無題

無題


「で、こうなった訳だけど。」

現在、日車は虎杖に押し倒されていた。

頭の中はクエスチョンマークの乱舞だし、目の前の虎杖は至極満足そうに微笑んでいる。

するするとネクタイを解いていく虎杖の腕を掴み、日車は早口で捲し立てた。

「ま、待ってくれ……思考が追いつかない……」

「大丈夫、すぐに追いつくよ」

そうして日車の言葉を遮りつつ、ネクタイを完全に外した虎杖は再度問いかける。

「日車が言ったんじゃん。『5年後にやり直せ』って」

「そ、それは……確かに言ったが……」

「だから、ね」

そう言いながらゆっくりと顔を近付けていく。日車は慌てて止めようとするが、力が入らず押しのける事も出来ない。

「ま、待て……」

「俺じゃ嫌?」

「そういう、問題じゃない」

「じゃあどういう問題?」

その問いはきっと日車が自分自身で解決しなければならないものだった。だから彼は小さく息を飲み、必死に言葉を紡ごうとする。

そんな様子を見て虎杖は小さく微笑み……そして彼の耳元に口を寄せて囁いた。

「俺、もう成人したよ。日車の言った通り、5年前のやり直し。」

「それは、その……悪かったが……」

日車の煮え切らない言葉を聞きながら、虎杖は優しく頬を両手で包む。そしてそのまま顔を上に向かせ、じっと目を見つめた。

「……俺はさ、今の日車も好き。昔の日車も好き。日車が好き。」

そう言って虎杖は日車の眉間のキズをゆるゆると撫でる。

そして、自らの眉間を撫でて、笑う。

「日車はさ、反転使えるのに何でこのキズ治さなかったの?」

「そ、れは……」

「俺には分かるよ、日車がこのキズ治さない理由」

そうして今度は愛おしそうに撫でた。

すると二人の目が交差する。

お互いの瞳にお互いが映り込む。

そんな至近距離で虎杖は続ける。

「このキズはさ、日車の生きる理由みたいなもんでしょ?」

「……な、んで」

「分かるよ。だって……俺もそうだったもん。同じ場所、同じキズ。俺と日車だけが共有出来る。だって俺たち共犯だからさ」

「……」

日車は何も言わなかった。何も言えなかった。何故なら事実だからだ。このキズは自分にとって呪いの象徴、そして祝福そのもの。

このキズがあるからこそ、日車は自分の罪を忘れずに生きていける。だからこのキズは彼にとって生きる理由だ。

それを虎杖が理解した上での言葉だという事も分かっていた。

だからこそ何も言えなかったのだ。

「そんなに優しい目をしないでくれ」とも。

「狡いなぁ……日車はさ」

そんな気持ちを知ってか知らずか、小さく呟くとそのままゆっくりと身体を倒し……そっと唇を重ねた。

「そのキズ見る度にさ、俺がどんな気持ちになるか分かってるくせに。」

「……」

日車は何も言わない。いや、何も言えないのかもしれない。そんな彼の心情を知ってか知らずか……否、知っているのだろう。虎杖は続ける。

「俺、もう子供じゃないよ。日車が思ってるより、5年って長いんよ」

「………」

「だから、もう逃してやんないよ」

そして、もう一度唇を重ねる。

今度は先程よりも強く押し付けるように。

「んむ」

少し苦しそうな日車の声が部屋に響く。

(もう逃がさない)

これ以上無い、純粋な欲求を行動で現す。

もう言葉はいらないだろう。

言葉の代わりに行動で。

それにきっと日車は気付いている。

虎杖が伝えたい事に気付いてる上で……彼もまた応えようとしている。だからこのキスは一方的な行為では無い。お互いがお互いを求めているからこその行為なのだ。

(これだから日車は狡いんだよ……)

決して自分からは言い出さない。

虎杖を優先する癖に、1歩を踏み出す事が出来ずにいる。

それは日車が自分自身で解決しなければならない事だと分かっているからだろう。だが、同時に虎杖も分かっていた。彼があと1歩を踏み出せていない事。そしてそれが自分を守る為の枷だという事も。

それでも虎杖は待とうと思った。5年待った。

少年だった虎杖は、立派な成人男性へと成長した。

だからこそ、もう待てない。

(覚悟しといてって言ったのにね)

