無題
吉良の様子がおかしいのだと檜佐木が鳳橋から相談されたのは、彼が四番隊から三番隊に異動して半年ほどが経過したとある日の事だった。吉良の副隊長就任からは既に三ヶ月が経過していて、新体制の三番隊にも周囲が慣れてきた頃である。
「そうですかね……俺も最近はあまりあいつと話せていないのでわからないんですが」
「うーん。ボクも気のせいじゃないかってまだ疑ってるんだけどね」
曰く、最近随分口数が減ったという。元々吉良はあまりよく喋る気質でもなかったが、輪をかけて減ったように思うのだと鳳橋は茶を啜りながら悩ましげに語った。
「話しかけても簡単な答えしかくれなくなってしまったんだよ。なんと言うか、言葉を意図的に抑えているというか……自分の意思で話せなくなったというのかな」
「鳳橋隊長に対してだけ、ですか?それとも他の人にも?」
「どちらかと言えばボクだけ……かな。そういうイヅルにもインスピレーションは湧くんだけど、今まで以上に哀しい曲になってしまってね」
鳳橋によく湧くというインスピレーションのことは檜佐木にはよく分からないが、彼が本気で吉良を案じているのはよくわかった。上から言われていたとはいえど養父として吉良を精一杯大切に育ててきた彼の見立てに恐らく間違いはないだろう。
「念の為に聞かせてください、鳳橋隊長。喧嘩とかは別にしていませんよね」
「していないよ。だから余計にわからなくて……」
「わかりました。俺も少し気にかけてみます」
頼むよ、と鳳橋は安心したように笑った。
息子を純粋に思う、檜佐木にとっての"親"がするものとよく似た顔だった。
檜佐木が吉良を自宅に呼んだのはそれから数日後のことである。
「煮物作りすぎちまったから、手伝うと思って食いに来てくれよ」
そんな誘い文句に吉良が淡々とわかりました、と頷いたことで吉良の様子がおかしい、という認識は確信へと完全に変わった。いつもなら頷く前に「一人暮らしで作りすぎるってどうなんです」という少々可愛くない小言のひとつやふたつついてくるものだが、今回は全くない。表情も心做しか沈んでいるようで、檜佐木はわざと量を多く作り上げた煮物を火にかけながら溜息を吐いた。
――正直な話、吉良を今日自宅に呼ぶと決めた時点で、檜佐木にはその原因の予想が粗方ついている。少しずつ規模を広げている瀞霊廷通信の取材のために訪れた食堂街で、とある話を聞いたためだ。
吉良の副隊長就任は鳳橋の独断と身内贔屓によるものだ、と。
「元々鳳橋隊長の養子なんだろ?我が子可愛さにやったとしか思えないよな」
「霊術院で首席だったかなんだか知らないけど、射場前副隊長が引退されたからってここぞとばかりに身内人事はどうなんだろ」
「三番隊に長く尽くしてきた人だっているのにねえ。吉良副隊長も辞退すれば良かったのに。身の程を弁えてさ」
こいつら、と怒りに任せてその場に出ていかなかった己が正しかったのか未だに檜佐木はわからない。けれども十中八九吉良をおかしくさせたのはこの類の噂だと確信はできた。
確かに吉良は歳若い。積み重ねてきた年月で言えば、三番隊の新副隊長に相応しい死神など掃いて捨てるほどいるのだろう。
けれど吉良は優秀な男だ。歳をいくら重ねようと吉良の素質とそこに重ねた研鑽に届かない者が大半と言えるほど、吉良の優秀さを檜佐木は評価している。幼い頃から共にいた贔屓も少し入っているのかもしれないけれど、それを差し引いても檜佐木は吉良に勝る素質を持っている隊士をあまり知らなかった。
年功序列で全てが決まる組織はいずれ凝り固まって崩壊する。長く務める人間が全くいないのでは話にならないが、どこかで体制が変わるならばそこに新しい風を入れるのは間違いではない。
(それを言っても理解しない……というか、都合の良いことばかりに目を向けたがる奴ってのは一定数いるからな)
恐らく吉良はその悪意の塊に触れてしまったのだ。妙なところで図太いとはいえ基本的に神経が細い彼が長くそれに晒されて気にしないでいられるわけがない。
素直に話してもくれないだろうが、それを無理強いするつもりはなかった。ただ少し、張り詰めている心が緩めば良い。彼を今日誘ったのはただそう思ってのことだった。
◆◆◆
