無為徒触

無為徒触




暗い通路を幼い真希は歩いていた。

双子の妹である真依を連れてくるのは止めた。彼女には今夜の計画を悟られないようにし、寝静まったのをしっかり確認して部屋を抜け出してきた。

呪霊を見ることで彼女に不要なトラウマは残したくなかった。かと言え彼女の性格も考え、自分が居ないとダメだと思わせたくもなかった。

だから、きっと今は、もう一人の「妹」に会わせる時じゃない。

真希は目を擦ると眼鏡を掛けなおした。

ここに来ることは禪院家の誰にもバレないよう子供ながらに細心の注意を払った。夜中の見張りの者もいないタイミングに確実に侵入できるよう睡眠時間も調整した。

真希は暗闇を睨みつけた。

目が慣れると凝視しなくても様子が見て取れるようになってきた。

そこは危険すぎて、普段は立ち入りが禁止されているし、幸い私も真依も放り込まれたことはない。真希は立ち止った。…今は。

真希は扉を見上げた。

目を凝らす。

ここに「妹」がいる。

真希は盗んだ鍵を錠前に挿し込み、全身の力を振り絞って重い扉を押し開けた。

そこは想像以上に広く、寒く、そして名状し難い異様な生臭さで満たされていた。

部屋はどこまでも暗かった。

真希は懐中電灯を持ってくるべきだったと後悔した。

足を何かが掴んだ。

「…真人?」

反対方向からまた何かが足を掴んだ。

真希はそれが懲罰房の呪霊だと気付き振り払った。真希に蹴り飛ばされ、何かはべちゃりと湿った音を立て床の上で潰れた。

真希は荒れた息を整え周囲を見渡す。

何かが妙だった。呪霊がそれ以上襲い掛かってくる気配はない。しかし、全て祓われたのならば呪霊の気配は消えているはず。

何かがおかしい。

「俺と呪霊の気配の区別が付かないのも無理はないよね」

声は顔のすぐそばで聞こえた。

真希は至近距離で誰かが口角を吊り上げる気配をはっきりと感じた。にもかかわらず、纏わりつくような闇でその姿はひどくぼやけて見えた。

それでも真希にはそれが誰なのかすぐに分かっていた。

男のものであるが高い声。異様に青白い肌。青灰色の髪。

幼少期のぼやけた記憶の中で知っている姿と一致した。

「会いに来てやったお姉ちゃんにキスもハグもしてくれないとは可愛くねえ妹だな?真人」

真希の近くからはすでに気配は消えていた。

「あんたらの事は散々聞かされてて知ってるんだよね」闇の中に声が響く。「出来損ないに出涸らしの双子。俺なら懲罰にすらならないこの部屋でも生き延びれないだろう雑魚。はっきり言って交流の価値が俺には全く分からない」

「つれねえこと言ってくれるじゃねえか」

返事の代わりに何かが擦れるような不快な金属音がした。真希は顔を上げた。

真希を取り囲むように巨大な肉塊が立っていた。よく見たらそれは無数の呪霊の集合体だった。姿形の違う低級呪霊の体の一部一部が融合しあい出来の悪い飴細工のようになっていた。

「半呪霊だから俺が呪霊を殺せないとでも思いこんでるんだろうね。実際半分くらい正解でさ、なるべく殺さないようにしようと思ったけど結構容赦なく食い千切ってくる。これは折衷案ってわけ」

肉塊呪霊はめちゃくちゃに融合したそこらじゅうの口から何かをぶつぶつと何かを呟いている。

「オマエの術式か?噂には聞いていたが呪霊の身体を弄れるとは悪趣味だな」

「正確には本質も仕組みも全く違う。俺の術式は…ま、言っても無駄か」真人はあくびをした。「お姉ちゃんには理解できないだろ」

真人の声は肉塊の中から聞こえた。呪霊の体内を移動しているようだった。

悪趣味な奴め。

ごそごそと真希を揶揄うかのように肉塊の中を蠢く真人の気配がする。このまま帰る訳にはいかねえんだよ。真希は目で追おうとした。

真希は息を呑んだ。

肉塊を構成する大勢の呪霊の目がすべて真希のほうを向いていた。

真希は派手に音を立てて尻もちをついた。

「あァははははは!」

笑い声は肉塊の口すべてから何重にも重なって反響した。

「…悪趣味な奴め」

立ち上がろうとする。

怖い。

膝ががくがく笑っている。

呪霊が怖い。

真希の目の前の肉塊の一部がぐにゃりと開口した。そこに真人がわざとらしく優雅に座り、真希を見下ろしていた。

…妹が、怖い。

「知ってるか?」真希は睨み返した。「お姉ちゃんに妹は絶対勝てないそうだ」

「フフッ…はははっ、そーなんだ、面白いね」

真人は明後日の方向を見てどうでもよさそうに笑った。その周りの呪霊がぶくぶくと泡立つ気配がし、真人の姿は再び肉塊の中に消えようとしていた。

真希はよろめいた拍子に手が床に落ちていた「それ」に触れた。

次に顔に手を遣り、何かを確かめると床の「それ」を拾い上げた。

「そうやって私にも真依からも尻尾巻いてコソコソすんのか?腰抜けが」

拒絶。

一瞬真希を睨みつけた目に映るのは確かな拒絶の意図だった。

「消えてね」

真人は濃厚な闇の中に姿を消した。

真希は再び一人で取り残されていた。

邪悪な狂気を孕んだ呪霊の気配だけが真希を取り巻いていた。

「俺とここの呪霊共の区別が付くようになってから来いよ、出来損ない」

真希は歩を進めた。

「勘違いしてるみたいだから言っておくけどこいつらにも禪院家にも俺は殺せない」

進むたびに纏わりつく呪霊の気配の言いようのない不快感ももはや気にならなかった。

「俺の気が向いたら適当に全部壊す。多分何も考えないでやるだろうし、もしお姉ちゃん達を殺してしまってもすぐに忘れるかもしれないね。…呪いらしく、人間らしく」

真希は笑った。ああ、やっぱりそうだ。

「帰った方がいいんじゃない?お姉ちゃん。ここの呪霊に殺されるのは勝手だけど俺の後味が悪いんだよね」

「真人、オマエも勘違いしてるみたいだから言っておくけど」真希は目を閉じ、深呼吸をすると目を見開いた。「今私に呪霊は見えてないんだわ」

暗闇の中で何かが息を呑んだ。

真希は眼鏡をくるりと回した。「オシャレでこれをつけている訳じゃないんでね。笑える話だろ?ものの弾みで取れでもしたら呪霊はちっとも見えねえよ」

私は出来損ないだからな。

暗闇の中で何かが身じろいだ。

「見えなきゃいないのとおんなじなんだよ。そしてオマエは何も怖くないふりして私たちを拒む。何でか?」真希は片膝を付くと暗闇に手を伸ばした。「オマエは自分が怖いものを自分で見えなくする力があった、それだけだ」

無数の呪霊の肉を搔き分ける不愉快な感覚のあとそれの手に触れた。真希は妹の手を握った。

それは抵抗せずに真希の手を受け入れた。

「私と妹は本来一人なのを無理矢理引き裂いたみたいに中途半端なんだよ。オマエが半呪霊の半端物なように、私達も出来損ないでどうしようもねえんだ。でも」

真希は身体を近づけると、そのツギハギまみれの体を静かに抱き寄せた。

「私達を何だと思ってるんだ?」真希は優しく髪を撫でた。「姉妹だぞ」

異色の両目から涙が零れた。

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