そう思うと不思議と笑いがこみ上げる。

ここまで待ったのだ。もう待てない。日車は絶対に自分からは踏み出す事が出来ないのだから。

だから、もう待つ必要は無い。

今度は日車の首筋へと唇を寄せ、強く吸い付く。

「っ!?」

驚いたような日車の声に思わず笑みが零れる。

「へへ、付いた」

そこには赤く咲いた華がひとつ。それをうっとりと眺めながら指先でなぞると、日車は小さく身震いした。

その反応に気を良くしながら、またもうひとつ、唇を寄せる。

「ね、俺……本気だから。冗談でこんな事しないよ」

「……っ!」

「もっと欲張りたい。5年も待ったんだから」

そう言って、またひとつ。

「でも、まだ足りない」

またひとつ。

「もっと、もっともっと」

またひとつ。

日車は何も答えない。ただ黙って虎杖の言葉を聞いているだけだった。その瞳には戸惑いと困惑が見て取れる。だから虎杖はまた続ける。

「ねぇ、日車……お願いだからさ……」

「……」

「好きって言ってよ」

そう呟いた瞬間、日車はそっと目を逸らした。そのまま無言の時間が流れる。

やがて、日車が静かに口を開いた。

「……俺ももう40を過ぎた。君とは21も離れている。……きっとこの先、君にはもっと良い人が現れる」

それに、と日車は言葉を続ける。

「…俺は罪人だ。あの時死ぬべきだった罪人。だから…」

そこまで聞いて、虎杖は日車の口に指を当てた。

「……それ以上は、言っちゃダメ」

そしてそのまま日車の手を取り、そっと指先に口付ける。

「俺が日車と居たいと思ってるから居るの。ただ、それだけ。……それ以上は言わないでよ」

まるで祈るかのような言葉を口にしてから、再び日車を見つめ……ゆっくりと告げた。

「じゃなきゃ5年も待たないよ」

その言葉に日車は目を見開く。

そして、少しの沈黙の後……静かに言葉を紡ぎ始めた。

「……5年前」

「うん?」

「君が……俺と共犯になると言った時、正直言うと嬉しかったんだ。」

「どうして……?」

その問いに、日車はまるで懺悔する信者のように項垂れたまま答える。

「君が……あまりにも眩しかったから。」

「は?」

予想外の答えに、思わず間の抜けた声が出る。そして日車は言葉を続けた。

「あの時も言ったが、君の傍に居ると俺は自分が嫌いになる。今もそれは変わらない…」

そう言って日車は言葉を続ける。

「それでも……いや、だからこそ……君の傍に居たいと思ってしまう……」

消え入りそうな声で紡がれたそれは紛れもない本心だった。

虎杖悠仁という少年が持つ眩しさは日車寛見にとって心地良いものだった。己の罪と向き合い続ける彼の瞳はいつでも澄んでいた。そんな瞳で見つめられると自分自身の罪を眼前に突きつけられている気分になる。

それが苦しいのに……何故か心地良かった。

少年は罪無くして罪と向き合い続けていた。

そして自分の罪を恐れる事なく、前を向いて歩いていた。それが日車には美しく見えたのだ。

だからこそ……彼の眩しさに目を焼かれ続ける事が辛くもありながら心地良いとも思っていた。

目を閉じてでも、背けてでも傍に居たかった。彼の為に何かを成したかった。

ぽつ、ぽつ、と日車は言葉を紡いでいく。

懺悔にも似た、後悔にも似た……贖罪の言葉。

「俺は君の優しさに漬け込んでいる。それなのに……」

それでも、と日車は思う。

この少年が傍に居てくれると言うのならば……自分と共に未来を歩んでくれると言うのならば……もう少しだけ、その眩しさに焼かれていても良いのでは無いかと。

そんな薄暗い感情を抱く自分に嫌悪しながらも、それを手放す事がどうしても出来なかった。

そんな日車の言葉を聞き終わった後、虎杖は深く息を吐いてから改めて日車の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。