約束の夕方、吉良は酒を一本携えて檜佐木の自宅にやってきた。俺明日仕事なんだよ、と笑えば少しなら平気でしょうと適当なことを言う。
手伝います、と言う彼にいいから座っとけと盃のある場所だけ教えて留めれば、大人しく卓の前に座って待っていた。
「相変わらず料理上手ですね、檜佐木さん」
「先生がいいんだよ。ほら、もっと食え」
煮物に味噌汁、漬物が数種類と炊きたての白飯。出汁の香りがふわりと漂う食卓で吉良と檜佐木は箸を手に食事に取り掛かる。食器が触れ合う音の合間に交わす会話に、特に変わったところはない。これが美味しいとか漬物はこれが好きだとか、そういう他愛ない話題に対して吉良は変化を見せなかった。少し会話のテンポがいつもと違うのは目の下に浮かぶ疲労の色が関係しているのだろう。
「………」
酷く考えすぎているらしいその顔にふと思い出したことがありながら、檜佐木は会話の隅にそっと仕事の話を混ぜ込んだ。
副隊長としての仕事には慣れたか。鳳橋との関係はどうか。隊士達とは。自分の話を先にしながら吉良の場合は、と答えを促すような話を振ると、吉良は目に見えて動揺して言葉を濁した。
まあ、いや、別に。それなりにですよ。
不自然なほど口数をがくんと減らし、それが相手にどんな感情を与えるか意識できていないあたり色々と限界らしい。とうとう仕事の話題に関しては殆どだんまりを決め込んでしまった吉良に、檜佐木はそれ以上を追求しない。
代わりにいつかの自分をそこに重ねて、苦い顔になってしまいはしたけれど。
幼い頃。まだ吉良に出会う前、今は尊敬する上司でもある養い親――六車に拾われてそう時間の経たない時期の話だ。
檜佐木は少しずつ拡がる世界の中で、とてつもない悪意に晒されたことがある。六車が自分を育てているのはただの仕事で義務だから。何も持たない薄汚い自分はどうせいつか捨てられる、好きになってもらえる要素がない。役に立たない自分など。
大人達から落とされた言葉に籠る悪意に、己がどれだけ価値がないかを知らしめるような態度に、檜佐木は言葉を発することが恐ろしくなった。六車に嫌われたらどうすれば良いのか。彼に捨てられたらどう生きていけば良いのか。彼はもしかしたらもう既に、義務を放棄してしまいたいほど檜佐木を嫌っているのかもしれない。
そう思えば思うほど言葉は喉の奥に蟠って、相談も出来なかった。特定の場面で言葉が出なくなる病というものは存在していて、あの時の檜佐木はまさにそうだった。平子や四楓院が協力してくれなかったらどうなっていたことか、考えるだけでも恐ろしい。言葉を発する、そんな当たり前のことが恐ろしくなって、何かを言えば嫌われてしまう、けれど黙っていても呆れられてしまうかもしれない。そんな焦りが恐怖と絶望に変わる感覚を、弟のように思っている吉良にこれ以上経験させたくはなかった。
「吉良」
「……はい」
「一人であんまり溜め込むなよ。吐き出し口を作っとくのは大事だぞ」
弾かれたように顔を上げた吉良に少しだけ笑ってやって、後は仕事の話題を振ることはきっぱりとやめた。吉良は食事中に時折檜佐木を見ていたが、口を開こうとする素振りはない。まだ話すかどうかを迷っているのだろうと察して、檜佐木も何も言わずにおいた。
一通り食事を終えてまだ腹に空きはあるかと尋ねれば吉良は遠慮がちに一応、と呟く。
「東仙さんから頂いた羊羹があるんだよ。お前、嫌いじゃなかったよな」
「はい。むしろ好きな方ですよ」
「そりゃよかった。ちょっと待ってろ」
厨に立って茶のための湯を沸かしていると、吉良はふらりと傍らにやってきた。いつもより半歩ほど近づいたその距離が、吉良なりの甘えだと檜佐木は知っている。
「どうしたよ」
「……なにか手伝いますよ」
「んじゃ、羊羹切ってくれ。好きな幅でいい」
皿と包丁、羊羹の包みを横にずらしてやると吉良は素直に受け取った。包装紙を破る音と甘い練り羊羹の匂いを感じる中に吉良の声が混ざる。
「檜佐木さん」
「おう」
「……これは僕の独り言みたいなものなので、返事しなくても構わないんですけど」
「……おう」
僕は副隊長の地位を返上すべきなのかもしれません。
細い声で呟いて、吉良は少し薄めに羊羹に包丁を入れる。
「誰かに何か言われたか」
