのメンタルケアをする事としよう。そう考え、ローは医学書を読むために再びそれを手に取った。

先程までは問題なく読んでいた筈なのに、今は何故か、中々頭に入らない。舌を打ちたい気持ちを抑え、ローはページを捲った。






ページが捲れる音が聞こえる。ローが本を読む姿を、その後姿を目に映して、ウタはひっそりと目を閉じた。


(うそつき)


その時が来たら、あっさり手放すつもりでいる癖に。

心の内でぼやいたウタの言葉は、ローには届きやしない。でも良いのだ。何を言ったとしても、ローを困らせる事は分かっているのだから。

早く、こっちを向いてくれないかな。こうしていてもさみしく思うのだから、ちょっとだけでも、私だけを見ていてくれないかな。

そう願う気持ちも、きっとローを困らせると分かっているから。ウタは言われた通りに眠って、ローが起こしてくれるのを待つ事にした。その時にはきっと、今感じるさみしさも消えていると信じて。

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