無題

無題



しんしんと降り積もる雪の中を歩いている。

寒いような寒くないような曖昧な感覚に、ロシナンテは今自分が夢を見ているのだとすぐに思い当たった。


ロシナンテはこの夢を何度も見ている。


夢の世界はいつも決まって真っ白な吹雪に閉ざされており、ロシナンテは黒い怪鳥の姿になっている。

ロシナンテの胸の中では弱った小さな雛が震えていて、ロシナンテは雛が安心して療養できる場所を探さなければならなかった。


夢を見ているとき特有の脚が重く泥の中を歩むような感覚に逆らって、ロシナンテはどこにあるかも分からない安息の場所を目指した。

ピィ。小さく愛しい雛が鳴く。みれば、雛の羽毛は所々白く斑になっていた。白い羽毛なんて鳥には珍しくもないが、なぜだかロシナンテの目にはそれが命を失った珊瑚のような、あるいは剥き出しの白骨のような、死を思わせる不吉なものに見えて仕方がないのだった。

この子の羽毛が雪で真っ白に染まってしまったとき、この子は命を落としてしまう。早く、この子を救うための力を。


ひどい焦燥感に駆られながら、怪鳥となったロシナンテは真っ白な夢の世界を彷徨うのだった。




***




朝陽が目蓋にかかるのが眩しくて、ロシナンテは目を覚ました。

夢の中で歩き回っていたため気疲れしていてお世辞にもよく眠れたとは言いがたく、ロシナンテは自分の頭が石のように重く感じられた。


まだ日が昇っていない。起床には些か早い時間だったが二度寝する気分にはなれず、ロシナンテはベッドから体を起こして身支度を始めた。

シャツに袖を通し、朝刊の記事に目を落とす。そして口に煙草をくわえて火を点けようとした・・・、その直前に説教をする声が脳裏に蘇り、ロシナンテはオイルライターにかけた指を引くのを躊躇った。


“おい、アンタ正気か!?朝一番に煙草を吸うことがどれだけの健康リスクになると思ってんだ!!”


そいつは四皇並の高額懸賞金がかかる海のクズで、ロシナンテの住居に不法侵入しておきながら、至極まともな医者のようなことを言った。

帽子の下から覗いた不健康そうな隈がかかった目は怒りの中に心配の色を滲ませていて、敵であるはずのロシナンテを心底慮っているようでさえあった。


“なあコラさん、おれはアンタに長生きして欲しいんだよ”


コラさんなんて人間は知らない。散々人違いだと伝えたが、死の外科医はロシナンテの言葉を聞き入れることはなく、未だにコラさんとやらを追い求めてロシナンテの乗る軍艦のもとに頻繁に現れる。

おそらく今週にも現れるだろう。なんとも迷惑な話ではないか。


紙面にでかでかと映る黄色い潜水艦の姿をみて、ロシナンテは深いため息を吐いた。

同時に死の外科医の顔も思い出して、ロシナンテは何となく朝食を摂るまでは一服するのを我慢することにした。




***




「コラさん、今日こそおれのことを思い出して一緒に来てもらうぞ!!」

「だから!!おれはコラさんじゃねェ!!!」


案の定、死の外科医はロシナンテが乗る軍艦に現れた。

数多の能力者の中でも輪をかけて神出鬼没な死の外科医は、いつの間にか軍艦の上に現れる。


「准将!!」

「ぎゃああああ、体が!!!」

「お前ら、一旦引け!!」


死の外科医は青い膜の中で長い刀を軽々と振るい、ロシナンテの部下の体を細切れにしていった。阿鼻叫喚が甲板にこだまする。

死の外科医の能力は人を殺めることはない。経験上それが分かっていても不気味極まりない能力を相手に平常心では戦いにくい。


生きたバラバラの肉塊になってしまった部下たちを平然と見下ろし、死の外科医はロシナンテのもとに歩みを進めた。

カツ、カツ、とヒールの入った靴が甲板の上で音を立てる。


ロシナンテは彼に向かって数発銃弾を撃ったが、弾はどれも彼に届く前にどこかへ消えてしまった。彼の能力で入れ替えられたのであろう小さな魚が空中に現れて、その鱗に日光を反射してキラキラと光った。