「……直接は言われてません。ただ、そういう話があるのはいやでも察せます。隊舎や食堂でも、声の大きい人は一定数いますし。……それに、」
「………」
「入隊してすぐの戦闘演習で、僕、まったく動けなかったんですよ。霊術院時代はちゃんと出来ていたのに。四番隊ではあまりそういうことしなかったからかもしれないし、僕が驕っていたからかもしれない。……どちらにしたって、動けなかったのは事実、で、」
鳳橋の養子だから贔屓されている。
それだけの噂なら、妬みなら、まだ吉良は耐えられたのだろう。吉良は己の実力を良くも悪くもよくわかっている。鬼道も斬術も目立った欠点のない優等生という評価は自他共通していて、足りないものは経験だけだ。地位が先行していてもあとから着いてくるもの。けれどそこに演習で動けなかったという事実が追加されてしまえば、その自信には容易くヒビが入ってしまう。
本当に実力が足りていないのでは。
本当に自分のこの地位は、鳳橋の権力にだけ支えられているのではないか。
元々内向的な性格の吉良のことだ、その鬱屈を内に抱え込んでずっとそのままいたのだろう。
「……怖い、んです。僕のことなんて誰も、本当は認めていないんじゃないかと思えて。指示を出しても、書類の間違いを直すように言っても、全部の答えが悪意に塗れてるみたいで――」
包丁を持つ手が震えて、檜佐木はひょいと吉良の手からそれを取り上げた。吉良の声は手と同じに震えている。
「副隊長として何かをするのが怖いんです。言葉を発するのも怖い。声が本当に出ないんです。……変、ですよね、僕」
「変じゃねえよ。俺も入隊してそう経たないうちにそう思ったことはある。……ガキの頃にもな。拳西さんに捨てられる、嫌われる、って何も言えなくなったことがある」
「……なんですかそれ。僕、それ知りませんけど」
「当たり前だろ。お前に会うより前の話だ」
話しながら淹れ終えた茶と切り終えた羊羹を手に吉良を促して、今度は向かい合わせではなく隣同士で卓につく。吉良の分の茶と羊羹を彼の前に置いてやると、躊躇いがちな礼と共に楊枝を手に取った。
「悪意と向き合うのは難しいよな。疲れるけど無視してたら余計酷くなることもある。反論したってもっと大きな悪意で捩じ伏せられることもある。俺も入隊してすぐの演習で足が竦んだ翌日は怖かったもんだ。首席も大したことないな、って先輩に言われたし」
「………っ、」
「でもな、そんなん当たり前なんだよな。実戦でいきなりちゃんと動けるやつがどれだけいるかって話だ。むしろ完璧にできた方が怖ぇよ俺は」
湯のみから上る湯気がふわりと空気に溶ける。横目に見た吉良は俯いてしまって、その表情は窺えない。
「お前はちゃんと副隊長として頑張ってるよ。初めて副官章着けたお前を見た時、すげえしっくりきたんだ。格好良かったし」
「なんですか、それ」
「悪かったな、頭の悪そうな感想で。でも本当にそうおもったんだよ。……鳳橋隊長もよく言ってる。きちんと叱ってくれるのも、度を越すまで放任してくれるのも、やりやすいように色々気遣ってくれるのもお前以外いないって。お前を副隊長にして本当によかったってしょっちゅう言ってる」
手を伸ばして、頭を撫でる。予想に反して振り払われはしなかった。
「鳳橋隊長の副隊長として、お前以上の奴はいねえよ。だから胸を張れ。辛いことがあるならちゃんと鳳橋隊長に言え。溜め込んで時分は副隊長に相応しくないんだなんて思ってたら、あの人の判断をお前が疑ってることになっちまうぞ?そうじゃないんだろ」
「……当たり前じゃないですか」
「そうだろ。だったら尚更だ。……大丈夫、お前のことをわかってくれる人は大勢いるよ。俺も含めて、な」
途端。ぼろり、と吉良の目から涙が溢れ落ちた。張り詰めていたものが緩んだのか子供のように泣き出した吉良の背に手を当ててやると、幼い声で名前を呼んでくる。
「好きなだけ泣け。誰も見てやしねえよ。……そんで今日は泊まってけ。一昨日の非番の時に大掃除して来客用含めて布団も干したからな、あったけえぞ」
「……折角の休みにすることが大掃除ですか。檜佐木さんらしいですね」
「お前なあ……」
泣き声混じりの言葉は、なんとも彼らしい皮肉の交じったそれで。
