無題

無題


パチリ。目が覚めた。今は何時だろう。そもそも、此処は何処だったっけ?

そんな事を考えながら、ウタは体を起こそうとする。が、体の上に腕が乗っかっており、起きるのを邪魔されてしまう。

そうして漸く、ウタは目の前に自分以外の誰かがいる事、その誰かに抱きしめられて眠っていた事に気付いた。驚き、そしてそっと視線を上げると、目を瞑って眠っているローの顔が見えた。

そうだ。昨夜は嫌な夢を見た所為で起きてしまって、そのまま寝直す事が出来なくて、ローの元へ押し掛けたのだった。となると、今自分が寝ているのはローのベッドで、此処はローの部屋なのだろう。部屋に来たウタを、最初は追い出そうとしていたのに、結局一緒に寝る事を許してくれたのだった。そこまで思い出して、ウタは我ながら我儘を言ったなぁと反省しつつ、それを許してくれたローの優しさが嬉しくて笑みを浮かべる。

そっと、自由の利く手でローの顔に触れる。目の下の隈が、以前よりも濃くなっている気がする。あまり眠れていないのだろうか。仕事を溜め込んで、という事は考えにくい。その辺り、ローは真面目なので、余程の事がない限りその日中に終わらせている筈だ。そうなると、別の理由で眠れていないのだろうか。ウタが気付かないところで、ローの心を蝕む何かがあるのだろうか。指先で触れても隈が消える筈もなく、逆にウタの肌の白さと反して目立つ色の濃さに、ウタは眉を寄せた。

ローが何かを抱えて生きている事は、ウタにも分かっていた。何か大きな目的があって、その為なら命を投げ出しかねないだろう事も、何となくだが理解している。だからウタに対しても、何処か一線を引いて接している事も。

ローはウタを助け、こうして傍に置いてくれるようになってからも、何時かはウタを【帰さなくてはいけない】と考えている。それは、十年以上音信不通となった家族の元へか、ウタが勢いで飛び出した育て親の元へか。それは分からないけど、ウタをこの船とは違う何処かへ、誰かへと託してしまえば、もう何も心配する事はないと。そう言って満足して、自分の目的を果たしに向かってしまうのだろう。それで命を落とす事になっても、きっとローは不満などないのだ。だってウタと一緒にいる事より大事な事なのだから。

ウタはローが好きだ。それは助けられた事で生まれた感情で、正しくない想いなのかもしれないが、それでもローが好きだし、とても大事に思っている。出来る事なら、ずっと一緒にいたいとも。ローが命を落とすその時には、一緒に果てても構わないとさえ思っているのに。ローはきっと、それすら許してくれないのだ。ウタを思ってこそ、遠くへ離そうとするのだ。

優しいロー。しかし、同時に酷く残酷な事をする男だ。こんな人を好きになってしまうなんて、自分を馬鹿だなぁとも思うし、好きになって良かったなぁとも思ってしまう。何を考えても、結局愛しいと想う気持ちが勝ってしまって、ウタはローの頬をそうっと撫でた。

ふと、閉ざされたローの目を飾る睫毛がふるりと震えた。起こしてしまったのだろうか。慌てて手を離そうとすると、体に乗っていた腕が動いて、ウタの手をそれより大きな手が掴んでしまう。その間に、ローの目がゆっくりと開かれた。寝ぼけ眼ではあったが、その瞳は真っ直ぐ、目の前にいるウタの顔を映していた。


「……あ?」

「ご、ごめん……起こしちゃった、よね」

「……いい。気にすんな……」


折角眠っていたのに、とウタが謝っても、ローはあまり気にしていないらしい。掴んでいた手を離すと、ウタの体を抱き込む様に腕を伸ばす。先程より近距離でローの体温を感じ、ウタの頬は自然と熱が集まってくる。ローはそんなウタには気付かずに、あやす様にウタの背中を軽く叩いた。


「まだ早いだろ……俺も寝るから、お前も寝ておけ」

「うん……」


まんま子ども扱いではあるが、それでもウタは嬉しくなってしまう。こうしている事をローが許してくれている。それだけで、ウタは嬉しすぎて堪らなくなってしまう。

あぁ。やっぱり好きだなぁ。そんな事を心で零し、ウタはローの胸元へと顔を摺り寄せた。耳元で、ローの心音が聞こえてくる。テンポのいいリズムを聞いている内に、少しずつ眠気が戻ってくる。