瞬間、死の外科医の姿が消えて、背後から銃を握った手を掴まれて銃口を下ろされた。振り向けば死の外科医がそこにいる。長い刀は既に鞘に納められていた。


「やめときなよコラさん、おれを撃ったらきっとアンタ、後で死ぬほど後悔するぜ」

「……ぬかせ、海のクズが」

「―――……」


海のクズ、と呼ばれると、死の外科医は少しだけ悲しそうな顔をする。そうすると毎回ロシナンテの胸は不思議とツキツキと痛むのだった。

けれども、それも一瞬のことだ。次の瞬間には、彼はケロリとしている。


「……コラさん、これお土産な。この前立ち寄った島で買った酒と干物。あと酒場で暴れてた海賊の心臓」


死の外科医が物騒な文字の刻まれた指を振ると、船上の木くずと入れ替わりに食料と剥き出しの心臓が現れた。


「わりと骨のある奴らだったな。確か船長の男は賞金首だったはずだ。懸賞金4000万ベリー、二つ名は……――」


説明をしながら死の外科医は心臓の一つを掴み上げた。彼の手の中で心臓が生々しく脈打っている。

どうしようもなく猟奇的な光景と、死の外科医の誇らしげな態度がチグハグで狂気的だ。


すごいでしょう、嬉しいでしょう。そんな声が聞こえんばかりの表情。彼はどこか親に褒められようとする子どものようでさえあった。

ロシナンテが沈黙を貫けば、やはり彼は少しだけ悲しそうな顔をした。


「……なァ、早くおれのこと思い出してよコラさん」


普段なら彼はここで早く思い出してよ!とロシナンテを詰ったり、駄々をこねたりするのだが、今日は少しばかり弱ったような声を零した。

これまで何度彼の言葉を否定したか分からない。その度に彼は悲しそうな顔をする。彼も参っているのか。


「愛してる、って言ってくれただろ」


ロシナンテは苛立ちが募るのを感じた。コラさんとやらは馬鹿な男だ。大馬鹿野郎だ。

死の外科医の話を聞く限り、コラさんとやらは誘拐魔で子ども相手に暴力をふるう奴で、そのくせその子どもに愛情を抱かせて大好きにさせて、その上で置き去りにしていった悪魔のような男だ。

子ども一人の人生を狂わせて、今もずっと慕い続けているその子どものもとに戻らないでいる。


「だから俺はコラさんじゃ、……ロー危ない!!」


その瞬間、湿った重い空気を肌に感じた。時化がくる。強く重たい空気の流れで船が大きく揺れた。


風で煽られて木片が飛んでくるのを庇って、ロシナンテは咄嗟に死の外科医を自分の方に抱き寄せてしまった。

海賊の割に細身の体は妙に腕に収まりがよかった。昔、誰かをこうして抱えていたような――?


海のクズを庇ってしまうなんて。ロシナンテは我に返って慌てて腕を離した。

コラさん。死の外科医は小さく呟き、帽子の下の目を真ん丸に開いて呆然としていた。

意外と澄んだ色の瞳をしている。珍しい表情を目にして、ロシナンテは場違いな感想を抱いた。




「キャプテーーーーン!!!時化が来るから早く船に戻ってきて!!!」

「分かった、すぐ戻る!……またなコラさん、元気で。タバコの本数は減らせよ」

「おい待て……!」


来訪時と同じように、死の外科医はまったく神出鬼没といった様子で軍艦から消え去ってしまった。

彼が立っていた場所にはダメ押しのお土産とでもいうように瓶詰の梅干しが残されている。



「准将~~、助けてください~~」

「ああ、今すぐ体を組み立てて…、いや間に合わねェか。とりあえず体を全部船内に運んで…」

「ドジって体を海に落っことさないでくださいよ!!」


甲板に散らばる部下の体と、迫りくる厚い雲を見比べて、ロシナンテは深いため息をついた。

心を落ち着かせようと胸ポケットから煙草を取り出そうとしたが、代わりに棒付きキャンディが出てきたので、ロシナンテはさらに深いため息をついた。





***



しんしんと降り積もる雪の中を歩いている。

寒いような寒くないような曖昧な感覚に、ロシナンテは今自分が夢を見ているのだとすぐに思い当たった。


けれど、今日の夢は今までの夢と少しだけ違っていた。


ロシナンテは怪鳥ではなく、真っ黒な羽毛のコートを羽織った悪魔の姿をしていた。

ロシナンテの腕の中では弱った小さな子どもが震えていた。その子どもの肌は高熱で赤く火照った上から死んだ珊瑚のように不気味な白い痣が浮き上がっていて、およそ健康からかけ離れた姿をしていた。

白磁のように美しくも無機質なその痣は、その子に訪れる死そのものの色をしていた。この子の肌が真っ白に染まってしまったとき、この子は命を落としてしまう。

早く、この子を救うための力を!それは荒波の向こうにある。ロシナンテはいつの間にか小舟に乗って大時化の中を進んでいた。


コラさん。腕の中の子どもがか細い声をもらした。


そんな名前の人間をロシナンテは知らない。けれど、その瞬間、ロシナンテは確かに彼の“コラさん”だった。

耳を傾けたロシナンテに、子どもは弱々しい声で言葉を紡いだ。


“もしコラさんがその仲間の海兵なら、正直に言ってくれ”


帽子の影の下の子どもの目にはありありと不安の色が浮かんでいた。

ロシナンテはどうしてもその子の不安をぬぐい去ってやりたくて堪らなくて、とっさに叫んだ。

自身の在り方と歩んできた人生を全て否定するような、真っ赤な嘘を。


“バカいえ、おれは海兵なんかじゃねェ!!!”

“・・・・・・・・・・・よかった!”


ロシナンテの嘘を聞いた子どもは、しばしの沈黙の末に笑みを浮かべた。


コラさん。また子どもがその名前でロシナンテを呼んだ。


斑模様の帽子の下の顔を覗き込む。子どもらしいクリクリとした目がロシナンテをぼんやりと見上げていた。焦燥感と愛しさで胸がいっぱいになる。

金にも灰にも見える月のような色の虹彩は、夢の世界の中で妙に鮮やかだった。ロシナンテはその色をどこかで見知っているような気がした。




准将が記憶を取り戻すまであと―――




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