いつも通りのその言葉が、檜佐木にとっては心底嬉しかった。
◆◆◆
「キミ達はもしかして、イヅルになにか思うところがあるのかな」
思いの外低い声が出て、どうも想定以上に己は苛立っているらしいとどこか他人事のように思う。一人隊首室へ帰した吉良の後ろ姿を見送り密やかに目線を交わした数名の隊士は、数日前に檜佐木から報告を受けたような噂を交わしている者達だった。霊圧を消して散歩に出た鳳橋も、勿論吉良へと向けられた悪意ある噂の数々は耳にしている。陰気だの神経質だのこちらを見下していそうだの、己が選んだ副官に随分好き勝手なことを言ってくれたものだと苛立ちが増した。
俺の患ったような病だと思います。
鳳橋が覚えている限り数十年ぶりに泣いたという吉良を一晩泊めてゆっくりと寝かせてくれた檜佐木は、随分辛そうでしたと鳳橋に語った。守ってやってください、と頭を下げた檜佐木は兄の顔をしていて、己の子がこうまで大切にされていることを知って嬉しく思う。だからこそ、それを大切にしない存在に鳳橋は容赦など出来ないのだ。
「……た、隊長……!?いえ、その、なんの事だか……」
「甘いなあ。ボクが何も知らないと思っているのかい?これでも隊長だよ、隊内の不穏くらい完璧に察せないでどうするのかな」
「………、」
「イヅルはボクが選んだ副官だよ。ボクの琴線に触れた唯一の子だ。ボクのペースをよく理解して、好きにさせてくれてる。居心地がいいんだよ、イヅルといるとね。キミ達といて居心地が悪いわけじゃないけれど、イヅルには敵わない。ボクのギターも随分とあの子を気に入っているようだし、ね」
ざん、と一歩距離を詰める。後退りは目線で制し、正面から目を合わせて溜息をひとつ。
「しかし、隊長……!お言葉ですが吉良副隊長は隊長の身内でしょう!他隊からの突然の異動と副隊長への就任など、身内への贔屓と捉えられても仕方の無いことかと!」
「それがキミ達に関係があるのかい?イヅルは身内ということに胡座をかいて副隊長の役目を放棄するような子じゃないだろう」
それともそういう場面を見たのかな、と笑うと押し黙る気配。ちりちりと空気を焦がすような重い霊圧をどうにか抑えるように意識して息を吸った。
「副官への謗りはそれを選んだ隊長への謗りだよ。イヅルに不満があるのなら、ボクのところに直接来るといい。キミ達のそれが理にかなったものなら。ボクを唸らせるだけの何かがあるって思うのならね」
話はそれだけだよ。そう言い置いて踵を返した鳳橋に、それ以上の言葉を投げてくる者は一人もいなかった。
「………と、言うことがありまして」
「そりゃあ、また……鳳橋隊長も思い切ったことを」
というかお前盗み聞きしたのか。呆れたような檜佐木の声に、吉良は悪びれもせずにあの人が僕を先に行かせるの珍しかったのでと茶を啜る。
「久しぶりにあの人を格好いいと思いました」
「久しぶりになのか」
「だってヴァイオリンやらギターにかまけて全然仕事してくれないんですよ、普段。どう格好いいと思えって言うんですか」
「楽しそうじゃねえの」
「話聞いてました?」
仕事してくれないって言ってるじゃないですか。
ぐちぐちと言う吉良の態度は前と全く変わらないそれで、どうやらきちんと改善したらしいと安堵する。鳳橋の怒りに触れた隊士達は気の毒だが、まあそこは自業自得というやつだ。鳳橋が怒らなければ檜佐木が怒っていただけのこと。
「……くん、も、」
「あ?」
「修くんも……格好良かったですよ。……ありがとうございました」
ひとつ、瞬き。微妙に視線を逸らしながらのその言葉が、吉良の精一杯だと檜佐木は知っている。
「……おう。まあ、俺はお前の兄みたいなもんだしな」
「昔は檜佐木さんの方が弟みたいだったくせに」
「お前な」
ふ、と吉良は皮肉っぽく笑って冗談ですよと呟いた。その頭をぐしゃりと撫でてやって、檜佐木も笑う。
「あー、なんだ。……イヅル、またなんかあったらちゃんと言えよ。力になってやるから」
「…………はい」
吉良は檜佐木の手から逃れようとしない。猫のように目を細めて、ありがとうございます、と囁くように礼を言ってまた笑う。
檜佐木の好きな、少年らしい気配を残した笑顔だった。