「あのさぁ、日車ってバカなの?」

その言葉に日車は呆気に取られて何も言えなくなる。まさかこの流れで罵られるとは思ってもいなかったのだろう。そんな日車の心境を知ってか知らずか……虎杖は続ける。

「俺はさ、日車と一緒に居たいと思ってるから居るの。ただそれだけ。小難しい理屈とかいらない」

「……」

「日車と居たいから居る。日車の事好きだから一緒にいる。それ以上も以下もないっしょ。小難しい理屈とか必要なん?」

「……」

何も言えなかった。何故なら彼の言う通りだったから。

ただ、一緒にいたいから一緒にいるだけ。それだけの事だった。

「日車は難しく考えすぎ。理屈じゃないっしょ」

「……」

「そもそも……共犯って言い出したのも俺だし。」

「……だが」

「あーもう!」

何かを言おうとする日車の言葉を遮るように、虎杖は声を荒げた。

そしてそのまま続ける。

「さっきからネガい事ばっかじゃん。だったら何?俺の我慢した5年間は無駄ってこと?」

「いや……そういう事では……」

「そういう事だよ。勝手に一人で落ち込んで完結しないで」

「……」

何も言えなかった。

日車自身、なんだかんだと言い訳や理由を作ってその現実から逃げていた。

虎杖が寄せる想いを理解していながら、逃げ続けて来たのだ。

それを彼自身も分かっていたからこそ……何も言えなかった。

そして、再び部屋に沈黙が流れる。

暫くの間、何かを考えるように黙っていた日車だったが……意を決した様子で口を開いた。

「正直、君とどう向き合えば良いのかまだ分からない。理屈では君の想いを受け止めるべきだと思っているが……心がついていかないんだ。」

ぽつり、ぽつりと吐き出される言葉は弱々しく震えていて、普段の日車とは正反対の弱々しいものだった。

「俺は本当に君を幸せに出来る自信が無い。君はまだ若い。俺より相応しい人がきっと現れる筈だ……だが…」

そこで言葉を区切ると日車は黙り込む。だが……それは拒絶の言葉ではなかった。

むしろ逆の意味を持っている。

そして、絞り出すように続けた。

「それでも君が傍に居てくれるなら……もう少しだけ……この眩しさに焼かれていても良いと……思う」

そう言って日車は、そっと瞳を伏せた。

その様子はまるで何かを懇願するかのような……それでいて決意に満ちたものだった。そんな様子を見て、虎杖は柔らかく微笑む。

「なんだよそれ……」

そしてゆっくりと顔を近づけると耳元で囁いた。

「まどろっこしいの好きだよね、日車って」

その言葉に思わず苦笑する日車は彼にしては珍しい少し自信の無い声で続ける。それはまるで子供のようでもありながら、大人の甘えにも似た声音だった。

「40過ぎると上手く甘えることも出来やしないんだ」

そう言って日車は困った様に笑った。

その表情を見て、虎杖も笑う。

「へへっ……確かにそうかもね」

そう言って日車の顔を両手で包み込むと、彼の瞳をじっと覗き込みながら続ける。

「いいよ、別に無理に甘えようとしなくてもさ。その分俺が甘やかしてあげるから安心してよ」

その言葉を聞くと、今度は日車が少し安心した様に呟く。

「お手柔らかに頼む」

「はいはい、任せてよ」

そんなやり取りをして2人は小さく笑い合う。それから改めて日車は告げた。

「……俺は自分の罪を忘れないし、赦されないとも思っている」

その言葉に虎杖は何も言わずに耳を傾ける。日車の瞳は真っ直ぐにこちらを見ていた。

「だが……君が傍に居てくれるのなら……もう少しだけ罪と向き合いながら君と共に歩いていきたいと思う」

だから、とそこで一度言葉を区切ると再び口を開く。そして少し照れ臭そうに頬をかきながら彼は続けた。

「よろしく……頼む」

それはきっと彼の精一杯の言葉だった。不器用ながらも懸命に紡がれた言葉に、虎杖は嬉しそうに笑って返す。

「こちらこそ!」


「あぁそうだ。虎杖、これを。」

「なんこれ?通帳?」

「君の成人式祝いだ。好きに使ってくれ」

そう言って手渡された通帳を見て、閉じて、また開く。

何度見返しても0の数が多すぎる。

ポカンとする虎杖を横目に、日車は淡々と言う。

「死に損なった時から積み立てていた。安心してくれ、そこまで遺産がある訳では無いが受取人も君にしてある」

「なんで!?」

思わず声を上げると、彼は驚いた様子でこちらを見ていた。だが直ぐに納得したように呟く。

「年齢的にも俺が先に逝くからだが」

「そういう問題!?」

慌てる虎杖を見て、日車は不思議そうに首を傾げた。その様子に思わず頭を抱えたくなる衝動を抑えて改めて通帳に目を通す。

「やっぱさぁ、日車ってバカでしょ」

そういうと日車は少しムッとして答える。

「君よりは賢いつもりだが」

そう断言する日車に呆れながらも、虎杖は言葉を返す。

「そういうことじゃ無くて……いや、もう良いや。」

もう言っても無駄だろうと思い直し、諦めのため息をつくと日車が不思議そうにまた首を傾げた。

「うん、やっぱ日車はバカだ」

「さっきから失礼だな、君は」

そう言いながらも日車の表情は穏やかなもので、怒りという感情は見えない。それどころかどこか楽しそうにすら見えた。その様子を見て、虎杖は小さく笑ってから言葉を紡いだ。

「でもさ……ありがとうね」

そう言うと日車は照れた様に頭をかく。そして、少しだけぶっきらぼうに答えた。

「別に……礼を言われるほどの事じゃない」

そんな反応が面白くて、ついついまたからかいたくなってしまう。そんな虎杖に対して日車はため息混じりに続ける。

「まぁでも、成人祝いという事で受け取ってくれると嬉しい」

その言葉に虎杖は驚いた様子を見せたが、すぐに嬉しそうな表情を浮かべ、ぎゅうと抱きついた。

「っ……おい、いきなり抱き着くな」

焦りを含んだ声でそう言う日車だったが、その表情は満更でもなさそうだ。それを見て、虎杖はさらに力を込めて抱きしめた。

「痛い痛い、離してくれ……」

そう言う日車の声は言葉に反して、どこか嬉しげだった。それを感じた虎杖はさらに強く抱きしめると、そっと耳元で囁くように告げる。

「大切に使うよ、成人祝い……本当にありがとね」

それを聞いて、日車は小さく笑うとそっと彼の背に腕を回して抱き返す。そして呟くように言った。

「こちらこそ……ありがとう」

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