この腕の中が、今のウタにとっては一番安らげる場所。でも、何時かは失うかもしれない場所。ならばせめて、今だけは此処で。愛おしい鼓動と体温に包まれながら、夢も見ないで眠りたい。


静かに瞼を閉じる。今度はこのまま、朝まで眠ってしまえそうだ。


*****


胸元から聞こえてきた静かな寝息。それを聞いて、ローは目を開けた。少し視線を下げれば、ローにくっ付いて幸せそうな寝顔で眠るウタ。それを眺めながら、ローはウタの髪に指を通す。長い髪は指通りがよく、途中で引っかかる事もなく指の間を通り抜ける。こんな生活では痛んでもおかしくないのに、余程髪のケアに気を使っているのだろう。そのお陰で、こうして触れてもウタが目覚めずに済んでいる訳なのだが。

自分の体にくっついて眠るウタを見るローの目が、少しだけ細められる。どんな表情を浮かべているかなんて、本人にも分かりはしない。だが、我ながら緩み切った表情をしているのだろう事だけは理解していた。初めは偶然拾っただけのウタを、保護の名目で船に乗せてからどれだけ経っただろう。気が付けばローの傍に居たがる様になって、今もこうして、ローの傍で眠る始末。明らかに、線引きをするタイミングを間違えた。そう思わざるを得ない。

ローにはやるべき事があった。それは自分の命を賭してでも成し遂げなくてはならない事で、誰を利用してでも果たさなくてはならない事である。その時には、自分を慕う船員たちを遠くへ離すつもりでいる。自分の醜い復讐劇に、彼らを巻き込むなんて事は出来やしないからだ。だが、ウタは。きっとウタは、自分について来たがるだろう。今だって、夢見が悪いからと自分を頼って来る程なのだ。何を言ったとしても、きっと無理矢理にでもついて来る事だろう。だがそうなったら、あの男にウタが狙われる可能性も出てくる。万が一にもウタが捕まりでもすれば、どれ程悲惨な目に遭わされる事か。そうなった場合、果たして自分は冷静さを取り繕えるだろうか。一瞬でも目的を忘れず、あの男に刃を向ける事が出来るだろうか。

……出来る筈がない。きっと自分は、その瞬間だけ、復讐を忘れてしまう。鈍った刃があの男に通用する筈もない。ならどうしたらいい。冷たい言葉を投げ掛ければ、ウタは離れてくれるのか。手酷く扱ってしまえば、ウタは自ら逃げてくれるのか。傷つけたくないと思うのに、その身を案じて傷つける様な真似をしなくてはいけないなんて、支離滅裂ではないのか。

あぁ、ダメだ。頭が回らない。最近碌に眠れなかった所為だろうか。睡眠不足の頭は、否が応でも暗い想像ばかり巡らせる。最悪の場面を、最悪の展開を、最悪の離別を想像させてしまう。そんな自分に自嘲を浮かべていると、ウタが体を動かした。もしや起こしたのか。そう考えていると、ウタはローの服を軽く掴んだ。それだけで何か安心したのか、ウタは口元を緩ませ、再び静かな寝息を漏らす。


「――うた、」


静かな室内で、ローの声だけが大きく響いた。呼ばれた本人は、未だに眠っている。

こんな筈ではなかった。こんなに手放し難い存在になるなんて、想像も予想もしていなかった。これ以上大事なものは増やしたくないと、自分の手の平ではこれ以上零さずにはいられないと、そう思っていたのに。今、この腕の中にいる体温を、ローは手放し難く思ってしまった。何時かはこの船から降ろさなくては。ウタに似合うのは、自分のような日陰の道ではない。明るい日の光の下で笑うのが最も似合うのだと分かっているのに、ローの手はウタを捕まえたまま離せずにいる。

未練がましいにも程がある。こんな気持ち、誰にも知られたくはない。知られてはいけない。知られればその時点で、これは自分の弱みとなる。そんな事、あってはいけない。自分はただ、何時かウタが望む場所に帰れるように。それまでの間、そばにいて守るだけで、それ以上の感情などあっても無駄でしかないのだ。どうせ捨てる必要が出てくるなら、最初から持たない方が良い。それだけの話なのだから。

無意識に、ウタを抱きしめる腕に力が籠る。自らの腕の中に閉じ込めた体温が心地よく、徐々にローの瞼が閉ざされていく。ウタを抱きしめる腕はそのまま、ローの無意識下の気持ちを訴えているだなんて、ローは気付きはしないだろう。


夜明けはまだ遠い。他の船員が呼びに来るまで、二人の眠りは守られた。

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